A DAY IN THE LIFE

好きなゴルフと古いLPやCDの棚卸しをしながらのJAZZの話題を中心に。

人生の最期が予感できた時、演奏には何か別な想いが加わっているような・・・

2015-01-27 | PEPPER ADAMS
The Adams Effect / Pepper Adams

1983年、また新たにリーダーアルバムを作りライブ活動も順調で、すべてが順風満帆に思えたアダムスであったが、その年の暮れも押し迫った12月15日、最初の不幸が訪れる。

駐車していた車のハンドブレーキが緩み、動き出してしまった車とガレージに挟まれアダムスは脚を複雑骨折してしまう。そのお蔭で病床で新年を迎えることになるが、そこで、前年のアルバムlive at Fat Tuesday’sでの演奏がまたもやグラミー賞のベストソリストにノミネートされたことを知る。
制作されたアルバムは少なかったが、それらが次々とグラミー賞にノミネートされた。それもベストアルバムとかベストグループではなく、ベストソリストとしてノミネートされたということは、彼のプレーに如何に注目が集まっていたかということの証左であろう。

久々の休養をしたといえばそれは疲れた体には良くもあったが、脚の治りは遅かった。予定していた仕事はすべてキャンセル、一方で世間では自分の演奏の評価が高まっていることを知ると、ベットの中でいてもたってもいられない日々を過ごしていた。
松葉杖をついて、やっとサックスを吹く練習ができるようになったのは5月も末になってからだった。思わぬ事故のお蔭で、この時すでに演奏活動には半年間のブランクができてしまった。

6月28日のベニーカーターのコンサートが開かれたが、これには車椅子でリハーサルに参加し、やっとプレーに復帰できた。しかし、普通に仕事ができるまでに完治するにはさらに時間が必要だった。
杖をつきながらやっと歩けるようになったのは9月の末。すでに怪我から9カ月が経過していた。10月以降はボチボチレコーディングへの参加もできるようになったが、1984年は結局彼の人生において大事な一年間を棒に振ったと言ってもよい。

1985年1月13日、この日にやっと一年がかりで車いすや杖から解放された生活を過ごせるようになった。アダムスは前の年のブランクを挽回すべく積極的な活動を再開するが、そのアダムスに2回目の不幸が訪れる。

復帰後すぐ、1月の末にはヨーロッパに渡った。ロンドンからノルウェーを経て、スェーデンに着いたアダムスは、ストックホルムでギグをこなしていた。
3月9日最後にクラークテリーとフランクフォスターのための歓迎パーティーに参加した後、翌日10日には北部の田舎町Bodenで地元のリズムセクションとプレーをしていた。翌日11日、体の不調を訴え地元の医者にかかったが、そこでアダムスは何と肺がんであることの宣告を受ける運命の日となった。

やっと足の怪我から復帰できたばかりなのに、遠い異国の地での突然の宣告を受けどのような心境であったか。心中を察するには余りあるが、アダムスはそのままツアーを続けパリに飛ぶ。
ニューヨークに戻ったのは3月21日だった。23-24日はニューヨークを離れニューポートでギグをこなした後、ニューヨークに戻り医者の精密検査を受けたのは27日になってからであった。一週間の検査入院をしたが、結果が変るはずはなかった。

その動かしがたい現実に直面したアダムスは、再びヨーロッパに旅立つ。イタリア、フランスを経て再びニューヨーク戻ったのが5月6日。
ニューヨークに戻っても何事も無かったかのように仕事をこなす。メルルイスに捧げるジャムセッションに出たかと思えば、トムハレルとのギグ、そして6月のクールジャズフェスティバルではウェスモンゴメリーに捧げるライブをジミーヒースやジョージベンソンと一緒に行った。何かに取り憑かれたように仕事をこなしていった毎日であった。

そして、6月25日、26日の両日、このアルバムが録音された。

前置きが長くなってしまったが、このアルバムはそのような状況で録音されたことをまずは認識すべきだろう。そして、アダムスのリーダーアルバムとしては最後になるのがこのアルバムだ。

前作のファットチューズデーのライブから、このアルバムが生まれるまでの間のアダムスの置かれた状況を知ると、このアルバムには普通のアルバムとは別に、何か他にアダムスが訴えたいことがあるのではないかと思ってしまう。

アダムスにとっては、この一年半は、まさに夢と希望に満ちた天国から、一寸先が闇の地獄へ落ちたようなものだ。しかし、演奏すること自体にはまだ不自由さはない。否、今まで以上に力強さを感じる。これは、一緒にプレーをしたフラナガンも感じたようだ。まだ「今まで以上に吹けるぞ」という事を訴えようとしていたのか。これが最後のアルバムとは思いたくはなかったが、もしかしたらもう何枚も作れないとは思ったはずだ。

このアルバムでは、最初はすべてデトロイト出身のメンバーを集めようとしたらしい。事実エルビンジョーンズにも一度は声が掛かったという。しかし、結果的にはフラナガンだけになってしまったが、このフラナガンは言わずもがなの昔からの友人でありアダムスの音楽の良き理解者であった。

フロントの相方には今回はフランクフォスターを迎えている。サドメルでも一緒にやっているし、そしてエルビンジョーンズとのコンビにアダムスが参加する事もあった友人、このフォスターも通じ合う仲だった。
事実。アダムスはあまりリハーサルをやらないタイプらしいが、アダムスのオリジナル中心で、どうなる事かとプロデューサーは心配したが、このフォスターは最初からアダムスの想いに沿ったプレーを繰り広げたとある。
ベースのロンカーター60年代からよくやっている仲間、ドラムはエルビンジョーンズが駄目だった時、ビリーハートがすぐに決まった。アダムスにとっては良く共演する相手だ。いずれもメンバー達に不足はない。

フラナガンの軽快なピアノから、シャッフルリズムにのって久々にハードバッパーらしい演奏だ。フォスターのテナーとも良く噛み合っている。まだやれるぞという想いからか力強さを感じる。

そして、バラードプレーのNow in our Lives。「今をしっかり生きなければ」というアダムスの気持ちが聞こえてきそうな情感の籠った演奏だ。CD盤ではこの曲は別Takeも収められている。特別想いが強かったのか。



Claudett’s Wayは1978年、アダムスが結婚した時に妻の為に作った曲。Reflectoryでもファットテューズデイのライブでも演奏している。これも彼の人生の思い出の曲なのだろう。

アダムスのリーダーアルバムとしては、初めてのデジタルレコーディング。そしてルディーバンゲルダースタジオ。録音も申し分ない。このセッションでの唯一の欠点はビリーハートのドラムがうるさ過ぎる事だったようだが。もちろんプレーを抑えさせたが、最後はマルチャンネルのバランス調整で乗り切ったと。

タイトルどおり、控えめでありながら、自らがリードする時は妥協を許さないアダムスの影響力をメンバーやスタッフ全員に与えている。
このアルバムも、最後のリーダー作に相応しい好アルバムだと思う。

そして、このアルバムを録音した翌月7月には、医者から2か月間仕事と旅行を止めるようドクターストップがかかる。そして、放射線治療が始まる。その後は、体調も徐々に衰えざるを得ない、アダムスが亡くなるまであと1年3カ月。

1. Binary           Pepper Adams 6:57
2. Now in Our Lives      Pepper Adams 6:56
3. Valse Celtique        Pepper Adams 5:45
4. Dylan's Delight       Pepper Adams 6:21
5. How I Spent the Night    Frank Foster 7:02
6. Claudette's Way       Pepper Adams 7:27
7. Now in Our Lives      Pepper Adams 8:44

Pepper Adams (bs)
Frank Foster (ts)
Tommy Flanagan (p)
Ron Carter (b)
Billy Hart (ds)

Produced by Robert Sunenblick & Mabel Fraser
Recorded by Rudy Van Gelder

Recorded at Rudy Van Gelder Studio, Englewood Cliff, N.J. on June 25 &26. 1985


Adams Effect
Pepper Adams
Uptown Jazz
コメント (2)
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