141年目の命にも依存するようなラクガキの命を、ラクガキどもじしんにないその時空間の命をあいかわらずなんとこころえるか。
141年目でも大事ながらも、きりがない時空間をそれ以外に社会性やら運動会やらというあまったれっぱなひねくれっぱなしのラクガキどもに対して、ラクガキとして、140年以前と140年以内に必ず不存在を約束された一方的自由形、りょうしんからしてはなからはなまでちんことおめこの覚悟すらどうでもいいかんじがにがてなにっちゅうも、あっという間の二千年もすぎちゃってて、ラクガキどもに恥ずかしさが前提ながらも、ラクガキどもへの本質的恥を恰も人間性だとか社会性だとかという体たらくもすこぶる発揮しちまいやがってな。
ボンちゃん。私はこういうのに暑くならんから、書いては見たというか思い込んで書いても暑くならんよ。
でも、ボンちゃんカラー版読める今こそ、そして海軍本部以降、私の脳ミソでは読むのが疲れるというかモモの助あたりからほぼ読み進めるのに楽しさより努力が必要な自覚すらあるから、ちょっと楽に書いた。一言として書いてなんだけど。
以下数分後追記。
社会性知らんけども、昨日ゼブラックで初めて高台家の人々が二巻まで読めたので読んだら落涙しました。水泳選手から人魚になって、プロポーズのような抱擁の場面でご長男のすげぇイケメンがぷるぷるで笑い過ぎちゃって涙が出ました。
グリーンダカラのような後味の凄まじさと喉ごしの清々しさの読後感を味わったなと自分で自分を言語にしてみたその一時だけの時空間だったと思う。あくまでも高台家の人々、そのお母さんはなんか嫌な感じだけど、主人公?の女の子の名前が出てこねぇ記憶力だけれども、その女の子という感情線でという留保が凄腕と私に感想を述べられたくないはずなので、こっそりひっそり深みのない感想だなと改めて思わないけれども、楽に書いてみた。一言って私のようなのは書けば書くほど特にボンちゃんへの感謝のようなことのみのじじょうがどうあれでも厚くならないけど何となく厚くならないのはインターネットだからか。紙面ならば厚くなるなとか下らんことを思わない。
以下、2025.1.13追記。
昨日高台家の人々を660円で全巻揃える野望を抱いて古本屋さんに行くも一冊も見つけられなかったのを期に。
高台家の人々は漫画は二巻まで読めたけれども、インターネットで映画版を昨日だったか観賞会して一応物語の筋は観れたけれども、高台家の人々ではテレパス、サトラレでは今のところ漫画版でもやはり1巻の里見先生とばぁちゃんしか泣き所がなかったというたぶん1巻しか漫画は読んでないけれども映画は五度以上観ても全泣きというか全号泣。高台家の人々は抱擁でのイケメンぷるぷるで号泣は笑ってのそれだったけれども、わかるとは何かを個人的に書いてから練ろうと思う。
やっぱり痛みとか死とかは嫌だろう。
それが出来ぬ相談だからということもあるけれども、人間も個体というよりそれなりに人間をわかることに追い付くほどの能力もなければそれが目的というかそれも目的というべからずはあるように思わなくもない。
生まれることがわからないのをわかるという難問は知らんけれども、ラクガキどもが風邪への対抗勢力としてのまぁぶっとんでる奴等のつみかさねでのラクガキからのラクガキというそのムカチの全体主義というよりは、穀物だとか紙幣だとかへの依存というか生存というか基本そのものと風邪そのものと共に生きていくということでは、ラクガキどもは風邪をひくということをわかるという特にテレパスでもシネンハでもそれよりこうじ、少なくとも風邪はひいてねぇ奴等の生命論理というか地球大躍進?の範囲だろうけれども、必ず死ぬというか死なせる人間を作り続けていく人間をわかるということでも、風邪で痛み、それこそラクガキにとってはラクガキが愛される、愛するラクガキという特にそのたった二人のむかんけいせいに痛み、それも死ではあるけれども、それ以外にとっては、その二人の愛で、二人への愛は死という局面の全体主義のタンビとカンビであって、そんなことでも人間の目的とは何かと自問自答していくほどの人間性もやはり私は無かったと思わなくもないと思う。
因みにナンクセコンジョウくさいが、サンジのジェルマ?辺りからは完全に読むのが私の脳ミソでは難しくなってるからか、サンジだって、オナゴに手をあげもせず足あげるっても、その野郎はちょっと前までオナゴの中にいたんだとか、その野郎の玉袋にオナゴがいるんだとかを思う。
漫画ファンというか漫画マニアとてめぇでてめぇを呼べるほどでもない思いつつあるかも知れないことでは、こち亀とゴルゴ13と特に歴史物もっと特に学習用歴史物とかの漫画は漫画の可能性というか漫画革命と思わなくもないけれども、ワンピースというのは、特にチョッパーとアラバスタで、ワンピース関係性とむかんけいせいだけを保っていければ、ワンピースへの何らかで例えワンピースそのものがどうなろうとも、どうなろうともにならないからはなからチョッパーとかアラバスタまでかけちまうわけだろうけれども、既に人智を越えた次元なのは一目瞭然なワンピースだから私が述べるようなことはないと思わなくもないと、人間のその人智、人類だと叡智にまでいくつもりだが、里見先生のふこうと里見先生以外のふこう、高台家の人々のおなごのお名前出てこねぇが高台家の人々というよりおなごのふこうと高台家の人々のふこうがあくまでもヒューマニズム、ヒロイズムというかたわならば、ラクガキも二千年の何事かでもをずっとこれから知っていくというかたわで、かたわがせんこうしていくというかりょうしんというかにくたいというかの基本原理も、とてもとても140年だとか140億光年だとかではとかと思わなくもない。
140年という時空間の不存在が風邪も絶対的に不存在というかたわの論理の一つは既にもっと生まれなかった人間の数の論理ほどしゅうきょうかてきに増加していくしかないという状態ということに特に意味がないということも本質的不謹慎、本質的顰蹙、本質的論理の飛躍だろうか。りょうしんほど不謹慎な基本原理はなかなかお目にかからんけれども、不謹慎も全体主義として相性がよいから、不謹慎そのものを運動としてというのはそれなりに発達した水準ではあると思わなくもないというかそれが水準ではあるということではあったのが人類だが、ガガーリンが不謹慎か。これなんか手っ取り早く不謹慎とは何かを語れるが、ガガーリンは超ド級の英雄だからあまり書かんようにすることは私はないんだが、ガガーリンを書くほど知識の欠落が圧倒的だから書けないんじゃなくて書かん。ガガーリン書けるのも一握りの人間しかいないだろうけれども、もっとテクニカルだと書けたところで世に出てもほぼ誰も分からんレベルの奴等だからそれで書かれてもわからんと思わなくもない。
さてね。少し思わなくもないことを書き進めよう。ワンピースファンなどは決して読まないということを思わなくもないとして。
ワンピースならば、やらんだろうけれども、空白の100年、要するに空白のページで100年やれると思わなくもない。100年待ってもというより、100年ワンピースへの愛というのをで。
厄介なのは、100年程度だと完全にラクガキどもは空白どころではない連中しか常に生きてないという生命大躍進?というアンパイというか、100年の前中後といってもそれぞれ100年と1秒の空白が附随という1日単位でも相当な大問題というか。
仮に空白の100年がそれはワンピースでなくてもでも、ワンピースしか出来ないながらワンピースはそれをやるはずもないしそのような社会性はいまんとこないからやらんはずだが、ラクガキどもが100年有れば、それからのワンピースというか、それぞれ独自に海賊旗描いたりして、毎週描けんこと間違いないが、それでは誰もワンピースを読破出来ないことになるし、最後の一人の麦わらの一味は各自という時空間の歪み?ということにして、漫画も完全なる命になっちゃって、小学校から既にワンピースという授業というか図工というか画力というかもして、家族内でも、兄弟それぞれのワンピースを読みあったり。困難は100年という時空間だろうか。100年で仕上げるというより100年がきっちり100年での各自のワンピースになってないといけないわけで。
今日飲みに行こうと誘われても、いや、これから早く帰って息子のワンピース読まなくちゃいけないからとか、てめぇのすべてがきにくわねぇなとかになったら、いや、お互いにワンピースこれから描かなくちゃいけねぇんだったなとか。
以下2025.1.14追記。
おやまぁいきあたりばったりていくしゅぎについて。
所謂誰も述べてないが、エゴリョウシン、エゴチンコ、エゴオメコというしゅうかつが、そもそも基本原理であることに、それがしゅうかつまででもどこまででも基本原理にしゅうれんされつづけるわけだが、それがしゅうかつの言葉足らずでは驚異的平和主義としてのしゅうかつなのか、はくじんの一撃とラテンののりの一撃なのか、あるぜちんこという活力系なのか。
しゅうかつで出来るほぼ世界最大級のフェロソフィーというのは、プラトンとかソクラテスなんぞ霞むほどのめきしかんのかかげかたってのを人類は努力目標としているしゅうかつを鑑みることはまだまだ時期尚早というみもふたもねぇじきじきはあるにせよ、しゅうかつふぁんでとなければ、ちんこふぁんでもなし、人並み以上におめこにちんこいれたいびょうがあるまえにはちんこからは内容物がおしっこと同じ程度、同じ頻度(これは最早過去形接近中)、同じ様態で出しつづけていきてるからほとんど思わないんだが、特にエゴリョウシン、エゴチンコ、エゴチンコという三位一体の立脚は誰もないはずだが、そういうのを思いつつある段階だと、確かにすげぇ奴等はそれまで出来るかどうかという、もっとしゅうかつというよりも、しゅうかつといういのちでは、そのいのちもいのちに基本原理に基ずけば基ずくほど相性がいいとかわるいとかいうよりそれでまずはうまれてきただけの基本的人間ということにおいて、めきしかんわぁるどかっぷというのはなるほどいうにいいづらさとそれは日本語であってもそのような日本語はいまだかつても日本語でもあったためしもないし余程の暇人か空想というか机上の空論だが、その英語でもなければ日本語でもない言語体系というのは、私が思いつつある段階よりめきしかんわぁるどかっぷがまるだしでかかげかてたかと思うと、その真髄というのはどういうことかを私はこれから合算で数分かけて思いつつあるかもしれないなと思うことにしようか思わなくもない。
こじつけというのもそれなりに万能細胞ではあるけれども、基本原理にエゴもそもそも不存在ながら、基本原理という動力、発生はエゴロジガル。時空間もしかりだろうし、哺乳類もしかりだが、では時空間の不存在で哺乳類はその基本原理の解決が可能か。絶対的なのは哺乳類の不存在で時空間が可能かというのがアンパイというか基本原理だけれども、時空間ということの動力というのをエゴロジガルでは、時空間の脳なし、時空間の愚かさとかを少しは思わなくもないという程度の脳ミソしかなかったなと思うことを思わなくもない。
以下2025.1.15追記。
例えば、おやまぁワンピース読書しがいあるは、おやまぁワンピース制作しがいあるというりょうしききかんせつで、どちらもしがいへのほうこうの基本原理原則。本質的にそれはある向きとか時期とかには優しい奴等ということすらもしがいのほうこう、しがいのぎせいというのは、モダニズムでいうとどんぶりかんじょういにゅうてきに、二千年ならば優しさが追い付かない、取り返しつかない、ワンピース読ませられなかった。
信長に ワンピース読ませぬ 体たらく
かみしめ じかくし おもうだけしかできないらくさ
ノーベル文学賞は最近読んだ文庫本で三島は川端のためにあったのと、既にその時点で大江という目利きというか確かに脳ミソが違うということもあるにせよそこまでかとしか思わなくもない程度の脳ミソの私は、ワンピースははなからはなまでノーベル文学賞のためではないはずだが、他の文学賞よりも画力がお話にならない、お話が通じないほど秀でてるということと、ノーベル文学賞は知らんが、ラクガキどものピカソ的文才でひらがななりアルファベットなりが反転された、パパいつもありがとうとか、他の圧倒的大多数には意味も価値もないほど文学的価値が内在され続けてる現状を鑑みると、ラクガキどもが、はたしていくのははたして、ラクガキどもがありがとうに値する代物かという難問というか難題。欠落してればしてるほどありがとうなんてのも当たり前だがあるわけだが、第二次世界大戦がなかったら、もっとひどい第二次世界大戦というのは明らかというかとしても、第二次世界大戦にありがとうというたようせいと範囲は違ってたらそれもまた生命体では既にないというみもふたもねぇ論理だけを足りねぇ脳ミソで思いつつあるほど私は暇人だったが、戦争と平和と人間という相克だとか依存だとかはよう知らんが、ジェルマンが出てきた辺り、正確にはモモの助辺りから読むのが難しいというか分からなくなってきた私の目安では、川端大江並みにワンピースが分からないほどの凄腕な漫画にこうかいしていたと書くとこうかいに後悔が含まれるがたいした差異に本質的にはならないなと思う。
私の目安な読みやすさは、即ちこまわりが大きめだと読みやすいというだけでしかないように思わなくもない。
川端大江も文字が小さめだからだったかも知れないと思わなくもない。
以下2026.1.18追記。
私はとても漫画の一齣も書ける画力も我力も努力もなかったので、空白の1秒も書けねぇなと思うと、では、フランキーを少し思うということにして、ニンゲンヘイキとは何か。
いずれかとてつもないかおかどちがいか知らんし、特別知識の裏付けも社会性の裏付けも人間性の裏付けも覚悟とか勇気とか夢とかの裏付けもないが、朧気な命の裏付けが朧気にあるような気持ちのように思うと、クソガキどもを一千年間眠らせちまうということが出来れば、誤解を恐れないから書くと、良いとしか私は書かない。
一千年後に一年間生きていく。一年後当たり前だが一千年間眠らせちまう。一千年がもっと長ければ良いし一年間がもっと短ければ良い。
しかしマラドーナ級のサッカーの天才というよりサッカーとか社会性とかの何らかの天才はもう出ないと書ききるとサッカー小僧に夢がなくなく物言いだが、マラドーナ級の天才サッカー選手が一年間いつもワールドカップがないという事態とか、ご家族の問題でも、出会うということがないというへいきはへいきであるかへいきではないか。
一億万年の命のかけかたというのはどういうことか、クソガキどもが風邪をひこうがふかそうがそれほどそういうのをどう思うような人格は今も今までもないというかある意味人一倍私はないんだが、より先の時空間にクソガキどもをもっていければ、そもそもクソガキどもだからへいきだし140年というへいきもへいきではあるしそれをへいきということをクソガキは思う時空間があるほど暇じゃなかったとしか思わないだろうし、一年間の運動に、特に学習という難問が解決されるという面でだと二年間とか十年間とかでは過程の問題として地道に数億年かけてそれをやるにせよなるべくクソガキどもをいかす時空間が少ないにこしたことはないから一年間でも長いというかリスクでしかないように思う。
クソガキどもを一千年間眠らせるということがゴロツキ的長寿実現という論理というより、たぶんクソガキどもはやるように思わなくもないが、時空間として一千年間を眠るとか送るとか過ぎるとかいうようなこともない何らかになるのかも知れない。最近一千年駅から電車乗って二千年駅に降りれば一千年のぎせいがどういうことかと思うと、一千年のぎせいが一千年後のぎせいによってぎせいが出来ないとぎせいにならないから、クソガキどものぎせいからクソガキどものぎせいに出来る。日本語で漢字を一つだけの一辺倒だとあぶねぇがどう転んだところでニンゲンヘイキなんてのはあぶねぇからどうということもない。