坂戸市公益活動団体『北坂戸フォークソング倶楽部』(山木ジョージの桜梅桃李)

 
1960年代~現在の歌を中心に皆さんと一緒に、ギター1本で合唱を楽しむサークルです。

残念ですね。そんなお知らせ

2020年07月25日 | 北坂戸フォークソング倶楽部の活動風景

北坂戸フォークソング倶楽部の発起人 山木ジョージです。

令和2年坂戸市立北坂戸公民館文化祭中止のお知らせ
「残念ですが宜しく😢⤵️⤵️
令和2年度は全て中止のお知らせしてますが、やはり残念ですね。令和3年度度も、状況によっては中止します。もしかしたら、お会いするのは令和4年4月(2022年4月)
健康に気をつけて、長生きしましょうね。」by山木ジョージ


神田川

2020年07月20日 | 音楽

 

北坂戸フォークソング倶楽部の発起人 山木ジョージです。

 

神田川」(かんだがわ)は、かぐや姫(当時のグループ名は、南こうせつとかぐや姫)が歌った日本フォークソング1973年(昭和48年)9月20日にシングルが発売された。

 

リード・ボーカルは南こうせつ。バイオリン演奏は武川雅寛

文化放送放送作家をしていた喜多条忠に、新曲のキャンペーンで訪れていた南こうせつが作詞を依頼した。喜多条は帰宅後、新聞の折込チラシの裏に自らの学生時代のほろ苦い想い出を綴り、歌詞を作った。仕上がった作品を電話口で伝えたところ、南は聞いた瞬間にもう旋律が浮かんでいたという。

第一番の歌詞にて、女性の側が銭湯の風呂上がりに、何時も待たされるという描写があるが、これは喜多条が銭湯で飼われていた鯉に餌をやり、観賞していた為である(クイズ日本人の質問より)。

当初、この作品は『かぐや姫さあど』(LP、1973年7月20日発売)の収録曲だったが、当時南こうせつがDJを担当していたTBSラジオ深夜放送ラジオ番組パックインミュージック』で本作を流したところ、聴取者からのリクエストが殺到し、同番組のリクエストランキング1位を獲得した。これを受けて日本クラウン社内で制作会議を開いてシングル盤として発売するかどうかを決める際、名物プロデューサーであった馬渕玄三が「この曲は歴史に残る名曲になる。これを出さなかったら日本クラウンは一生の恥をかくことになるぞ」と強力にシングルカットを推したため、「神田川」はフラット・マンドリンの演奏を追加したバージョンをレコーディングした上で改めてシングル盤として発売された。このシングル盤は、最終的に120万枚[3]または160万枚[4]、200万枚以上[5]を売り上げ、かぐや姫にとって最大のヒット曲となった。

これだけのヒットを飛ばした「神田川」だったが、歌詞の2番に登場する「24色の『クレパス』買って」が商標名であることから、同年の『第24回NHK紅白歌合戦』の出演依頼が来た際にNHKから「(広告・宣伝放送を禁止した放送法83条1項及び日本放送協会定款51条に抵触する)『クレパス』という歌詞を(同法に抵触しない)『クレヨン』に修正せよ」と要請されたため出場を拒否している。NHK紅白歌合戦で、この歌がオリジナルのままで歌われたのは、南こうせつがソロで初出場を果たした1992年平成4年)の『第43回NHK紅白歌合戦』であり、レコード発売から19年後のことだった。

1970年代の若者文化を象徴する作品のひとつに数えられており、中野区内の末広橋近くの公園には「神田川」の歌碑が建てられている。なお、実際の歌の舞台はもっと下流の戸田平橋付近で、喜多条が住んでいた「三畳一間の小さな下宿」は豊島区高田3丁目7-17に所在した「千登世旅館」(2008年廃業)の隣にあったといわれる。

2005年にNHKが実施した「スキウタ〜紅白みんなでアンケート〜」で白組28位にランクインされた。

2011年8月8日に放送されたテレビ東京系列のアニメ『銀魂'』第220話「銭湯では身も心も丸裸」にて、挿入歌として使用された。

2016年3月12日BSジャパン開局15周年特別企画ドラマスペシャル『青春の名曲ストーリー』でのオムニバスドラマの1編にて、本作をモチーフにした同名タイトルのドラマが放送された

 


『ダイアナ』ポール・アンカ

2020年07月13日 | 音楽

 

 

ダイアナ」(Diana) は、1957年ポール・アンカが作詞作曲し、自ら歌って有名にした楽曲で、1957年5月にニューヨークドン・コスタ英語版)のスタジオで録音された。その後、RCAレコードと契約した後、アンカは「ダイアナ」など数多くのヒット曲を1963年に再録音した。これらのバージョンは、イタリアでも、特別なLPとして発売された。

この曲は、アンカの高校時代の同級生であったダイナ・アユーブ (Diana Ayoub) からヒントを得たともいわれている、2005年ナショナル・パブリック・ラジオ (NPR) のテリー・グロス英語版)が行ったインタビューの中で、アンカは、教会で出会った、ほとんど知らない少女から示唆を受けたと述べている。録音に参加したスタジオ・ミュージシャンの中には、ギターのバッキー・ピザレリ英語版)、ピアノのアーヴィング・ウェックスラー (Irving Wexler)、ベースのジェリー・ブルーノ (Jerry Bruno)、ドラムスのパナマ・フランシス英語版)らがいた。録音は、1957年5月にRCAのスタジオで行われた。バッキング・ボーカルのひとりは、アーティー・リップ英語版)(後のレコード会社重役)であった。

ポール・アンカ自身による1957年のオリジナル盤は『ビルボード』誌の総合チャートであるトップ100では最高2位にとどまったが、「ベスト・セラーズ・イン・ストアズ (Best Sellers In Stores)」チャートで首位となり、のべ900万枚を売り上げたといわれている。「ダイアナ」はR&B・ベスト・セラーのチャートでも首位に立った[5]。また、この曲は全英シングルチャートでも首位となり、イギリスでも125万枚を売り上げた。

この曲には、数多くのカバーが存在している。1958年には、アンカ自身がイタリア語のバージョン(題名は英語と同じ「Diana」)を歌ったが、この歌詞を書いたのはマリオ・パンツェリイタリア語版)であった。

フランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズも、この曲をカバーしている。1965年ボビー・ライデルがこの曲をカバーしてシングルとして出し、Billboard Hot 100の98位、『ビルボード』誌の「ミドル・ロード・シングルズ (Middle Road Singles)」のチャートで23位まで上昇した。

リッキー・マーティンは、(スペイン語の歌詞で歌われた1996年の)アンカのアルバム『Amigos』で、この曲をアンカとデュエットした。2006年には、イタリアの著名な歌手エンターテイナーであるアドリアーノ・チェレンターノとアンカのデュエットが、モゴルイタリア語版)ことジュリオ・ラペッティ (Giulio Rapetti]) とチェレンターノの共作で新たに書かれたイタリア語の歌詞による「Oh Diana」として発表された。

ブルガリアのバンド、ウィケダ英語版)は、バルカン半島民謡の要素を盛り込んで、この曲をカバーしており、またホラー・パンクのバンドであるミスフィッツは、アルバム『Project 1950』にこの曲を収録している。

この曲は、インドのヒンディー語映画映画音楽でも2回カバーされており、いずれも1959年の映画であった。そのひとつは、映画『Dil Deke Dekho』で「Kaun yeh aaya mehfil me」として歌われたもので、音楽担当はウシャ・カンナ英語版)であった。もうひとつは、映画『Baap Bete[11]で「Bol bol bol my little dove」として歌われたもので、音楽担当はマダン・マホン英語版)であった。いずれの曲も、歌ったのはモハメド・ラフィであっ

「ダイアナ」は、いわゆる「ロカビリー」のブームが起こっていた日本でもヒットし、日本語詞を盛り込んだカバー・バージョンが、いろいろ制作された。渡舟人の日本語詞で山下敬二郎が歌った「ダイアナ」は山下の代表曲とされる[13]。「ダイアナ」は、山下敬二郎の1958年4月のデビュー・シングル「バルコニーに坐って」のB面曲であったが、平尾昌章(のち昌晃)音羽たかし名義の日本語詞でシングル「ダイアナ」を出し、B面に「バルコニーにすわって」を収録した。ロックンロール・ミュージック/ヒデキ 1977年に発売された西城秀樹 のカバー・アルバム(LP)に収録。


ふたりの愛ランド 石川優子とチャゲ

2020年07月05日 | 音楽

北坂戸フォークソング倶楽部の発起人 山木ジョージです。

1984年当時 学生でガールフレンドも居ない 土日は図書館通いの地味な学生の小生

それでも憧れたね。2人の『アイランド』そんな喫茶店もあったっけネ

この音楽聞くと当時の事を思い出すネ!

それでは手抜き紹介でーす。

 

「ふたりの愛ランド」(ふたりのあいランド)は、石川優子とチャゲ(現:Chage)のコラボレーション・シングル。1984年4月21日に発売された。発売元はラジオシティ。

当時、チャゲ&飛鳥(現:CHAGE and ASKA)のシングルA面は、全て飛鳥涼(現:ASKA)がメインボーカルをとっていたために、チャゲは、シンガーソングライターとして単独でもやっていけるほどの充分な実力を有しながらも、自身がメインボーカルを務める楽曲は常にB面にとどまっており、彼の目立つ機会は皆無といっていい程だった。

ヤマハ音楽振興会としても、チャゲを前面に押し出して売り出す機会を狙っていた。そんな折に、JALのCMソングとしてヤマハに依頼があり、そこでチャゲの作った「ふたりの愛ランド」に白羽の矢が立ったのであった。ただ、あまりにもチャゲ&飛鳥とは曲調が異なり、本人もシャレのつもりで書いたものだっただけに、ヤマハの制作プロデューサー・山里剛が、(飛鳥と組むのではなく)前年にJALのキャンペーンソングを担当した石川優子のマネージャーとディレクターに石川と組むことを提案し、それが採用された。

チャゲは当初、この曲は男女のデュエットを想定せずに自分の歌いやすいキーで作曲していたため、その後キーの合わせ方にかなり苦心したという。

累計では45万枚を売り上げた[4]。

石川も、チャゲと時期を同じくしてデビューしたシンガーソングライターであり、1981年には石川自身作詞・作曲を手掛けた「シンデレラ サマー」(当曲もJAL'81・沖縄キャンペーンソング)がヒットし、当時既にトップアーティストの仲間入りを果たしていた。

「ふたりの愛ランド」と「渚の誓い」のオリジナルバージョンは石川のアルバムには収録された事があるが、チャゲのアルバムには収録された事が無い。2009年発売の「Many Happy Returns」に「ふたりの愛ランド2009」として再録されたものが収録されている(石川も参加)。また、2012年には限定シングル「GO!GO!GO!」のカップリングに「チャゲトルズ・カヴァーバージョン」としてセルフカバーしたものが収録された(女性パートは久松史奈が担当)。