おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

定義もないのにつくられた「インターネット嗜癖」という名の精神疾患 -私たちに線など引けるのか?④-

2024-01-07 06:49:48 | 日記
特定の時代と土地に限っても、規範は衝突する。
社会学の父のひとりであるデュルケームは1世紀以上前に、
道徳的な正常と統計学的な正常とのありがちな相違を実証する興味深い統計を示した。

どんな社会も犯罪を禁じているが、犯罪は至る所でしょっちゅう発生している、つまり、社会は統計学的な観点からは完全に正常だが、法的な観点からは、完全に異常であることになる。

また、
(デュルケームの代表作とも言える『自殺論』を大雑把かつ金属並みの展性と延性をもって解釈すると)、

社会は自殺を禁じる傾向にあるが、自殺は何より個人的な決断であるにもかかわらず、各国の自殺率は年によって驚くほどむらがない。
非常さはギャングや企業のトップでは賞賛されるかもしれないが、それは両者で大きく異なる態様を取るだろうし、大きく異なる形で報いられたり罰せられたりするはずである。

「正常(normal)」について定義したり、「正常」とは何かという答えたりすることは、社会学者や人類学者、経済学者や、法学の学者、さらに文学の学者にとっても、とっても困難なことだろう。

世界に暮らす人間の習慣は時代や土地や文化によってあまりにも異なるからだ。

ところで、日本では、「ゲーム依存(症)」という造語が在るが、
ゲーム嗜癖がより的確な言い方だと、私は思う。

依存症候群(dependence syndrome)は、
アルコールや薬物など物質使用による障害を指し、
嗜癖(addition)は、
ギャンブルやゲームなど行動による障害を含んでいる。

さて、「インターネット嗜癖」は、DSM-5の中で正式な精神科の診断と認められていない。

意外かもしれないが、これは、さまざまな議論どころかさまざまな圧力がありながらも、DSM-5の作成者たちの自制心により、為し得たことであると思う。
彼ら/彼女らに敬意を表したい。

(ちなみに、日本は、辞書であるはずのDSMをいつまでもバイブルのように崇め奉っているが、字面を追うことに終始し、さらに内容を吟味していないため、そのことをDSM-5そして5以前の作成者たちにも呆れられているのが実態である。
ちなみにDSM-5作成者たちはDSMを完璧だとは思っていないし、改良の余地を認めている。)

しかし、DSM-5の完全な支持がなくても、「インターネット嗜癖」に対して、おびただし書籍、雑誌や新聞の記事、テレビによる広範な告知、怪しげな治療プログラムの登場、何百万人(たぶんもっと増えるが)もの患者候補、新たに登場した「オピニオンリーダー」役の研究者や臨床医による盛んな喧伝などの外圧は依然として、健在だ。
むしろ、手を変え品を変えもっと勢いと影響力を増しているように思えてならない。

しかし、そもそも、「インターネット嗜癖」は何なのか定義すら出来ないのではないだろうか。

確かに、私たちの多くは(少なくとも私は)、道路の脇でも真夜中でもメールをチェックし、電子の世界の友人たちから引き離されている時間を寂しく感じたり、時間が空けばネットサーフィンやメールやゲームをしたりする。

これは本当に嗜癖と言えるのだろうか。

必ずしも言い切れないであろう。

嗜癖と言えるのは、
執着が強迫的で、現実生活への参加や現実生活の成功や実益の妨げになっていて、著しい苦痛や機能障害を引き起こしている場合である。

ほとんどの人にとって、インターネットとの結びつきは、たとえそれにどれほど夢中でかじりついていようとも、苦痛や機能障害をはるかに上回る快楽や効率をもたらしてくれる。

それは隷属と言うよりは、熱中や道具の活用というものに近く、精神疾患と見做すのは最善ではない。

数回にわたってこのシリーズで描いていることに共通するが、
あらゆる人々の日常生活や仕事の不可欠な部分になっている行為を精神疾患として名前を決めて、引くこともままならないせんを引こうとすることは、ナンセンスだ、と、私は、思う。

確かに、喜びもなく、強迫的に
、無意味に、自己破壊的にインターネットを使う、というごく一部のユーザーに対する議論もあるかもしれないが、それをより多数に対する議論に拡張しないことの方が大切ではないであろうか。

電子機器に縛りつけられてもうまくやっている多くの人に誤ったレッテルを貼らないですむような形で問題があれば、そのつど考えてゆくしかない。

なぜなら、「インターネット嗜癖」という名称がひとり歩きをし、「インターネット嗜癖」がすべての隠れた根本問題をせつめいするものになってしまうと、他の(特に精神的な)問題を抱えていても見落とされかねない。

今現在、「インターネット嗜癖」と呼ばれるものの研究は非常に貧弱で、多くを教えてなど、くれはしない。

「インターネット嗜癖」はメディアのお気に入りではなくて、厳粛な研究対象になるべきなのである。

お隣の国、韓国は世界で最もインターネットが発達している国のひとつであり、過剰なインターネットの使用が他の国々よりも問題になっている。
しかし韓国政府は、教育、研究、公共政策によって賢明にこれに対処していると世界から高い評価を受けている。

隣国の政策のどれを採っても、「インターネット嗜癖」を精神疾患と声高に宣言したりする必要のないものである。

我が国も隣国を参考にしながら、「インターネット嗜癖」どころか、それよりも安易な「インターネット依存症」や「ゲーム依存」という自らつくり出した得体の知れない概念に踊らされないように注意したいものである。

さあ、これから、踊らされずに、自ら踊ろうか。

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。

篠山紀信さんが亡くなったという記事を見ながら、
三島由紀夫繋がりからか、
細江英公さんの三島由紀夫写真集『薔薇刑』の存在を思い出しました。

さらに何故か(美術の方の)大学院時代の人々を思い出しました。

そしてさらにアートによって強迫性障害を乗り越えた人の作品を思い出しました。

とにかく、芸術って深くて広くて大きいなあ、と漠然と思いました。

今年の関東は暖冬です。

本当に、外を歩いていると、もしも、私が、靴屋さんならロングブーツの売れ行きに悩むだろうなあ、と思いますし、
服屋さんならロングコートの売れ行きに悩むだろうなあ、と思いますし、
おでん屋さんなら、暖冬は困るかなあ、と思います^_^;
そのくらいの気温ですが、昨年の猛暑も思い出すと、異常気象かなあ、地球の悲鳴なのかしら......とも、思います。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。



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