統計学は、ことばよりも数字による分析方法だから(前回の哲学や、前々回の言語学よりも)、正常を定義するのには最適のようにも見える。
私たちは、何を測定しても小さな誤差が生じる。
しかし、十分多くの数を測定することにより集めた数値たちを記録していくと最後には美しい曲線にまとまる。
この曲線は美しい対称形であるその形からベル形(鐘形)またはベル曲線と呼ばれる。
ベル曲線の頂点には最も頻度の高い数値が来、曲線を両側へくだるに従って頻度は低くなり、この平均値から離れてゆく。
ところでベル曲線は、生の仕組みについて多くを説明してくれる。
例えば、人間の特徴は、肉体、感情、知性、態度、行動のどれを採ってもひとりひとり異なるが、この差異は決して無法則ではなく、さまざまな特徴がベル曲線に沿って分布し、人口中に連続分布している。
身長、体重、知能指数、性格などの特徴は、平均値を中心としてはずれ値がその両側に左右対称に並ぶ形で固まるのである。
このことを最も簡潔、明瞭に表しているのが標準偏差であり、標準偏差は統計学の用語で、測定値が安定した規則性を持って平均値の付近に集まる様子を指して使われる。
しかし、統計学をなんらかの単純明快な形で用いて、精神の「正常(normal)」を定義することは出来るのだろうか。
また、ベル曲線は、誰が精神的に「正常」で誰がそうでないかなど判断する科学的指針となるのだろうか。
現実的には、けっして出来ないし、するべきではないだろう。
なぜなら、現実は、統計、状況、価値などにまつわる判断があまりにもたくさん在って、それらのファクターたちが統計学による単純な解決を妨げるからだ。
そもそも、どこに境界線を定めるのであれ、軸上でその境界線の両隣にいる人たちはまったくと言って良いほど変わらないはずなのに、一方は病気で、他方は健康だというのであろうか。
確かに基準値や境界線がある程度必要なことは、私も認める。
しかし、日々の不安や悲しみはどれくらい深刻ならば精神疾患か、などという問いに、安易な基準値は存在しない。
そして、明らかなことは、統計ばかり見て、精神疾患を大きく拡げる行為はナンセンスであるということである。
ところで、臨床医、専門家団体、専門誌、新聞、そして世界中の何十万もの遺族が広く反対したにもかかわらず、
DSM-5は、死別から何週間も経っていないような場合でも、
遺族に対してMDD(大うつ病障害)の診断をくだしやすくする、という、
頑迷にも間違った決定はなされた。
確かに、喪の過程で、うつ病と全く同じ症状が出ることは珍しくないことである。
前回も登場したDSM-5に関わったアメリカの精神科医の言葉を借りれば
「症状が深刻で長期にわたって続き、生活に多大な支障を来たし、遺族の命までもが危ぶまれる状態で無いかぎり、大うつ病の診断の必要はない」
のである。
人生の基本調律を成しているものを扱うとき、精神医学は慎重であるべきだ、と、私は、思う。
もし、悲嘆を医療の対象にするのならば、心痛は低俗なものとなり、死別を乗り越えてゆく自然な過程が妨げられ、悲嘆を癒すために古くから使われている数多くの文化的儀式が頼られることがなくなり、不必要で有害なおそれのある薬物療法
(当事者だった私に言わせれば、過剰投与による感情のさらなる混乱と過剰投与を止め始めると出現する離脱症状のひとつとしての整理の出来ないほどの感情の錯綜を生むおそれのある薬物療法)
を招く。
悲嘆を癒す共通の方法はない。
ひと(ひとびと)は、それぞれの風土、それぞれの文化、それぞれの伝統、それぞれの宗教、それらに基づく価値観のなかで、
行動面や感情面にかかわるさまざまな対応や儀式を定めている。
さらに、悲嘆の内容、症状、期間、他者からの支えなど、個人差がひとりひとり大きく、定まった「応え方」などないはずである。
悲しみに境界線が視えないのだから、またひとりひとりの背景が在るのだから、
悲しみを自分なりの形受容しようとしているひとと精神医学の助けが必要な抑うつ状態からどうしても抜け出せないひとを分ける、明らかで確かな境界線はない。
明らかに必要な場合を除いて、精神医学は不要で不適当になりがちな精神医学の儀式を押しつけるべきではないだろう。
悲嘆を医療の対象にしたところで、誤認された「患者」と遺族に対して間違ったメッセージを発するだけである。
悲嘆に精神疾患の誤ったレッテルを貼ることは、
失われた命と遺族の死別反応を貶めることである。
なぜなら、あらゆる文化の核に在る、時間の洗礼を受けた厳粛な死の儀式を、表面的で無機的な医学の喪とその悲嘆の対処方法で代用など出来ないからである。
ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
ここ何日か、私は、テレビでニュースを見ることが減りました。
私は、テレビの画面、画面の向こう側にある現実を見ないようにしているなあ、と、自覚しています。
地震発生から72時間を過ぎたあたりからでしょうか......テレビのニュースを避けるようになっている自分に気付きました。
つらい事実から目をそらしがちな私ですが、自分なりに前々から調べ、考察し、想ったことを描こうと思いました。
ですから、(アメリカ大統領選挙などの)去年のシリーズの続きはいったん、先延ばしにして、私たちに線など引けるのか?について、身近なことと病の境目について描いていきたいと思います。
いつも読んでくださりありがとうございます。
弱虫で、逃げ癖のある、私の拙い文書ですが、これからも読んでいただけるとうれしく思います。
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、 次回。