A DAY IN THE LIFE

好きなゴルフと古いLPやCDの棚卸しをしながらのJAZZの話題を中心に。

軽快なドラムをバックに有名アレンジャーの作品の品評会をライブで・・・

2015-05-01 | MY FAVORITE ALBUM
Big Band Jazz From The Summit / Louis Bellson

最近あまり行われないがマイクプライスのビッグバンドのライブを聴きに行くとエリントンの曲に加え西海岸のアレンジャーの作品を取り上げることが多い。彼が若い頃過ごしたバディーリッチやスタンケントンオーケストラは西海岸のアレンジャーの作品が多かった。日本に来る前には、西海岸で活動していたので地元の知り合いも多いようだ。

西海岸のアレンジャーというと、ビルホルマン、サムニスティコなどが有名だが、最近ではゴードングッドウィンなどもオーケストラを含めて人気があるようだ。
西海岸のアレンジャーが活躍し始めたのは、映画音楽の興隆と合わせて、ウェストコーストジャズの全盛期50年代に遡るが、ビルホルマンなどの長老達はそこの当時から活躍を続ける第一人者。当時は、他にもマティーペイチ、ショーティーロジャースなどスタンケントンやウディハーマンオーケストラ出身者がプレーだけでなくアレンジャーとしても大活躍していた。

ビッグバンドドラマーというとバディーリッチがすぐに思い浮かぶが、もう一方の雄はルイベルソンだと思う。歯切れの良いドラミングはビッグバンドだけでなく、コンボでの演奏でもメリハリの効いた絶妙なタイム感を持っている。好きなドラマーの一人だ。
このベルソンというと、エリントンオーケストラでのスキンディープが有名だ、他にもベイシーを始めとした有名オーケストラにも在籍したことがあるがいずれも看板にはなっても長続きはしなかったようだ。

やはり、根っからのビッグバンド好きで、自分のイメージもあったのだろう、自らのビッグバンドもよく編成していた。レコーディングだけでなく地元のクラブでのライブ演奏も積極的に行っていた。その時の様子は自分でレコーディングを手配することもあり、後になって世に出たものも多い。コンコルドレーベルにもベルソンのビッグバンドのアルバムは何枚かあるが、その中にもプライベートで作ったアルバムが再び陽の目を見たものがある

ケニークラーク&フランシーボランがヨーロッパで新たなビッグバンドを立ち上げたのが61年、この時、本家アメリカのビッグバンド事情は冬の時代を迎え、レギュラーオーケストラを維持していくのは名門といえども難しくなっていた。まして、新しいビッグバンドの登場も殆どなかった頃だ。

そんな状況の1962年、ルイベルソンはビッグバンド編成で、地元ロスのクラブ「ザ・サミット」に出演した。編成は、標準的なビッグバンド編成に加えてフレンチホルンとチューバが加わっているのが特徴だが、アレンジでもこれらが上手く使われている。
その時の演奏がライブレコーディングされルーレットレーベルからリリースされた。このバンドにはロスで活躍していたスタジオミュージシャンが参加し、コンテカンドリやジョーマイニといった実力あるソリストも加わっている。しかし、演奏自体はどちらかというと当時の西海岸で活躍して新進気鋭のアレンジャーの作品のお披露目の場といってもいいかもしれない。レコーディングエンジニアは、ライブ録音が得意なWally Heider、いい音とバランスで収録されている。

アルト奏者としても有名なベニーカーターもこの頃はアレンジャーとしての仕事も多かった。このカーターのアレンジが7曲、他にもマティーペイチ、ショーティーロジャース、ボブフローレンスなどの編曲が並ぶ。曲もウェストサイドストーリーからのクールを除けば、スタンダード曲ではなくオリジナル曲が並ぶ。とはいっても大作ではなく、どれもスインギーなベルソンのバンドにはお似合いの曲。短いソロを挟みながら、どれもアレンジャーの腕比べといった感じだ。最後の曲はベルソンのオリジナル曲だが、ベルソンはドラマーであっても作曲も得意だったようだが、ここではベルソンのドラムもフィーチャーされる。

所有盤はフレッシュサウンドのCDだが、この盤にはこのライブの余韻が残っている直後に行われたスタジオ録音の曲が8曲追加されている。それもお蔵入りしていた未発表録音。フレッシュサウンドのアルバムはこのようなファンの心理をくすぐる様な編集が多い。

こちらの編成は9人編成の大型コンボ。ライブの時のメンバーとの重複が多いが、トロンボーンのフランクソロリーノも参加して、ソリストが一段と充実している。編成だけでなく選曲も当時のジャズのヒット曲が並び、少し趣が違っていて面白い。

バディーリッチなど新しいビッグバンドが登場してくるのは60年代の後半。ビッグバンドの火を消さないように頑張っていた時代の演奏だ。

連休中は東京TUC新宿SOMEDAYで連日ビッグバンドのライブが続く。晴天が続くようだがゴルフは休みにしてライブ通いをしてみようと思う。

1. Who's Who
2. Cool
3. Amoroso
4. Prelude
5. Gumshoe
6. Blitzen
7. St. Louie
8. Moon Is Low
9. Doozy
10. Lou's Blues
11. With Bells On
12. The Diplomat Speak
13. Chop Chop Waltz
14. The Dipsy Doodle
15. Blowing The Blues
16. Opus De Funk
17. Cotton Tail
18. Walkin'
19. Moanin'
20. Don'cha Go ‘Way Mad - incomplete

#1〜12
John Andino ,Conte Candoli, Frank Huggins, Jimmie Zito, , Ray Triseari(1stnight), Uan Rasey(2nd night), Al Parcino(3rd night) (tp)
Mike Barone, Nick Di Mario (tb)
Ernie Tack (btb)
Bill Perkins, Carrington Visor (ts)
Joe Maini, Willie Green (as)
Teddy Lee (bs)
Art Maebe (fhr)
Red Callender (tuba)
Lou Levy (p)
Gene Estes (vibe,boo bams)
Tony Rizzi (g)
Jimmy Bond (b)
Louis Bellson (ds)

Arranged by
Benny Carter (#1,3,5,6,8,9 &10)
Mart Paich (#2,7)
George Williams (#4)
Shorty Rogers (#11)
Bob Frlorence (#12)

Produced by Teddy Reig
Recorded Live at The Summit, 6507 Sunset Blvd. Hollywood, Ca. January 22, 23 & 24 , 1962

#13〜20
Donte Candori (tp)
Jimmy Rito (tb)
Frank Rosolino (tb)
Joe Maini (as)
Carrington Visor (ts)
Bill Perkins (bs)
Lou Levy (p)
Jimmy Bond (b)
Louie Bellson (ds)

Arranged by Marty Paich
Recorded at United Recorders Studio, Hollywood, January 25 & 26, 1962
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レスターケーニッヒが復帰を支えたもう一人の大物は・・・

2015-04-29 | MY FAVORITE ALBUM
Please Send Me Someone To Love / Phineas Newborn Jr.

誰でも一生の間、一度や二度は何らかの苦境に立つことがある。その時、頼りになる友がいるといないではその後の人生が大きく変る。

1968年アートペッパーが、長い療養の後、やっとバディーリッチのオーケストラに加わって復帰の第一歩を踏み出した矢先、胸の痛みで病院に担ぎ込まれた。その時、ペッパーがすぐに呼んだ名前はその後結婚するローリーと、コンテンポラリーレコードのオーナー、レスターケーニッヒであったという。

その時、直ちに手術が必要という状況であったが、保険に加入できず、手持ちのお金も無くすぐに手術を受けられなかったペッパーを救ったのはバディーリッチであった。
これで一命をとりとめたペッパーはその後無事心身ともに回復し、ケーニッヒの元で復帰アルバムを作ることになる。もしこの時に、誰か一人が欠けてもその後のペッパーの人生は大きく変ったかもしれない。

今の時代、すべてがお金優先になってしまった。物でも人でも使い物にならなくなるとすぐに捨てられる運命にある。昨今の業界事情には詳しくないが、金儲けを度外視してミュージシャンと信頼関係を築けているプロデューサーが果たして何人いるであろうか?特に、落ちぶれたミュージシャンをもう一度再起させる面倒を見続けられる人間が。ケーニッヒを始めとして、この時代のプロデューサーは、ジャズが好きで、ミュージシャンに惚れ込んでアルバム作りをしたプロデューサーが何人もいたように思う。

アートペッパーの復帰を支えたレスターケーニッヒは、もう一人大事なミュージシャンの復帰に手を貸している。自らのレーベルでもアルバムを出したピアノのフィニアスニューボーンJr.である。

ニューボーンは良く知られているように精神的な障害でプレーができなくなったという。天才肌で、テクニックも、表現力も、どれをとっても同時代のピアノの名手達と較べてもけっして引けを取らない。
他の多くのピアニストがバドパウエルの影響を受け右手中心のプレーをしたなかで、一人左手も重視するスタイルを引き継いでいた。だからといって、オールドスタイルをそのままという訳ではない。
本来であれば、ワンアンドオンリーのスタイルでもっと人気が出ても良かったはずだが、あまり脚光を浴びることはなかった。天才肌の人間というのは、どんな分野でもその時代には評価されず、後になって再評価されることが多いが、ニューボーンもそんな一人であったのだろう。

ダイナミックなプレーを聴くと、オスカーピーターソンのような堂々とした体格、そして風格を持ち合わせている印象を受けるが、実際には小柄な目立たたない風貌だったようだ。きっと性格的にも気が小さいタイプであったのだろう。そして、極端に潔癖症であったという。才能があるが故に評価されないということを、些細な事を気にして精神的に大きなプレッシャーを受けていたのかもしれない。

60年代に入って精神障害で療養を強いられる。地元に戻り半ば引退状態であったニューボーンに再びアルバム作りの場を用意したのがレスターケーニッヒであった。
1969年2月、久々にスタジオにメンバーの面々が集まった。ベースにはレイブラウン。そして、ドラムにはエルビンジョーンズ。
いつものエンジニア、ロイデュナンは都合がつかず、録音はケーニッヒ自身がやったそうだ。

特段何の打ち合わせも無く、ニューボーンのペースで録音は進んだという。大部分の曲は録り直しも無くtake1で終了、自然発生的な演奏であった。それができたのも、レイブラウンとエルビンを選んだケーニッヒの眼力と、それに応えた2人の力量のお蔭だ。2日間に渡った録音はアルバム2枚分になった。その中からとりあえずこのアルバムPlease Send Me Someone to Loveが発売され、残りの曲は後にHarlem Bluesで世に出た。

この録音の殆どがtake1で終えたという事は、あまり細かい事にはとらわれず、ニューボーンのピアノを中心に皆で思いの丈を出し合った演奏ということになる。どちらのアルバムがいいとか、どの曲がいいかは、あくまでも聴き手の主観でいいだろう。それよりこの2枚は2日間にわたるニューボーン復活のドキュメンタリーと考えるべきアルバムだと思う。何といっても、このアルバムの前後10年近くの間には他の演奏を聴く事はできないのだから。

その後もニューボーンの体調は一進一退を繰り返す。最後まで、ニューボーンを見守り、機会があるごとに演奏を再開することを促し、アドバイスしたのは、このセッションに参加したレイブラウンであった。そして5年近く経ってからのレコーディングにも付き合っている。ニューボーンが病気に苦しみながらも何度か復帰を試みられたのはレイブラウンのお蔭ということになる。

レイブラウンはピーターソンの元を離れてからは西海岸を拠点として、数多くのセッションやレコーディングに参加し、誰とでもオールマイティーな活躍をしてきた。引手数多で楽しくプレーをすることには何の不自由もなかった自分と、いつもきっかけを掴めず、せっかく掴んだきっかけをものにできずにいたニューボーンを比較すると、彼の事がいつも気に掛かっていたのだろう。

同じ天才でも2人の辿った道は大きく異なった。

1. Please Send Me Someone to Love         Percy Mayfield 5:05
2. Rough Ridin'   Ella Fitzgerald / Elvin Jones / William Tennyson 4:09
3. Come Sunday                Duke Ellington 4:52
4. Brentwood Blues            Phineas Newborn, Jr. 8:01
5. He's a Real Gone Guy             Nellie Lutcher 4:39
6. Black Coffee        Sonny Burke / Paul Francis Webster 7:03
7. Little Niles                  Randy Weston 4:20
8. Stay on It           Tadd Dameron / Dizzy Gillespie 5:05

Phineas Newborn, Jr. (p)
Ray Brown (b)
Elvin Jones (ds)

Produced & Recorded by Lester Koenig
Recorded at Contemporary Studio in Los Angeles on February 12, 13 1969

Please Send Me Someone to Love
クリエーター情報なし
Ojc
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熱心なファンのお蔭で、2人の出会いから時間が経たないうちに初アルバムが

2015-04-23 | MY FAVORITE ALBUM
Jazz Is Universal / Kenny Clarke & Francy Boland Big Band

リーダーアルバムBig Brassをアメリカに戻って録音したベニーベイリー、翌年再びクインシージョーンズのオーケストラに加わってヨーロッパに渡ると、そのまま西ドイツに留まり活動の拠点をヨーロッパに置いた。

当時、ヨーロッパで活動していたアメリカのジャズミュージシャンは多く、ドラムのケニークラークもその一人であった。MJQを辞めたのが1955年、その年と翌56年はフリータンスとして、特にSavoyレーベルではハウスドラマーとして数多くのアルバムを残している。
ところが、その56年にクラークはアメリカでの仕事を精算してフランスに渡る。まさにハードバップ全盛期を迎え、さあこれからというタイミングに何故?と思うのだが・・。

どうやらこれは、1946年に結婚したカーメンマクレーとの関係を清算したのが理由らしい。そこ頃まではマクレーはまだピアニストとしての仕事が多く、歌手としてはまだ第一人者にはなっていなかった。夫婦関係も、クラークの浮気で必ずしも上手くいっていなかったようだ。
55年になってやっとアルバム”By Special Request”が作られる。これを機に、彼女が歌手として独り立ちできる確信を得たのも、2人がそれぞれの道を行く決心をしたひとつのきっかけだったのだろう。

ヨーロッパに活動拠点を移したクラークはスタジオの仕事をする一方、ヨーロッパに来るアメリカのミュージシャンともよく共演していた。しかし、アメリカのジャズ界が活況を呈していた中、本来であればその中心的な役割を果たしていたはずだが、何となく主流から外れてしまっていた感じもする。

そのような活動をしていた1959年にベルギーのピアニストフランシーボランと共演する機会があった。意気投合した2人は、ボランが作編曲も得意としていたこともあり、2人のビッグバンドを持ちたいという夢を持つようになった。ちょうど時代も同じ、サドメルのサドジョーンズとメルルイスの出会いのようなものであった。
しかし、経済的な面でレギュラーバンドをすぐには持てないのはヨーロッパでもアメリカでも同じであった。そこで、まずはオクテットから活動を始めた。

サドメルと較べると素早い対応であったが、実は、この2人の活動をサポートした西ドイツのケルン出身のジジ・カンピという人物がいた。熱狂的なジャズマニアで、自らプロデュース、メンバー集めレコード制作、クラブ出演の段取りまでつけていたようだ。彼のお蔭でまずはオクテットの録音が完成する。

次はビッグバンドという事になったが、これはケルンに新しくできたジャズクラブ「ストーリー・クラブ」のこけら落としのために編成するという段取りをつけた。メンバーはアメリカそしてヨーロッパ中から集めたオールスターズ編成。しかし、いざ本番という時に、クラブ側の不手際で公演がキャンセルとなってしまった。
サドメルでの初の日本公演で同じようなトラブルがあったが、このカンピの偉い所は、せっかくミュージシャンがスケジュールを空けて集まってくれるのであれば、ライブは駄目でもレコーディングをしようということで、急遽予定を変更した。

公演の方はゲスト歌手も呼ぶプログラムになっていたが、アルバムの方はビッグバンドオンリー。作編曲を担当したボランも、であればということで急遽、曲やアレンジを書き直してレコーディングに臨むことになった。

そして、目出度くこのアルバムが誕生した訳だが、結果的にこのアルバムがクラーク・ボランビッグバンドの初アルバムという事になった。メンバーはアメリカを含む7か国から集まったオールスターメンバー。
トランペットセクションには、すでにヨーロッパではお馴染みのベニーベイリーも加わった。

このクラーク・ボランのビッグバンドはその後MPSレーベルで作られたアルバムが多い。重厚なオーケストラサウンドはMPSの録音のせいかと思っていた。それで、この初アルバムは少し厚みが足りないのかと思ったら、編成が標準編成よりメンバーが少ない。しかし、あの重戦車のような迫力に通じる音はしている。やかり、ボランのアレンジ、そしてクラークのドラミングに因る所も大きいのだろう。

サドメルよりも一足先にスタートしたこの2人のビッグバンドも、これから10年近く活動する。60年代を代表するビッグバンドの一つであり、自分の好きなビッグバンドでもある。このカンピはバラバラに活動してメンバー達を年に2カ月は、このクラーク・ボランのビッグバンドに参加させるべく飛び廻っていたらしい。国をまたがったオールスターバンドだが、熱心なジャズファンジジカンピがいたので、無事に立ち上がることが出来、継続して活動できたのであろう。

1. Box 703, Washington, D. C.           Francy Boland 5:02
2. The Styx                   Francy Boland 3:50
3. Gloria                     Bronislaw Kaper 4:35
4. Los Bravos                    Francy Boland 5:00
5. Charon's Ferry                  Francy Boland 6:06
6. Volutes                       Francy Boland 5:56
7. Last Train From Overbrook             James Moody 6:37

Ahmed Muvaffak Falay, Benny Bailey, Jimmy Deuchar, Roger Guerin (tp)
Pat Peck, Ake Persson(tb)
Derek Humble (as)
Carl Drevo, Zoot Sims (ts)
Sahib Shihab (bs,fl)
Francy Boland (p.arr)
Jimmy Woode (b)
Kenny Clarke (ds)

Supervised By Gigi Campi
Enginee : Wolfgang Hirschmann
Recorded in Cologne, West Germany, December 13, 1961

ジャズ・イズ・ユニヴァーサル
クリエーター情報なし
ワーナーミュージック・ジャパン
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サックスとコーラスグループのアンサンブルの心地良さは格別・・

2015-04-21 | MY FAVORITE ALBUM
Supersax & L.A. Voices

パーカーのアドリブをサックスのアンサンブルで演奏するグループ「スーパーサックス」を企画し、実際に立ち上げたのがメッドフローリー。彼が最初にこのアイディアを思いついたのは、アートペッパーやジョーマイーニと一緒にプレーをしていた時だった。しかし、ペッパーがプレーを止め、マイーニが亡くなったこともあり、そのアイディアを数曲譜面に起こしリハーサルを数回やったところでせっかくの企画もお蔵入となってしまった。

レパートリーを増やし、実際にクラブに出演してファンの前でお披露目をし、そしてレコーディングをしたのは10年後の1973年になってからであった。その時、譜面作りに協力したのがベースのバディークラーク。当の本人メッドフローリーがその作業に時間がとれなかった最大の理由は、演奏が忙しかったのではなく、60年代になってから始めた俳優業との2足の草鞋を履く生活で多忙を極めたからという。「一芸に秀でる者は多芸に通ず」といわれるが、このフローリーも音楽の方も演奏だけでなく作編曲もこなし、映画も俳優業に加えて映画のシナリオ書きにも手を染めたという多芸ぶりであった。それらをこなすためには、自分で作ったバンドもお守りができずテリーギブスに譲ったそうだ。

スーパーサックスはアイディアも演奏も素晴らしく、いきなり初アルバムがグラミー賞を受賞した。このような尖がった企画は、最初は話題になってもすぐに飽きられることが多い。一回限りで解散かと思ったら、結果的にかなり長期間続いた。日本でのライブでもそうであったが、ライブでは各人のソロパートを増やし、パーカー以外の作品も手掛けるようになった。しかし、アルバムも何枚か出すと、どうしても何か新たな切り口が欲しくなるものだが・・・・

アイディアマンであり、才能豊かなフローリーは、今度はコーラスグループとのジョイント企画を考えた。アイディアが決まれば自ら率先垂範、あとは実行あるのみ。自らが音頭をとってボーカルグループL.A. Voicesを編成し、スーパーサックスとの共演アルバムを作った。
コーラスグループのリーダーは女性のスーレイニー。フローリーを加えた5人組だった。他のメンバーもロスで、多様なスタジオワークをこなす面々だったので、見事なアンサンブルをこなすコーラスグループがすぐに誕生した。



この最初のアルバムを作ったのは1982年の暮れから翌年明けにかけて。ス-パーサックスを立ち上げてから10年近くが経ってから。ちょうど時代はマンハッタントランスファーも有名になり、モダンコーラスグループがもてはやされていた時でもあった。
コンセプトは同じでパーカーソロをアンサンブルにしているが、このアルバムではLAというフローリーのオリジナル曲も加わっている。
サックスのアンサンブルにコーラスグループの組み合わせは、聴いていて実に心地よい。
激しいソロプレーを堪能した後には、このようなアンサンブルでリラックスするのもいいものだ。アンサンブル好きにはたまらないサウンドだ。

このフローリーも昨年亡くなっていた。演奏だけでなく色々楽しませてくれた多芸な持ち主のフローリーであったのだが・・・



1. Embraceable You
2.Dancing In The Dark
3. The Song Is You
4. Star Dust
5. LA
6. In the Still Of The Night
7. Don't Blame Me
8. Stella By Starlight
9. Star Eyes
10. Old Folks

The L.A. Voices
Sue Raney (Lead)
Melissa Mackay (Alto)
John Bahler (Tenor)
Gene Merlino (Baritone <Vocal Conductor>)
Med Flory (Bass)

Supersax
Med Flory (as)
Lanny Morgan (as)
Ray Reed (ts)
Jay Migliori (ts)
Jack Nimitz (bs)
Conte Candoli (tp)
Lou Levy (p)
Monty Budwig (b)
John Dentz (ds)

Produced by Edward Yelin & Med Flory
Engineer : Hugh Davis
Recorded at Capital Records, Studio A in End of December 1982、January & February 1983
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アートペッパーの復帰は、ペッパーを支えた夫人と昔の仲間に囲まれて・・・

2015-04-20 | MY FAVORITE ALBUM
Living Legends / Art Pepper

人生何をやっていても挫折を味わう事がある。捲土重来を期して再チャレンジを目指すものの、それを実現するには並々ならない努力と、それを支える人がいないと難しいものだ。
アートペッパーが麻薬の治療のために入院しなければならなかったのは一度ならず何度も繰り返された。その度ごとに復活を願うファンの前から消え去ることになった。

68年にバディーリッチのオーケストラに復帰できたのは、バンドのメンバーであったドンメンザの誘いであったそうだ。しかし、その時ペッパーはテナーしか持っていなかった。リッチのバンドではリードアルトを務めたが、アルトはドンメンザからの借り物。マウスピースだけは愛用物を持っていたので何とか急場を凌げたという。
最初の仕事は、ラスベガスのシザースパレス。一緒に加わったトランペットのアルポシーノと2人のお蔭でバンドの音は見る見るうちに変っていった。そこで、すでにスタジオで録音済みのマーシーマーシーマーシーのアルバムは、急遽このシザースパレスでのライブ録音で作り直しとなった。

ペッパーにとって毎日プレーできる楽しさを味わえたのは余程嬉しかったかのかもしれない。久々に譜面を前にした時は、一瞬譜面が読めなかったという。しかし、すぐに感を取り戻すと久々に存分に吹きまくったという。
しかし、ハードワークは弱った体を徹底的に痛めつけてしまった。肝臓を悪化させ体内で出血をおこし、最後は脾臓破裂で大手術を受けることになる。せっかく掴んだ仕事の場であるリッチのバンドも離れざるを得なかった。再び復帰を試みたがツアーの多いリッチのバンドの激務には耐えられず再び療養生活に入ってしまう。

今度は肉体的にだけでなく、社会復帰することによって生じる色々なストレスにも耐えられずに、長期の療養所(シナノン)生活になった。反対にそこでの生活にすっかり慣れてしまって、一時は音楽を諦めようと思った時期もあった。
しかし、再び音楽をやる夢は捨てきれず「シナノン」を出ることに。とはいってもすぐに仕事も無く、復帰の決心もつかなかったので、パン屋の会計事務の仕事を手伝いながら本気で会計士の勉強も始めたという。そのようなアダムスを支えたのは同じ療養所に居た、後にペッパーと結婚することになるローリーであった。音楽への復帰を決意したのは、デンバーの大学からクラリネットのクリニックの依頼を受けた時、自分のファンであったKen Yoheが楽器を借りて、色々段取りをしてくれたからだ。ロスに帰って来て自分の楽器を揃える決心がついたそうだ。このファンのお蔭で復帰への足掛かりは掴めた。彼に感謝の意味を含めて、このアルバムでMr.Yoheという曲も作った。

徐々に地元のクラブ出演も始め、学校を廻って学生バンドのクリニックも積極的に行うようになった。前回紹介したマイクバックスとの出会いはその時だった。そのような状況のペッパーを支え、本格的な復帰にまで繋げたのは妻のローリーに加え、コンテンポラリーレコードのオーナー、レスター・ケーニッヒであった。そして、1975年8月、待ちに待った久々のリーダーアルバムの録音になる。



プロデューサーはレーニッヒ自身、場所は懐かしいコンテンポラリーのスタジオ。10年以上経ってもスタジオの風景、録音機器は昔のままだったという。
そして、メンバーも昔の仲間が集まった。ピアノのハンプトンホースは一足先に第一線への復帰を遂げていた。ドラムもウェストコーストの大御所であるシェリーマン。そしてベースは昔からのペッパーの友人であった。ヘイドンというとどうしてもオーネットコールマンとの一緒のイメージが強いが、50年代はペッパーやホースのプレー仲間であった。

昔の仲間達と、そして昔と同じスタジオで再起第一作を録音した訳だがナツメロセッションにはならなかった。というのもブランクの期間にペッパーは変身していた。ペッパーが一線を退いていた時代ジャズ界はコルトレーンの世界となっていた。ペッパーはコルトレーンを徹底的に聴き、コルトレーンの演奏をコピーもした。長いミュージシャン生活でコピーをしてまで研究したのはコルトレーンだけであったそうだ。
しして、演奏した曲はスタンダード曲のHere's That Rainy Dayを除いてすべてペッパーのオリジナル。意気込みを感じる。

そして演奏の結果はというと?
ペッパーのアルトはコルトレーンの味付けがされたとはいえ基本的に変るものではない。曲によって多少荒々しくフリーキーなフレーズも聴けるがペッパー節は健在であった。他のメンバーも、皆がモダンなアプローチもできるとはいえ、彼等も本質は変わらない。昔のペッパーを知る面々だが、完全にナツメロをやるのではなく、今のペッパーを引き出すための最善のバックを務めている。自分としても、久々にペッパーを聴けたというだけでなく、「今の時代に戻ってきてくれたペッパー」の復帰を嬉しく思ったものだ。
まさに伝説のアルトが生きていた証明であり復帰であった。
その苦難の復帰を支えたのは、やはり昔からの仲間達と家族、そして名プロデューサーのレスター・ケーニッヒであった。



1. Ophelia                      Art Pepper 7:53
2. Here's That Rainy Day    Johnny Burke / James Van Heusen 5:39
3. What Laurie Likes                Art Pepper 6:43
4. Mr. Yohe                    Art Pepper 7:10
5. Lost Life                    Art Pepper 5:52
6. Samba Mom Mom                  Art Pepper 8:19

Art Pepper (as)
Hampton Hawes (p)
Charlie Haden (b)
Shelly Manne (ds)

Produced by Lester Koenig
Sound by Roy DuNann
Recorded at Contemporary Studio's Studio in Los Angels on August 9,1975


リヴィング・レジェンド+1
クリエーター情報なし
ユニバーサル ミュージック クラシック
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アートペッパーの復活はビッグバンドから?・・・・・

2015-04-17 | MY FAVORITE ALBUM
Evil-Eyes / Mike Vax Big Band featuring Art Pepper

先日、岸義和ビッグバンドのライブへ行った。毎回このライブは「ハリージェイムス&レイアンソニー」とタイトルされているが、ベイシーやハーマンのナンバーなども加えてスインギーな演奏を聴かせてくれる。メンバーはベテラン中心だが、他のバンド同様最近では若手の姿もちらほら。その中でセクションの要、リードアルトは近藤淳であった。木幡光邦 & 923 BIG BANDでもリードアルトで登場することが多いが、宝塚の仕事をメインにしているようであまりライブで聴く機会は多くは無い。

ビッグバンドの楽しみは色々あるが、ひとつはリードアルトをフィーチャーしたショーケース。バラード物をどう料理するかが聴き所だ。セクションの要としてのアンサンブルワークだけでなく、ここはそのバンドの看板リードアルトとして、ソリストの腕の見せ所である。こればかりは、若手の巧者といえどもなかなかベテランの貫禄には及ばないものだ。

この日は1部2部で一曲ずつ。どちらもクインシーナンバーでThe GypsyThe Quintessenceを披露。オリジナルではどちらもフィルウッズをフィーチャーした曲。近藤さんにとってはどちらかがその日が初見であったそうだが。さすがにどちらもファンを魅了する素晴らしい演奏であった。

アルトの名手であるアートペッパーも経歴を辿るとスタンケントンオーケストラの出身。若い頃からビッグバンドの中で将来の活躍を予見させるプレーを聴かせてくれた。そして、有名になってからもマティーペイチなどのアレンジの中でも際立ったプレーが聴ける。有名な「踊り子」とか「プラスイレブン」などは自分の愛聴盤である。

アートペッパーの活動歴は長く感じるが、実は麻薬の療養期間が長く実際に活動した期間は短い。特に本来であれば一番の働き盛りである40代の65年から最後の本格的な復帰の75年までは10年近くのブランクがある。実はその間何回か現役復帰を試みていた。その間アルバムとして残されている68年のバディーリッチオーケストラへの復帰が話題となった。

このリッチが新たに編成したビッグバンドは若者にもアピールし、人気が出てきた時のリードアルトとしての参加であった。若手中心のメンバーであったが、その中で重鎮としての復帰であった。従来のスインギーな4ビートだけでなく、8ビートのドライブのかかったアンサンブルも引っ張っていた。このペッパーの加わったバディリッチのアルバムが、「マーシーマーシーマーシー」であるが、その中もアートペッパーを大きくフィーチャーした曲が一曲ある。当時ヒットした「アルフィー」であった。

しかし、このペッパーの復帰は一時のもので、再び長い療養所生活に戻ることになる。そこでは一時ミュージシャンとしての生活を諦め、楽器も手放したという。そして、足かけ7年の歳月を経て75年の本格的なリーダーアルバムでの復帰になる訳だが、その長い療養生活から復帰に向けては前哨戦があった。その一つのステップがこのアルバムへの参加となる。

昔から本格的なジャズミュージシャンになるための一つのステップがビッグバンドへの参加であった。特に、スタンケントン、ウディーハーマンの両バンドは若手の憧れの的であった。そして、そこへの参加が一つの勲章となって、次のステップへのパスポートのようなものであった。それは時代が代わって70年代においても変るものではなかった。

このアルバムのリーダー、Mike Vaxもその一人であった。
1970年に目出度くスタンケントンオーケストラの一員となった。レコーディングにも参加できた。すると次なる夢は自分のビッグバンドを持つことになる。更には、そのバンドのアルバムを作ることに・・・夢はどんどん広がっていく。
そして、このアルバムが誕生することで、短期間でその夢も実現することになる。世の中勝ち運に恵まれている人間というのは、動き出すとすべてが上手く転がり出すものだ。

そして、この初アルバムには更なるプレゼントが加わる。療養中で復帰を願っていたアートペッパーのゲスト参加だ。バックスとペッパーは1973年のアメリカンカレッジジャズフェスティバルでたまたま一緒にプレーしたのが出会いという。ケントンオーケストラを辞めた後、楽器メーカーコーンのクリニックとして学生バンドの面倒をみていたVaxであったが、この出会いも偶然だったと思う。
その出会いがきっかけで、バックスのバンドにペッパーがゲスト参加することになり、このアルバムもさらに価値あるものになった。

バンド全体のサウンドは、この時代の流行であったジャズロック風の色合い強い曲もあるが、ケントンオーケストラに根差した伝統的なサウンドである。
そして、ゲストのペッパーをフィーチャーしたショーケースがこのアルバムにも含まれている。バックスとのソロの掛け合いもあるが、スタンダードのShadow of your smileでのペッパーのバラードプレーだ。ここで復帰途上のペッパーのプレーがじっくり聴ける。この時すでに以前と較べてスローであっても荒々しさを感じるのが印象的だ。

このVaxだが、その後自らのビッグバンドを率いる他、ケントンオーケストラの卒業生コンサートを開催したり、ケントンのレガシーオーケストラを編成しツアーをやったり、さらにはFriends of Big Band JazzというNPOを設立しビッグバンドジャズの伝承と教育に力を注いでいるようだ。
その後の活躍も、このファーストアルバムが出発点とすると、アートペッパーとの出会いと共演も大きな意味があったように思う。結果的にペッパーも2年後の本格的な復帰の可能性を試す試金石でもあった。




1. Evil Eyes
2. If Is Anything Still There
3. Passage West
4. Joe's Inn
5. The Shadow Of Your Smile
6. Beginnings
7. West Side Story Medley

Art Pepper (as)
Mike Vax (tp,flh)

Jim Schrich (tp,flh)
Fred Berry (tp,flh)
Bill Main (tp,flh)
Dave Candia (tp,flh)
Warren Gale (tp,flh)
Bill Robinson (tb)
Dean Hubbard (tb)
Phil Zahorsky (tb)
Jed Rodriguey (btb)
Nick TenBroek (btb)
Jim Rothermei (as,fl)
KIm Frizell (as,fl)
Lioyd Rice (ts,fl)
Gerry Gilmore (ts,fl)
Dave Luell (bs)
Si Perkoff (p)
Mario Suraci (eb)
John Rae (ds,per)
Gary Nash (ds,er)

Produced by Bob Ciunow, Gabby Garcia, Mike Vax
Engineer : Pete Romano
Recorded at CBS Recording Studio, San Francisco, California on July 6 & 7,1973
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ビッグサウンドやハイノートばかりがトランペットの良さとは限らない・・・

2015-04-14 | MY FAVORITE ALBUM
Big Brass / Benny Bailey

独居老人が増えるに従い、一人暮らしの老人の孤独死が増えているという。日本では核家族化がもたらした社会問題、そうそう簡単に解決はできないだろう。自分自身の事を考えてみても明日は我が身。今までは毎日のように出歩けているが、だんだん外にも出歩かなくなり人付き合いも減ってくると最後は家族だけ。女房だけには先立たれることのないようにしたいものだ。

トランペットのベニーベイリーが母国アメリカを離れ、異国の地アムステルダムで亡くなったのは今から10年近く前になる。何故か、孤独死で死後何日かしてから発見されたという記事が記憶に残っている。
60年代ヨーロッパに渡って活動したアメリカのジャズミュージシャンは多いが、多くはまたアメリカに戻った。しかし、このベニーベイリーは活動の大半をヨーロッパで過ごし、最後もヨーロッパに骨を埋めることになった。そこまで気に入ったヨーロッパであったが、そこでは彼の死を看取る人が居なかったということになる。

このベイリーがライオネルハンプトンのグループに参加したのは1947年から1953年まで。オーケストラがヨーロッパをツアーしていたが、そこでバンドを辞めると一時イタリアで活動する。しかしその地は肌に合わなかったのか、結局スウェーデンに留まることになる。
この当時のハンプトンのオーケストラには、綺羅星のような若手が参加していた。特にトランペットセクションにはベイリー以外に、クリフォードブラウン、アートファーマー、そしてクインジージョーンズなど次の世代を背負う実力者が席を同じくしていた。

彼等はハンプトンの目を盗んでは地元のミュージシャンともセッションを繰り広げていた。それはハンプトンのバンドとは趣が異なる洗練されたサウンドであった。その中の一人クインージョーンズも作曲を学ぶために一時ヨーロッパに滞在した。その時ハリーアーノルドのオーケストラからもアレンジを頼まれ、アレンジャーとして着実に経験を積んでいた。このアーノルドのビッグバンドにはベニーベイリーが加わっており、このバンドのコンサートで2人は再会を果たしていた

それらの経験を経て、アメリカに戻ったクインシーは自分のビッグバンドを立ち上げた。あの有名なアルバム”The birth of a band”が生まれたが、それはヨーロッパ仕込みの洗練されたサウンドを引き継ぐものであった。
そして、その後クインシーのオーケストラは悪夢のヨーロッパツアーに旅立つ。このヨーロッパツアーのメンバーにはアルバム録音にも参加したフィルウッズやクラークテリーに加えて、ヨーロッパに居たベニーベイリーも加わった。クインシーにとっては、昔からの知己であった以上にクインシーのアレンジの良き理解者であり、ベイリーはお気に入りのトランペットであった。

バンドが演奏の場として予定していたミュージカルが公演途中で中止となり興業的には大失敗に終わった。しかし、メンバー達はそのまま現地に残りクインシーのアレンジによるビッグバンドの演奏活動を続け、ヨーロッパ中を彷徨うこととなった
メンバー全員が肉体的にも、精神的にもそして経済的にも行き詰って帰国することになったが、ここでへこたれなかったのがクインシーを始めとするメンバーの面々であった。リーダーとしてすべての責任を負ったクインシーは、この出来事を糧にアレンジャー&バンドリーダーからプロデューサー業、そしてマーキュリーレーベルの役員に大きく飛躍することにもなった。

バンドと一緒に一時アメリカに戻ったベニーベイリーも、帰国してすぐにリーダーアルバムを作る機会を得る。クインシーのバンドで一緒に苦労を共にしたメンバーから、フィルウッズ、ジュリアスワトキンス、レススパン、バディカレットの4人が参加した。ある意味、彼らにとっては過去を忘れて再出発のための仕切り直しの場であり、景気付けのアルバムでもあった。

ちょうど、クインシーのオーケストラも帰国後の録音をした直後であり、今度はバンドメンバーであるベニーベイリーのアルバムに皆が集まった形だ。そして翌年の2月にはフィルウッズのアルバム”Rights of Swing”が作られたが、これにも、ベイリーをはじめとしたクインシーのバンド仲間達が駆けつけている。

このベイリーはその後ヨーロッパに戻り、ケニークラーク&フランシーボランのビッグバンドに参加した。どちらかというとあまり目立つ存在ではなかったが、どこでもキーマンとして活躍している。いわゆる玄人受けするタイプの実力者になるのだろう。
元々トランペットを始めた時からあまり大きな音を出すのは苦手だったらしい。ハンプトンのオーケストラではトランペットセクションのどのパートでもこなしたというが、決してハイノートヒッターではない、フレーズ作りの上手い部類だ。クインシーがビッグバンドを立ち上げる時、このベニーベイリーに真っ先に声を掛けたというが、クインシーのビッグバンドのアレンジとは確かに相性がいいスタイルだ。

このアルバムでのフロントラインはクインシーのバンドメンバー達なのでバンドのサウンドには共通する物がある。アレンジは、クインシーが提供した曲以外に、オリバーネルソンやトムマッキントッシュのアレンジなどもある。どの曲も普通の3管編成と違ったサウンドがするのはアレンジ以前に楽器の構成が特異なこともあるだろう。ジュリアスワトキンスのホルンはクインシーのオーケストラにも加わっていたが、トロンボーンより丸みを帯びた音色だ。それにレススパンがフルートで加わり、フィルウッズも時にバスクラリネットに持ち替える。いわゆるハードバップ、ファンキー路線とは一線を画す、木管主体の上品なサウンドがするが、これがベニーベイリーのトランペットとは実に相性がいい。逆に言えば、ベニーベイリーのトランペットにはこのような編成、アレンジが似合うということになる。

このベイリーは、ヨーロッパに残った理由の一つがお金のためにプレーはしたくないという事だったらしい。晩年まで好きなヨーロッパで、自分の好きなスタイルで演奏を続けることができた反面、最後を看取る人がいなかったというのは寂しい限りだ。



1, Hard Sock Dance                  Quincy Jones 5:47
2. Alison                         Sean Smith 6:46
3. Tipsy                        Oliver Nelson 6:54
4. Please Say Yes                   Tom Mcintosh 5:58
5. A Kiss to Build a Dream On  Oscar Hammerstein II / Bert Kalmar / Harry Ruby 8:03
6. Maud's Mood                      Benny Bailey 6:25

Benny Bailey (tp)
Phil Woods (as,bcl)
Julius Watkins (fhr)
Les Span (fl,g)
Tommy Flanagan (p)
Buddy Catlett (b)
Art Taylor (ds)

Produced by Nat Hentoff
Engneer : Bob d’Oeleans
Recorded at Nola Penthouse Sound Studios, New York, November 25, 1960


Big Brass
クリエーター情報なし
Candid Records
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映像でのこされた一シーンのステージをそのままの流れで再現して聴いてみると新たな発見が・・・

2015-04-11 | MY FAVORITE ALBUM
Newport ’58 / Dinah Washington, Terry Gibbs, Max Roach, Don Elliott

マスターズが始まるとゴルフもいよいよ本格的なシーズンイン。ところが日本は寒い日が続く。先日はまさかの季節外れの雪の中のゴルフ。気持ちのいいゴルフはしばらくお預けだが、こんな日が続くと反対にジャズを聴く時間は増える。

最近はYou Tubeのお蔭で昔の演奏をレコードやCDだけでなく映像でも楽しめる。前回紹介したロソリーノの演奏も、アルバムで聴く以上に表情が硬く感じたのが印象的だった。やはり何事も聞くと実際に見るのとでは大違いだ。

ジャズの映像物といえば、やはり1958年のNewportを舞台にした「真夏の夜のジャズ」が有名だ。ステージ上でのミュージシャンの演奏する姿だけでなく、街の風景や聴衆の表情までを含めドキュメンタリー仕立てした構成が実にいい。

この映画の制作された経緯は、ニューポートジャズフェスティバルの発案者、イレーンロリラードのインタビュー本に詳しいが、それを知るとこの映画もいくつかの偶然が重なって生まれた産物であった。入念に企画されたというより、制作スタッフのバタバタの中で生まれたまさにドキュメントである。

まず、最初にこのドキュメントをプロデュースしたのは、映像のプロデューサーではなく、彼女の友人から紹介されたスチール写真家のバート・スターンであった。彼は、映像の経験が無いどころかジャズにも弱かったので、流石に心配になったのかコロンビアレコードのプロデューサージョージアヴァキャンの弟であるアラム・アヴァキャンをサポートに頼んだ。ライバルが何社か手を上げる中で権利を獲得した彼らが初日の撮影に臨んだのだが・・・。

案じていたとおり初日の撮影は大失敗に終わった。ムービーの経験の無いスターンは、ドキュメンタリー専門のカメラマンを集めたものの何をどのように撮るのかの指示を与えることができずに大混乱になる。撮影したフィルムを急いで現像してラッシュを見たが、画面がひどく暗かったりピンボケであったり、全く使い物にならず、ここでスターンはギブアップ。
ここで、全権をアラムにバトンタッチする。アラムも映像の専門家とはいえ得意なのは編集作業。止むを得ずカメラのセットはオーソドックスに行い、編集作業をイメージしながらカメラマンに指示を出すという芸当を使ったようだ。というのも、当時は今のようにすべてのカメラを回しっぱなしにして後で編集すればいいという手法もフィルムが高価であったために使えず、自ら会場の真ん中に陣取り、彼の頭の中のリアルタイムバーチャル編集のイメージで指示するカメラを切り替えるという技で切り抜ける。その努力の結果、録り直しの効かないライブ物の全部で10万フィートに上る映像から、あの映画が生まれたそうだ。

この58年のニューポートといえば、56年に話題を呼んだデュークエリントンも登場しているし、マイルスデイビス、そしてデイブブルーベックなどの大物も出演していたが、映画の中に登場しなかった。その理由は契約の問題ではなく、初日の撮影をミスったのが原因であったというのが真相のようだ。事実、出演者との交渉はすべて撮り終えてから始まったという。
そして、この映画にはニューポートには欠かせないジョージウェインのクレジットがないというのも七不思議のひとつ。外されたウェインは色々思う所はあったようだが大人の対応をしたそうだ。もっとも最初からウェインが噛んでいたら映画の内容も別物になったと思うので、この映画はこのスタッフ達の大混乱という状況が無ければ生まれなかったともいえる。

さて、この映画の中には名場面はいくつかあるが、演奏に関していえばライブアルバムが出ているものも多い。このダイナワシントンのアルバムもその一枚だ。映画の中ではテリーギブスをバックにしたAll of Meのシーンが収められている。

そのシーンはこちらで↓


最初にクローズアップされる彼女の衣装が印象的だが、この演奏はギブスのバンドに最後に彼女が飛び入りで加わった物。全体のステージの流れは、ウィントンケリーのピアノにホーンセクションが加わって彼女の歌が続き、ギブスのバンドに替わって演奏が続く。最後にそこに彼女が加わりこの曲を歌いフィナーレという流れだったようだ。CD盤では未収録であった彼女の歌の2曲が追加され、このような流れに変っている。



ギブスのバンド演奏では、Julie And Jakeもステージでのハイライトのひとつだ。ドンエリオットのメロフォーンのソロに続きマレットに持ち替えギブスとバトルを繰り広げる。歌伴では控えめであったマックスローチのドラムも大ブレークしている。ライブならではのノリノリのセッションだ。

このアルバムのプロデューサーJack Tracyがライナーノーツの最後で締めくくっている。
So enjoy yourself,have a slice of Newport ’58,the biggest jazz parade of all time.

このような大フェスティバルのライブ物では、多くのステージから自分の好みの部分を見つけるのも楽しみのひとつだ。それも映像が伴うとその場の雰囲気がダイレクトに伝わってくる。

1. Lover Come Back to Me
2, Back Water Blues
3. Crazy Love
4. All of Me
5. Backstage Blues
6. Julie and Jake

Dinah Washinton (vol) 1-4
Blue Mitchell (tp) 1-3
Melba Liston (tb) 1-3
Sahib Shihab (bs) 1-3
Terry Gibbs (vib) 4-6
Don Elliott (mellophone,vib) 4-6
Urbie Green (tb) 4-6
Wynton Kelly (p)
Paul West (b)
Max Roach (ds)

Produced by Jack Tracy
Recorded live at Newport Jazz Festival, July 7,1958

アット・ニューポート’58[+2](完全版)~真夏の夜のジャズ
クリエーター情報なし
マーキュリー・ミュージックエンタテインメント

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たまには檻を出て雰囲気を変えて鼻歌交じりにのびのびと・・・

2015-04-10 | MY FAVORITE ALBUM
Turn Me Loose ! / Frank Rosolino

歌が上手いジャズミュージシャンは多い。ナットキングコールやジョージベンソンのように、いつのまにか歌が本業になってしまう本格派もいるが、多くは機会を見つけてはその喉を披露してくれる。その中でもボーカルアルバムを作るまでになると、それは余興というより、一歩踏み出してすでに歌手の仲間入りをしたともいえる。
最近で自分が紹介したアルバムでも、ジョージウェインがピアノ同様小粋な歌を披露してくれた。他にも、オスカーピーターソンバディーリッチグラディーテイトなど、「のど自慢」のミュージシャンも結構いるものだが、皆本業の方の腕前も人並み以上の強者ばかりだ。

トロンボーンでは、古くは歌も得意といえばジャックティーガーデン。そしてモダントロンボーンでは、テクニックだけでなく実に歌心のあるプレーを聴かせてくれるのがフランクロソリーノ。自分も好きなプレーヤーの一人だが、そのロソリーノにもボーカルアルバムがある。
60年代に入ってスタジオワークが多くなったロソリーノにとっては、このボーカルアルバムは唯一のリーダーアルバムである。このアルバムを作ったのはシナトラのレーベルであるリプリーズ。シナトラ一家の面々のアルバムとは別に、POPSのアルバムもリリースされたが、その中の一枚だ。後に、リプリーズからはエリントンのアルバムなどもリリースされたが、最初の頃は他にジャズアルバムと思えるのは見当たらない。

このアルバムの制作に一役買ったのは、実はアレンジャーとしてはすでに有名であったニールヘフティーであった。ちょうど1960年にロスに戻っていたが、リプリーズレーベルの立上げと同時にA&Rとして就任した。そして、アレンジだけでなく、タレントの発掘、アルバム制作にも関与することになる。
そこにロソリーノのボーカルがニフティ―の眼鏡にかなったようだ。トロンボーンでは真剣な、生真面目なプレーが売りであったが、クラブのライブなどで時折見せるひょうきんな一面を打ち出すにはボーカルが最適と考えたのだろう。

ロソリーノのボーカルにハイライトを当てたとはいえ、決して並のボーカルアルバムではない。もちろんいつものトロンボーンのプレーも織り交ぜ、バックはドンフリードマンのピアノトリオをバックに、ワンホーンで存分に歌に演奏に大暴れするジャズアルバムといっていいだろう。

トロンボーン同様ボーカルでも滑らかな節回しはスローな曲よりアップテンポが良く似合う。興が乗るとスキャットを交え、時にヨーデルのような裏声も出しながらのスインギーなボーカルが楽しめる。このロソリーノのユーモアを交えた一面は普段のスタジオワークでのトロンボーンプレーでは味わえないのだろう。

ジャケットのトロンボーンの檻に閉じ込められている姿はそれを象徴しているようにも思う。「カルテットに餌を与えないで下さい」と書かれているが、特段餌が無くてもトロンボーンの檻から出ただけで存分に大暴れしている。



このアルバムを作った直後、テレビ出演もしていたようで映像も残っている。しかし、ボーカリストとしての活躍はこのアルバムだけだったようで、再びトロンボーンの檻の中でその後も活動を続けることになる。スタジオワークを離れ今度はソリストとして活動するようになるのは70年代に入ってからだ。

1. Too Marvelous for Words       Johnny Mercer / Richard A. Whiting  2:16
2. Come Rain or Come Shine         Harold Arlen / Johnny Mercer  2:57
3. Whatcha Gonna Do on Monday       Ned Doheny, Hamish Stuart  2:21           
4. Sometimes I'm Happy   Irving Caesar / Clifford Grey / Vincent Youmans  2:37
5. Sweet Georgia Brown     Ben Bernie / Kenneth Casey / Maceo Pinkard   2:22
6. Pennies From Heaven          Johnny Burke / Arthur Johnston  2:53
7. I Cover the Waterfront           Johnny Green / Edward Heyman  3:12
8. You're a Sweetheart           Harold Adamson / Jimmy McHugh  2:40
9. Please Don't Bug Me                   Frank Rosolino  2:20
10. It Had to Be You                Isham Jones / Gus Kahn  2:32
11. That Old Black Magic            Harold Arlen / Johnny Mercer  2:46
12. How Many Hearts Have You Broken             Marty Symes  2:56

Frank Rosolino (tb,vol)
Irving Cottler (ds)
Victor Feldman (p)
Chuck Berghofer (b)

Produced by Neal Hefti
Recorded in Los Angels, on November 26, 1961



Turn Me Loose
Frank Rosolino
Collectables Records
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スイングするのは何もベイシーナンバーばかりではない・・・・

2015-04-05 | MY FAVORITE ALBUM
The Swingers / Lambert Hendricks & Ross

先日紹介したズートシムスのアルバムで珍しくシムスは歌を披露していたが、この曲の作詞はジョンヘンドリックス。最初のお披露目はというと、ジョンヘンドリックスが加わっていたランバート・ヘンドリックス&ロス(LHR)のアルバムであった。
このアルバムは、ベイシーナンバーのボーカリーズでデビューし、本家ベイシーとも共演して、さて次はといったタイミングで録音したアルバムである。

このアルバムでは、ランディーウェストンの曲が多いが、ジャズのスタンダードでもあるロリンズのエアジンやパーカーのナウズザタイムにもチャレンジしている。そして、その中にズートシムスのダーククラウドも含まれている。ところが、この曲はコーラスではなく、ジョンヘンドリックスのソロで歌われている。元ネタが無かったので、ボーカリーズという訳にはいかなかったのかもしれない。

ズートシムスは、50年代から60年代にかけてはペッパーアダムスなどと一緒にロフトでプライベートなジャムセッションをやっていたが、そこでもこの曲の演奏が残されている。シムスとしてはお気に入りの自作曲だったのかもしれない。
いずれにしても、アルバム自体はLHRのタイトル通り、モダンなスインギーなコーラスが楽しめる好アルバムだ。このアルバムを聴き直したついでに紹介しておく。

このランバート・ヘンドリックス&ロスはモダンジャズコーラスの元祖のような存在だ。デビューした時は当然話題にはなったが、ベイシーナンバーだけではブレークしなかったようだ。此の後CBSに移籍してから人気が上昇したようだが、人気が出た所で、アニーロスが病気で抜けてしまう。その後メンバーがヨランダベバンに替わって活動は続けたが、今一つブレークできずに1964年に解散する。そして、解散してしばらくして、リーダー格であったデイブランバートが交通事故で亡くなってしまう。マントラと違ってツキには恵まれなかったグループのようだが、ジョンヘンドリックスが一人グループの意志を継いで活躍しているのが何よりだ。

短い活動期間ではあったが、このアルバムはベイシーナンバーから他の曲へのチャレンジでレパートリーの幅を広げ、グループとしてステップアップしたアルバムであることには間違いない。そして、このアルバムではバックを務めるズートシムスがピアノのラスフリーマンと共に大事な役割を果たしている。スインギーなコーラスにはスインギーなバックが不可欠だ。

世の中、人によって話し上手もいれば話下手もいる。そして話し上手といわれる人の中にも、一人でも人を惹きつける話術で自分の話の独演会を得意にするタイプと、相手の話の聞き上手でもあり、相手の話に合わせて会話を弾ませることができるタイプの2パターンがいる。
シムスは、シムスは流暢なフレーズ作りが得意で、ソロだけでなく大編成に加わってアンサンブルワークも得意なオルラウンダーだ。ソロが主体の時はどうも一人で主役になるよりは、アルコーンとのコンビのように相手がいたり、あるいは誰かのサポート役に廻った時の方がよりプレーに流暢さが増すように思う。話し上手以上に聞き上手なのだろう。

このLHRのバックでも、実にタイミングよくそして歯切れよくコーラスに絡むシムス節が聴ける。そして、このセッション自体が、ズートシムスとラスフリーマンがセッションリーダーとなって、LHRのバックだけでなく、アニーロスのバックや、歌無しのクインテットの演奏が連日続いたようだ。日に日にメンバー間のコンビ―ネーションが良くなって、和んだ雰囲気の中での演奏も幸いしているようだ。やはり話し上手といえども初対面よりは、打ち解けてからの方が話は弾む。

一曲だけ、別セッションからトミーフラナガンとエルビンジョーンズをバックにした曲Jackieが収められている。このバックも魅力的だがどうやら他の録音はないようだ。

1. Four               Miles Davis / Jon Hendricks 4:12
2. Little Niles           Jon Hendricks / Randy Weston 3:28
3. Where               Jon Hendricks / Randy Weston 2:55
4. Now's the Time          Jon Hendricks/Charlie Parker 2:56
5. Love Makes the World Go 'Round           Jon Hendricks 3:44
6. Airegin                 Jon Hendricks/Sonny Rollins 3:31
7. Babe's Blues               Jon Hendricks/Randy Weston 3;15
8. Dark Cloud                 Jon Hendricks / Zoot Sims 3:31
9. Jackie                   Wardell Gray / Annie Ross 2:02
10.  Swingin' Till the Girls Come Home  Jon Hendricks/Oscar Pettiford 5;06

Dave Lambert, Jon Hendricks, Annie Ross (vol)

Only #9
Tommy Franagan (p)
Joe Benjamin (b)
Elvin Jones (ds)

Recorded at RCA Studio, New York, October 1, 1958

Others
Zoot Sims (ts)
Russ Freeman (p)
Jim Hall (g)
Freddy Green (g)
Ed Jones (b)
Sonny Payne (ds)

Recorded at "The Crescendo", Hollywood, CA, March 21, 24 1959

Produced by Richard Bock


The Swingers
クリエーター情報なし
Capitol
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ズートシムスの共演相手はビルホルマン率いるノネット・・

2015-04-02 | MY FAVORITE ALBUM
Hawthorne Night / Zoot Sims

一ジャズファンであったノーマングランツ、趣味が嵩じてJATPを興したのは若干25歳の時であった。コンサートを自分で録音に残し、これをベースにアルバム作りも始め一躍有名になり、自ら育てたヴァーブレーベルも5年間で1000枚近くのアルバムを出し活況を呈していたが、1960年12月に突然それらを売却して引退した。

しかし、ジャズ界のその後の状況に危機を感じたのか、もう一度70年代に入ると再びプロデューサーとしての再起を賭けてJATPを再開した。1972年サンタモニカのシビックホールで旗揚げをし、これを機に本格的な復活の狼煙をあげた。それに合わせて、新たにパブロレーベルを興し、アルバム作りも再開した。ピーターソンやエラなど昔JATPやVerveレーベルで活躍した面々が昔の親分の元に再び集まった。

ビッグバンドもカウントベイシーやルイベルソンなどの伝統的なオーケストラが息を吹き返した。カールジェファーソンがコンコルドレコードを設立したのも1972年。メインストリームジャズが復活したのがこの年だった。車のディーラーであったジェファーソンと異なり、ノーマングランツはかっての業界の実力者、有名どころのベテラン達が続々と集まった。

しかし、ジェファーソンと異なり、グランツの場合は新人の発掘にはあまり興味は示さなかった。その結果、ミュージシャンが次第に歳をとると、活気のあるアルバムは少なくなってしまった。最後は、両オーナーともレーベルを手放したが、結果的に後発のコンコルドがメジャーとなり、パブロを飲み込んでしまったのも仕方がないだろう。

さて、パブロが新たに契約を結んだミュージシャンの中にズートシムスがいた。確かに実力者の一人であり、リーダーアルバムも数多く作ってはいたが、どちらかというと地味な存在、スターミュージシャンの中に並んで扱われるのは初めてであったろう。
パブロレコードは、ヴァーブ時代と同様大物同士の顔合わせやジャムセッション物のアルバムを次々と世に出した。このシムスもピーターソンやジョーパスとともに、ガーシュインのソングブックをリーダーアルバムとして初登場した。そして次のアルバムはパブロとしては少し毛色が変わった、ビルホルマンのアレンジで9人編成のラージアンサンブルをバックにしたアルバムであった。

このホルマンは50年代からアレンジャーとして活躍し、70年代になってもバディーリッチやスタンケントンのビッグバンドのアレンジは提供してはいたが、ジャズの世界とは少し疎遠になっていた。このパブロの誕生と共にジャズのアレンジも本格的に復活し、カウントベイシーやルイベルソンのアルバムでは、このビルホルマンのアレンジが多く使われた。それに刺激を受けたのか、自らのビッグバンドを編成し活動を始めたのもこの頃であった。

50年代にはビッグバンドだけでなく、コンボやこのようなラージアンサンブルのアレンジも多く手掛けていたが、久々にジャジーなアレンジに気合が入ったことであろう。集まったメンバーも西海岸のスタジオミュージシャンの一流メンバーが集まった。ちょうど70年代に入り、彼らの仕事場であったテレビ番組の制作がロスに移ったこともあり、ニューヨークからスタジオミュージシャンの大移動があった。ルータバキンが秋吉敏子と共にロスに移ったのもその理由であったが、サドメルのメンバーもこの大移動で大きく変った。スヌーキーヤングやジェロームリチャードソンも移動組であったが、この録音には彼等も参加している。そして、トロンボーンにはロスの重鎮フランクロソリーノも加わっていた。

ホルマンのオリジナルに加え、エリントンナンバーやイパネマの娘など選曲も変化に富んでいるが、ホルマンも曲に合わせて個性あるアレンジで大活躍だ。デュークピアソンが自分のビッグバンドを立ちあげる前に、ブルーノートでラージコンボのアレンジを数多く書いていたが、それら中に後のビッグバンドの雰囲気を感じるのと同様、ホルマンの場合も明らかに50年代とは違って、80年以降のビッグバンドに通じる作風を感じる。

シムスの自作のダーククラウドは、昔ランバートヘンドリックス&ロスとの共演で演奏した曲だが、このアルバムでは珍しいシムスの歌も披露している。
演奏はもちろんリーダー格のズートシムスが全曲でフィーチャーされているが、重鎮揃いのバックの中ではフランクロソリーノが大活躍している。シムスとホルマンのアレンジを楽しむアルバムだが、ロソリーノのソロも掘り出し物だ。


1. Hawthorne Nights                    Bill Holman 4:42
2. Main Stem                      Duke Ellington 5:03
3. More Than You Know    Edward Eliscu / Billy Rose / Vincent Youmans  6:01
4. Only a Rose                Rudolf Friml / Brian Hooker  5:07
5. The Girl from Ipanema  N. Gimbel / A. Carlos Jobim / Vinícius de Moraes  4:10
6. I Got It Bad (And That Ain't Good)   Duke Ellington / Paul Francis Webster 6:19
7. Fillings                         Bill Holman 5:27
8. Dark Cloud                        Zoot Sims 4:21

Zoot Sims (ts,vol)
Bill Hood (bs,bcl,fl)
Richie Kamuca (ts,cl)
Jerome Richardson (as,cl,ss,as,fl)
Frank Rosolino (tb)
Oscar Brashear (tp)
Snooky Young (tp,flh)
Ross Tompkins (p)
Monty Budwig (b)
Nick Ceroli (ds)
Bill Holman (arr)

Produced by Norman Granz
Recorded at RCA Studio, Los Angels on September 20 & 21, 1976
Engineer : Grover Helsley

Hawthorne Nights
Zoot Sims
Ojc
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アンサンブルにソロにラッセルガルシアのアレンジの牽引役はやはりロソリーノ・・・・

2015-03-30 | MY FAVORITE ALBUM
Four Horns and Lush Life / Russell Garcia

先日来、フランクロソリーノ関連のアルバムが続くが、ついでにもう一枚。

西海岸と東海岸の両方に拠点を持っていたベツレヘムレーベル、マルウォルドロンのレフトアローンのような有名なアルバムも多い。ウェストコーストとイーストコーストの両方の良い所を生かしたアルバムだけでなく、カタログには歌あり、大編成ありでバラエティーに富んでいて、中には一捻りした特徴あるアルバムも多い。何が出てくるかはお楽しみといった感じが他のレーベルとの違いだろう。すべてを聴いた訳はないが好み的には自分の好みのものが多い気がする。

このアルバムのメンバーを見渡すと、ウェストコーストの代表的な面々。中にフランクロソリーノの名前もある。
自分はこれで買い求めたアルバムだったが、このアルバムは誰のアルバムかというと、アレンジャーのラッセルガルシアのアルバムだというのが多分正解だろう。アレンジャーとしてはジャズの世界よりは、映画音楽の方で有名。それも60年代になってからのアレンジの方がガルシアの特徴が良く表れている。
この録音が行われたのは1955年、当時から映画音楽の方で十分に稼いでいたようなので、どうやら好きにやっていいよという事で作ったアルバムの様だ。



フォーフレッシュメンのアルバムにファイブトロンボーンズというアルバムがあった。コーラスとのトロンボーンの組み合わせが実にいい感じであったが、トロンボーンのアンサンブルというのは心地よいサウンドを聴かせてくれるものだ。

このアルバムの編成上の一番の特徴は、このトロンボーンのカルテットが主役であること。今でこそトロンボーンカルテットというのは数多く誕生し、ライブもよく行われているようだが、当時としてはそれほど一般的な編成であった訳ではないと思う。

メンバーは西海岸を代表するフランクロソリーノを筆頭に、ハービーハーパーなどが参加しているが、もう一人の目玉がメイナードファーガソン。普段はトランペットだが、ここでは全編バルブトロンボーンで参加しているのも珍しい。

そして、アレンジ上でもこのアルバムを特徴づけているのが、バリトンサックスを一本加えている事。普通のビッグバンド編成だと、バストロンボーンを加えて低音域のアクセントをつけるが、このアルバムではバリトンサックがその役を果たしている。そして、その効果がアレンジ上でも実に良く機能しているように思う。

そして、素材はスタンダード曲。冒頭の曲だけが、ガルシアのオリジナルだが他は皆有名なスタンダード曲ばかり。

ピアノはマティーペイチ。普通であれば編曲でも大活躍するのだが、ここではピアノに専念している。これもまた珍しい。それに、スタンレヴィーのドラムに、ベースのレッドミッチェルが加わっている。

これらが、ガルシアの前に揃えられた素材で、どう好きなように料理するかが聴き所になる訳だが。
もちろん4人のソロが交互に登場しその聴き較べも楽しいが、やはりトロンボーンのアンサンブルワークが軽快でかつ重厚なサウンドが心地よい。ピアノに専念しているペイチもバックにソロに単なる伴奏以上の働きだ。

アンサンブル物が好きな自分にとっては、思わぬ拾い物のアルバムだが、トロンボーン好きの方にもお勧めだ。それにしてもロソリーノは自分のリーダーアルバムでなくとも、どこに登場してもいつも実にいい演奏をするものだ。



1. I'll Never Forget What's Her Name        Russell Garcia 3:20
2. But Beautiful          Johnny Burke / James Van Heusen 2:17
3. Dancing on the Ceiling        Lorenz Hart / Richard Rodgers 3:09
4. The Boy Next Door                 Hugh Martin 2:37
5. Just One of Those Things               Cole Porter 4:06
6. Zigeuner                      Noël Coward 2:55
7. Limehouse Blues          Philip Braham / Douglas Furber 3:04
8. Lush Life                     Billy Strayhorn 2:07
9. Lover, Come Back to Me  Oscar Hammerstein II / Sigmund Romberg 5:36
10. Ramona              L. Wolfe Gilbert / Mabel Wayne 2:40
11. Someone to Watch over Me     George Gershwin / Ira Gershwin 2:31
12. What Is This Thing Called Love            Cole Porter 3:04

Frank Rosolino (tb)
Maynard Ferguson (vtb)
Herbie Harper (tb)
Tommy Pederson (tb)
Dick Houlgate (bs)
Marty Paich (p)
Red Mitchell (b)
Stan Levey (ds)
Russell Garcia (arr)

Recording Engineer : Val Valentine
Recorded in Los Angeles, CA, November 14, 1955

フォー・ホーンズ・アンド・ア・ラッシュ・ライフ
クリエーター情報なし
SOLID/BETHLEHEM
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日本でのライブからパワフルな演奏を世界へ・・・

2015-03-27 | MY FAVORITE ALBUM

Bobby Enriquez Live In Tokyo


ジーンノーマンというプロデューサーがいる。Gene Norman Presents(GNP)と銘を打ちJust Jazz Concertを主催し、クレッセンドというクラブを経営する一方で、ラジオのディスクジョッキーもやっていた。そして、GNP Crescendoというレーベルも作りその演奏を広くアルバムでも提供した。
このジーンノーマン、名前は良く聴くがノーマングランツやジョージウェインほどビジネス的に実績を残したプロデューサーではなかったようだ。しかし、そのようなプロデューサーほどその仕事には商売抜きで何か拘りを持っていたように思う。

GNPのアルバムにはライオネルハンプトンのスターダストのアルバム、マックスローチ&クリフォードブラウンやチャーリーベンチュラのIn Concertのような歴史に残るアルバムがある。バップムーブメントを支え、それらのコンサートライブを出すレーベルかと思っていたが、GNPには他にもトラディショナルからモダンまでジャズの歴史の節目となるアルバムが何枚かある。

’78年になってから、思い出したようにDave PellのPrez Conferenceのようなチャレンジングなアルバムを出したりもした。レーベル自体は、ジャズに限らず他のジャンルを含めて今でも存続しているようだが、なかなか活動の軸足がよく分からないレーベルだ。

リッチーコールのグループに加わって話題になったフィリピン出身のボビーエンリケという個性的なピアニストがいた。コール共々破天荒なプレーぶりで有名になったが、このエンリケが、ジーンノーマンの目に留まりこのGNPレーベルの専属となった。

そして、そのエンリケが来日した時のライブ録音がある。80年代になって日本発のアルバムも増えてきた時代だ。エンリケのピアノにベースとドラムは日本から参加。場所は六本木のピットイン。たまたま録音が行われたのではなく、事前に企画されたアルバムのようである。というのも、このアルバムの冒頭にはジーンノーマン自身が登場、エンリケをジャズ界でこの30年間で最もエキサイティングなピアニストだと紹介するMCも収められている。80〜81年とリッチーコールのグループで有名になったエンリケを、オーナー自身が期待を込めて日本でセッティングしたレコーディングライブであった。



エンリケのピアノは独学だそうだ。そしてその技はジャンルを問わず、ラグタイムからビバップ、そしてラテン、さらにジャズだけでなくロックから、クラシックまで分け隔てなく吸収していった。それらを時と場合によって子供がおもちゃ箱から好きなおもちゃを取り出すように自由に引き出せるのがエンリケの特徴であったようだ。そして、ピアノを、まさに打楽器のように操るプレースタイルも。

MCの後、ベニーゴルソンのキラージョーから始まるが、リッチーコールと一緒にやっていたせいか、パーカーやガレスピーの曲が多い。かと思うとジョビンのボサノバや、ミスティーなどのバラードもあるが、いずれも力強く輝くスインギーなピアノだ。世の中フュージョンが流行、新しいスタイルのピアノが広まっていた中ではかえって、特異なスタイルといってもいいかもしれない。ジーンノーマンもこれに惚れ込んだのかもしれない。
バックを務めたのはベースの当時売り出し中の福井五十雄、ドラムは守新治。縦横無尽に飛び跳ねるエンリケを良くサポートしている。

このエンリケ、残念ながら大ブレークはしなかったが活動は地道に続けていた。しかし、’96年にその生涯を閉じ過去の人となってしまった。
このようなユニークなピアノも、また楽しいものであったが。

1. Killer Joe                    Benny Golson 6:07
2. Airegin                     Sonny Rollins 2:56
3. After Hours   Mark Gordon / Erskine Hawkins / Avery Parrish 5:35
4. Meditation    N. Gimbel / Antonio Carlos Jobim / N. Mendonça 6:13
5. Misty               Johnny Burke / Erroll Garner 7:15
6. Groovin' High          Dizzy Gillespie / Charlie Parker  4:15
7. Ain't Misbehavin/Honeysuckle Rose Harry Brooks / Andy Razaf / Fats Waller 3:28
8. Holiday for Strings                David Rose 3:41
9. Donna Lee                  Charlie Parker 1:52
10. Bluesette                   Toots Thielemans 5:40
11. Confirmation                 Charlie Parker 4:24
12. Del Sasser              Sam Jones / Donald Wolf 4:31
13. Could It Be Magic              Barry Manilow 6:18
14. Softly, As in a Morning Sunrise Oscar Hammerstein II / Sigmund Romberg 4:22
15. Scrapple from the Apple                Charlie Parker 4:06

Bobby Enriquez (p)
Itoo Fukui (b)
Shinji Mori (ds)

Produced by Gene Norman & Kazuo Takeda
Engineer ; Hatsuro Takanami
Recorded at Roppongi Pit Inn, Tokyo on August 7, 1982



Live! in Tokyo
クリエーター情報なし
Gnp Crescendo
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ロソリーノパワー全開の演奏は、イタリアで現地の若手に囲まれて・・・

2015-03-25 | MY FAVORITE ALBUM
Jazz A Confronto 4 / Frank Rosolino

最近の車は、スピード性能よりはエコ重視、省エネ&環境対応がセールスポイントになっている。とはいうものの、性能自体も別に昔よりも劣っている訳ではない。時々、燃費よりもこの性能を思い切り発揮できるような運転をしてみたいと思う衝動に駆られるが。

ジャズミュージシャンも同だろう。それも日々スタジオワーク中心に活動していると、時には自分の限界に挑戦するようなプレーをしてみたいと思う事もあるにちがいない。
ペッパーアダムスがサドメルを辞め、スタジオワークもやめてソリストとして活動を始めたのも、そのような心境であったのかもしれない。しかし、それは一人ではできない。一緒にプレーするメンバーと、それが実現できる場が必要だ。

60年代の半ば、ジャズの仕事が徐々に減ってきたアメリカのミュージシャンも同じであったと思う。スタジオワーク中心に仕事には困っていなかったフィルウッズもそのようなアメリカを離れ、ヨーロッパに活動の場を求めた。そこで、地元のミュージシャンと一緒にヨーロピアンリズムマシーンを立上げ活動を開始した。そのアルバムを初めて聴いた時、その熱いプレーに度肝を抜かれた。フィル&クイルのバトルも熱かったが、こんなウッズのフルパワーの演奏に接したのは初めてあった。

当時からヨーロッパはそのような演奏を生む土壌があり、その演奏に付き合える地元のミュージシャンがいて、それを支えるファンがいたという事にも感心した。多くのアメリカのミュージシャンがヨーロッパに活動の場を求めたのも頷ける。
日本にも多くのミュージシャンが公演に来日した。しかし、それは短期のツアーで、それも顔見世興行であり、時には手抜きプレーにガッカリさせられることも。日本に来たのもヨーロッパに活動の場を求めたのとは別の目的であったのだろう。その後徐々に日本でも素晴らしい演奏が聴けるようにはなってきたが、ヨーロッパのように日本を本拠地に活動するするミュージシャンというは多くは無い。

トロンボーンの名手フランクロソリーノも70年代に入って、よくヨーロッパを訪れた。トランペットのコンテカンドリとコンビを組むことが多かったが、2人ともイタリア系、ヨーロッパの中でもイタリアは特別な地であったと思う。

1973年そのロソリーノがイタリアを訪れ、地元のミューシャンと共演したアルバムがある。地元のHoroレーベル、73年に誕生し76年まで地元イタリアで活動したレーベルだが、地元のミュージシャンだけでなく、アメリカからのミュージシャンを迎えたアルバムも多い。
イタリア語のライナーノーツなので、残念ながらその内容紹介はできないが素晴らしいアルバムが多い。
このアルバムを初めて聴いた時、フィルウッズのアルバムと同様、ロソリーノのエモーショナルな何かエネルギーがほとばしる感じの演奏にびっくりした。ロソリーノの演奏はもちろんだが、バックを務める地元のミュージシャン達の演奏にも。その後イタリアのジャズ界を代表するメンバー達の若い頃の演奏だ。彼らのその後の演奏を多くは聴いてはいないが、ここでの演奏はよりモーダルな演奏だ。彼等の刺激的なバックの影響もあり、ロソリーノのパワフルなプレーは全開、ただでさえ力溢れるプレーのフルスロットルの演奏が聴けるアルバムだ。



1. Waltz For Roma             Frank Rosolino 8:19
2. Alex                  Bruno Tommaso 7:32
3. Free For All               Frank Rosolino 8:02
4. Blue Daniel                Frank Rosolino 6:47
5. Close The Door               Enzo Scoppa 4:59
6. Skylab                 Bruno Tommaso 6:28
7. Toledo                  Marcello Rosa 4:50

Frank Rosolino (tb)
Giovanni Basso (ts)
Enrico Pieranunzi (p)
Franco D'Andrea (p)
Bruno Tommaso (b)
Bruno Biriaco (ds)

Produced by Aldo Sinesio
Engineer : Massimo Rocci

Recorded at Junior Studios, Rome, May 1973.
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ルーソロフが日本で人気が出たのは、デビットマシューズのお蔭かも・・・・

2015-03-23 | MY FAVORITE ALBUM
My Favorite Things / Manhattan Jazz Quintet Live In Tokyo

クラークテリーの訃報が届いたと思ったら、今度はルーソロフが亡くなったとのニュースが先日流れた。テリーは享年94歳、最後は闘病生活が続いたが晩年まで元気にテリー節のプレーを楽しませてくれた。一方のルーソロフはまだ71歳、最後に生で聴いたのは一昨年のミシェルカミロのビッグバンドで来日した時になってしまった。けっして若くはないがまだこれからという時の突然の訃報であった。

ビッグバンド好きにとって、ソロフの存在はソロでもアンサンブルワークでも、キーマンとしていなくてはならない存在であった。特にギルエバンスのオーケストラでの活躍が一番有名だと思うが、他にも参加したグループは星の数ほどある。サドメルにも一時参加していて、New life, Suite for Popsの2枚のアルバムにも参加していた。

そして、ソロフは日本ではビッグバンド好きのコアなジャズファン以外にも人気がある。その一番の理由はデビットマシューズ率いるManhattan Jazz Quintetの創設時のメンバーであったからだろう。ちょうど80年代前半のジャズブームの時に誕生したグループだ。マンハッタンと名前がついていたが、地元マンハッタンでは聴く事ができない、日本生まれのグループであった。
レコード会社とスイングジャーナル、そしてデビットマシューズの共同企画で生まれたグループは、ある種コマーシャリズムにのって作られたもの。それ故、日本のファンのマーケティング調査が上手くできたのか、ファンのニーズを上手くとらえ、初アルバムから大ブレークした。

スティーブガッドをいう強力なドラムをバックにした、現代風のハードバップサウンドはあっという間に人気を博した。フュージョンらしさを排除したのが良かったのだろう。
スタジオワークが多く無名といってもよかったテナーのジョージヤングとソロフのフロントの2人も、これで広く世に知られる存在になった。17歳の脅威の新人といわれた、ベースのチャーネットモフェットも話題性があった。

このデビットマシューズは、以来このクインテットとビッグバンドで今でもアルバムも作り続ける。創設30年を過ぎたが、毎年のように来日してコンサートを開いている。最初の演奏で如何に根強いファンを数多く獲得したかということになるが、それには当時無名に近かったソロフ達の頑張りも大きかったと思う。

当時は日本企画のグループが生まれ、レコーディングも数多く行われ、日本発のジャズが世界中の原動力にもなっていた時代だった。マシューズ自身もアメリカでは、どうしてもフュージョン色を消したアルバムは作れなかったが、日本でこのような企画ができたことを非常に喜んだといわれているが、まさかここまでブレークするとは思わなかったであろう。

一方で、ソロフはアメリカではその前にブラッドスェット&ティアーズ(BST)のメンバーとして世に知られるようになっていた。BSTやチェイス、そしてシカゴといったといったようなブラスロックのグループには、ジャズミュージシャンが加わり、またそこからジャズの世界に入ってきたミュージシャンも多い。



このBSTのアルバムNo Sweatは、BSTの第2期ともいえる時のアルバム。グループ全体でジャズ色が強くなってきた。収められている曲に、ジョンルイスのジャンゴなどもあり、ジャズファンとしてはこれを見て嬉しくなったものだ。このアルバムのメンバーの中には、これもニューヨークのビッグバンドでの重鎮であるトロンボーンのデイブバージェロンの名前も見られる。

ソロフのジャズアルバムへの最初の参加となると、先日紹介したメイナードファーガソンの1967年のアルバム”Ridin’ High”ではないかと思う。同じく新人のルータバキンなどと一緒に参加しているが、ここで演奏している彼等も将来の自分達の活躍をその時は想像できなかったであろう。ファーガソンは良い新人を発掘していたということになる。

このところ日本でのライブアルバムの紹介が多いが、このアルバムも1987年に来日した時のライブ。
ベースは設立メンバーのモフェットからエディーゴメツに替わっている。最初のアルバムからブレークし、来日公演も2度目という事もあり、メンバー達に会場の熱気を受け入れる余裕も感じされ、よりこなれた演奏が繰り広げられている。このバンドの特徴のひとつはマシューズのアレンジ。このマシューズ節も今では大分ナツメロサウンド(という位コンセプトが変っていないともいえるが)になっているが、この頃はまだまだ発展途上であった。

1. My Favorite Things
2. No Groovin’ Allowed
3. You’d Be So Nice To Come Home
4. Pina Colada
5. What’s Cooking?
6. Recade Bossa Nova

Lew Soloff (tp,flh)
George Young (ts)
David Matthews (p)
Eddie Gometz (b)
Steve Gadd (ds)

Produced by Shigeyuki Kawashima & David Mathews
Engineer : Hatsuro Takanami
Recorded live at Nakano Sunplaza, Tokyo, April 14 & 15 1987


マイ・フェイバリット・シングズ
Manhhatan Jazz Quintet
キングレコード
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