おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

小林秀雄がドストエフスキーの文学的行為の意味を解釈するために用いた「物理学の革命」のモデル-『罪と罰』の構造の変化と「物」的世界像から「場」的世界像への変換-

2024-10-20 06:42:54 | 日記
柄谷行人は、マルクスが哲学ではなく、哲学者を問題にしたと言い、さらに、マルクスの文体が『ドイツ・イデオロギー』を境にして変わったと言ったようである。

柄谷行人がこのような問題意識を持つのは、柄谷行人が、小林秀雄のマルクス論の影響を受けているからかもしれない。

小林秀雄は、そのマルクスの読解において、マルクスの価値形態論を徹底化し、マルクスの理論を、単なる理論ではなく、理論それ自体、あるいはそれを指示する人、あるいはそれを研究する人をも巻き込む理論であるとみなしているようである。

小林秀雄は、『様々なる意匠』のなかで、

「商品は世界を支配するとマルクス主義は語る。
だが、マルクス主義が一意匠として人間の脳中を横行する時、それは立派な商品である。
そして、この変貌は、人に商品は世を支配するという平凡な事実を忘れさせるという平凡な事実を忘れさせる力を持つものである」

小林秀雄は、マルクスの商品論を逆手にとり、マルクス主義という商品の魔力について語っている。

小林のマルクス主義批判は、いわば、マルクスの理論を使ってなされたといってよいのかもしれない。

小林秀雄のマルクス主義批判が決定的な意味を持ったのは、小林秀雄のマルクス解釈の徹底性によるのだろう。

マルクス主義者やマルクス研究者たちは、マルクスの理論を単に理論としてのみ理解し、その理論のなかに、自分自身の存在も含まれているということを忘れ、古典物理学がそうであったように、観測者が観測対象から独立した前提である、という前提を疑うことは、できなかったようである。

マルクスの商品論も理論であり、理論と実践の弁証的統一なる言葉も理論であったのだが、マルクス自身にとっては、それは単なる理論ではなかったようである。

小林秀雄のマルクス解釈は、現在でも十二分に読む価値があるものであるのは、小林秀雄自身の思考の徹底性の結果であり、さらに、マルクスのテクストがこれに耐えうるだけの深さと広がりを持っていたからであろう。

このように、小林秀雄は、徹底して考える人であったのだが、やはり小林秀雄の思考の基礎的な部分に物理学があり、私たちは、小林秀雄を読むときに、この小林秀雄と物理学の関係を避けて通ることは出来ないように思われる。

戦後の小林秀雄は、昭和23年の湯川秀樹との対談「人間の進歩について」をはじめとして、昭和40年の岡潔との対談「人間の建設」、およびベルクソン論である「感想」などにおいて、物理学について直接的に、しかも具体的に語っているが、戦前の小林秀雄は、物理学について、直接的にはほとんど語っていない。

むしろ戦前の小林秀雄の言説のなかからは、物理学の影を読み取ることさえ容易ではない。

しかし、小林秀雄は、戦前から物理学に興味を持ち、徹底的に研究していた。

小林秀雄と理論物理学のつながりは、「様々なる意匠」による文壇デビュー以前の、アインシュタインの来日まで遡るようである。

小林秀雄が文壇へデビューする以前からの年下の友人である大岡昇平は、『小林秀雄の世代』というエッセイのなかで、小林秀雄と物理学の関係について

「彼がエディントン『物的世界の本質』を読んだのは昭和7年だったらしい。
霧ヶ峰では小林はマイケルソン=モーレーの実験や「フィッツジェラルドの短縮」から、どういう風に相対性原理が出て来たか講義してくれた。
熱力学の第二法則とエントロピーの増大の話を聞いたのもその時である。

小林にはエントロピーの増大という事実は、エネルギー恒存の法則を破るものと映り、宇宙の死を意味したらしい。
これは『現代文学の不安』に窺われるが、霧ヶ峰の薄暗い山小屋で講義する小林の真剣な顔を、私は思い出すことが出来る」
と、興味深いエピソードを伝えている。

大岡昇平は、昭和10年、小林秀雄と霧ヶ峰で一夏を過ごしたが、そこでの話題はもっぱら理論物理学のことであったようである。

このとき、小林秀雄は33歳であり、文芸評論家として文壇にデビューしてから、すでに6年が過ぎていた。

小林秀雄にとって、物理学という問題は、単なる一時的な気まぐれの対象であったはずはなく、また、小林はこうした物理学への関心を、戦後まで一貫して持続しており、小林秀雄自身は明言していないが、小林秀雄にとって、物理学という問題が、本質的な問題を持っていたことがうかがえるように思われる。

昭和10年といえば、小林秀雄が雑誌「文学界」を創刊し、その編集責任者となった年である。

そして同誌に『ドストエフスキイの生活』を連載した年である。

小林秀雄は、昭和4年に、『様々なる意匠』で文壇にデビューしており、昭和10年は、小林秀雄の初期の文芸時評的仕事が一応の完成を見せた頃であり、中期の小林秀雄の出発の頃ということになり、小林秀雄が文芸評論という仕事に全力投球している時期であろう。

この頃、小林秀雄が『ドストエフスキイの生活』という、極めて重要な仕事を始めながら、理論物理学に非常な関心を持っていたということは、小林秀雄にとって理論物理学の問題が、ドストエフスキーの問題と同じくらい、もしかすると、それ以上に重要であったことを意味してはいないだろうか。

大岡昇平は、霧ヶ峰で小林秀雄から理論物理学の講義を受けた翌年の昭和11年のことについて、『昭和十年前後』のなかで、

「その翌年から私は鎌倉の小林の家の近所へ下宿して、毎日のように交際ったのだが、どうも文学の話をした記憶はあまりない。
物理学やベルクソンの話ばかり記憶に残っている。
後で「文学界」の同人になった佐藤信衛と三人で、鎌倉の裏山を散歩し、佐藤から物理学者としてのデカルトの講義を聞いたこともある」
と書いている。

佐藤信衛は、小林秀雄の勧誘で「文学界」の同人となった人であり、『近代科学』(昭和12年)という、デカルトから量子力学までの物理学の発展と革命をわかりやすく書いた本の著者である。

小林秀雄という文芸評論家が、昭和10年前後、理論物理学に非常な関心を示していたことは興味深い事実ではないだろうか。

小林秀雄が理論物理学に非常な関心を持ったのは、小林秀雄が「物理学の革命」のなかに、小林秀雄自身が体験してきた文学革命と同じものを見出したからであり、さらに小林秀雄がおぼろげにしか対象化出来なかった革命のドラマを、理論物理学は、より具体的に、より客観的に、またより徹底的に究明しつつあったからではないだろうか。

また、小林秀雄は、物理学の研究を通じて「科学とは何か」という問題を追及したのだろう。

小林秀雄は、マルクス主義という「科学」と対決するために、物理学を通じて科学の本質に触れることを必要としたようである。

ただし、小林秀雄は、物理学的知見を、文学や批評の世界に導入してはおらず、ましてや、物理学を上に置き、文学を下に置いて、物理学という高い場所から、文学を啓蒙しようなどとしていないことは重要であるように思われる。

小林秀雄は、物理学の問題は、物理学の問題として語っている。

たとえば、文学や芸術と物理学を対比して語るときでも、決して価値の優劣を前提にして語っておらず、その類似性や共通性を語るだけである。

戦前の小林秀雄のテクストのなかには、物理学の問題は、ほとんど出てこないのだが、小林秀雄が科学や物理学について、ひそかに独自の思考をめぐらせていたようである。

たとえば、昭和7年発表の「現代文学の不安」のなかに、
「エントロピーの極大はわが身の死に等しく明瞭だ」とか、
「あらゆる原子の足元はふらつき、時空の純粋な概念も全くその意味を失ってしまった。
われわれ素人が垣間見たたけでも、これら科学の高級理論は夢に酷似している」
といった、相対性理論や量子物理学の知見が書きとめられている。

昭和10年から11年にかけて書かれた『「地下室の手記」と「永遠の良人」』と題するドストエフスキー論のなかに、

「ファラデー、マックスウェルの天才以来、実体的な『物』に代わって、機械的な『電磁場的』が物理的世界像の根底を成すに至ったのは周知の事だが、この物理学者等の認識に何等神秘的なものが含まれてはいない様に、ドストエフスキーが、人間のあらゆる実体的属性を仮構されたものとして扱い、主客物心の対立の消えた生活の「場」の中心に、新しい人間像を立てたことに、何等空想的なものはないのである」
と述べている。

小林秀雄が、このようなむき出しの形で、物理学に言及したことは極めてめずらしいように思われる。

小林秀雄は、物理学の知見を持ちだせば、読者を説得することが容易であることを知り抜いていたからこそ、文学解釈において、物理的知見を使うことを避けたかったのかもしれない。

しかし、小林秀雄は、ドストエフスキー論で、もう一度「物理学の革命」のモデルを使って、ドストエフスキーの文学的行為の意味を解釈しようとしているのである。

小林秀雄は、『罪と罰』という小説の構造の変化について、『「罪と罰」について』のなかで、

「ここに現れた近代小説に於ける実体的な『物』を基礎とした従来の世界像が、電磁的な『場』の発見によって覆ったにも比すべき案件であった」
と述べている。

小林秀雄が、ドストエフスキーを論じながら、2度も、「物理学の革命」のモデルを使っているのという事実は重要なことだと、私には、思われる。

また、小林秀雄の批評作品に占めるドストエフスキーの比重は、極めて大きいが、その大きさが、ある意味では、小林秀雄における理論物理学の問題の大きさと対応しているようにも、思われるのである。

小林秀雄は、ドストエフスキーを論じながら、「物理学の革命」を「物」的世界像から、「場」的世界像への変換としてとらえており、これは、小林秀雄が、20世紀の「物理学の革命」を正確に、また深く理解し、考察していることを示すものではないだろうか。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

小林秀雄以外に、ある経済学者の先生がオススメして下さった本を読みはじめてからも、
「あっ、私、落ちこぼれだったけれど、商学部にいたなあ😅」
と最近は、なんだか思い出しています😊

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

*ちなみにこの本です😊→→→





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