ホタルの話
今年はここに行くつもりさ❗
22日~23日が見頃なので、この日に行きたいけど雨が心配
カフェが、この一週間だけ、21時30分まで営業してるようだね。
http://komonoyasan.hatenablog.jp/entry/2017/06/03/170932
今年はここに行くつもりさ❗
22日~23日が見頃なので、この日に行きたいけど雨が心配
カフェが、この一週間だけ、21時30分まで営業してるようだね。
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『フライング東上』ってロンドン急行?
11月28日から走ってた。
小生「駅員さん、銀河鉄道999みたいだね。もしや車掌さんですか?」
駅員「違いますよ。足がながいでしょ」
小生「いつまで?」
駅員「期間限定です。一応今年いっぱいと聞いてます。」
小生「あの白?クリーム?より良いかもね?」
50年前まではこの色で走っていたのか?
ちょっと旅行かハイキングしてみようかな?
ネット記事を流用
[東武鉄道は10月22日、東上線の全線開業90周年を記念し、往年の看板列車『フライング東上』の塗装を再現した車両を11月28日から運行すると発表した。『TJライナー』などで運用されている50090形電車と小川町~寄居間などを走る8000系電車を使用し、濃い青と黄色帯のカラーを復刻する。
『フライング東上』は1949年から1967年まで運行された、かつての東上線の看板列車。主に春・秋の休日、東上線沿線や寄居駅で接続する秩父鉄道沿線などへの行楽客・ハイキング客の輸送を目的に運転され、戦後の行楽ブームの中で人気を呼んだ。愛称は、英国のロンドン~エディンバラ間を結ぶ特急列車『フライング・スコッツマン』にあやかったと言われている。
今回のリバイバルカラー車両は、『フライング東上』で運用された電車のうち、1950~1952年の54系と1952~1962年の53系で採用された塗装を再現。『フライング東上』の象徴だった濃い青をベースとし、窓下に黄色の帯を入れる。50090形(50092編成10両)はラッピング、8000系(8198編成4両)は塗装で再現する。
この2編成には、かつて『フライング東上』に取り付けられていたものをモチーフとしたヘッドマークも掲出。50090形は主に『TJライナー』として池袋~小川町間で約1年間、8000系は小川町~寄居間と越生線で当面の間、リバイバルカラーで運行する。]
地球の平和任務から帰還
ハイキング最終目的「平林寺」
ペティアから流用
平林寺(へいりんじ)は、埼玉県新座市野火止にある臨済宗妙心寺派の寺院である。山号は金鳳山。修行道場として僧堂が設置されている。境内林は、武蔵野の面影を残す雑木林として、昭和43年(1968年)に国の天然記念物に指定されている。
永和元年(1375年)、現在のさいたま市岩槻区に創建。開山は石室善玖(せきしつぜんきゅう)、開基は大田備州沙弥・蘊沢(うんたく)。当初は臨済宗建長寺派。大徳寺派を経て妙心寺派の寺院となった。なお、蘊沢は、岩槻城主・太田道真(道灌の父)と同一視されることがあるが、道真は平林寺創建の時点ではまだ生まれていない。
寛文3年(1663年) 川越藩主・松平信綱の遺志をうけて、子の輝綱が菩提寺として野火止に移転。
享保3年(1718年)、高玄岱が戴渓堂を建立し、独立性易の持仏を祀り、独立の碑文を書した。
平成21年(2009年)11月26日、今上天皇・皇后夫妻が訪問した[1]。なお、昭和52年(1977年)以来(皇太子時代)の再訪である
ハガキの語源かも?多羅葉
思い思いのメッセージがたくさん書かれてました。liveだね。
いよいよ、本日、北坂戸ストリート☆ミュージシャン
今日はいい天気にいい音楽でクールダウンします。
その後、噂の18番らーめんへGo
地球の平和を守る仕事が多忙
な為、遅くなりましたが
タイトルも変更して
ハイキングの史跡めぐりの一つ『野火止用水』
ウキペからchoice
野火止用水(のびどめようすい、のびとめようすい)は 、東京都立川市の玉川上水(小平監視所)から埼玉県新座市を通り新河岸川(志木市)に続く用水路である [1]。 別名を伊豆殿堀(いずどのぼり)という。 かつてはいろは樋をとおって、旧宗岡村にも水を送った。
要するに、関東ローム層の武蔵野地域は乾燥大地の為
作物と育たない。人が住めない地域だった。
またまた、ウキペからchoice
承応2年(1653年)、幕府老中で上水道工事を取り仕切っていた川越藩主松平信綱は、多摩川の水を羽村から武蔵野台地を通す玉川上水を開削した。その後、玉川上水から領内の野火止(新座市)への分水が許され、承応4年(1655年)に家臣の安松金右衛門と小畠助左衛門に補佐を命じ、野火止用水を作らせた。工期は40日、費用は3000両だった。玉川上水7、野火止用水3の割合で分水した[2]。主に飲料水や生活用水として利用され、後に田用水としても利用されるようになった。
開削に前後して川越藩では農民や家臣を多数入植させ、大規模な新田開発を行った。野火止用水の開削によって人々の生活が豊かになったことを信綱に感謝し、野火止用水を信綱の官途名乗りである「伊豆守」にあやかって伊豆殿堀と呼ぶようになった。新座市立野寺小学校の校歌には「めぐみの水よ 伊豆堀よ」という歌詞があるほか、他市立小学校でも「智慧伊豆の流れを汲んで」と、信綱(と安松らの功労者たち)の人柄や向学心を歌詞とした校歌が歌われている。
ちなみに、坂戸市も川越藩だったとさ。