おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

檸檬と画集によるオブジェの効能

2023-08-21 06:14:37 | 日記
『檸檬』の主人公は、

自分が没入できない画集なら、巨匠の名画であろうと、

「自分にとっての価値」

はない、と、考え、画集の外観、表紙や背表紙の色を

「ただの着色された物質」

として、

「自身が考える美しいもの」
ある「創作物」の「素材」

に利用する。

輸入画集の売り場で、
突如、彼は、オブジェ制作を始める。
画集を重ね、山を作っては崩し、順番や組み合わせを変えて、また、重ねる。
そのたびに山の色が変わる、形が変わる、ボリュームが変わる。
やがて彼は、「レモンイエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたような」檸檬をひとつ置く。
このとき彼は、

「自分自身」がつくり出した「檸檬と画集によるオブジェ」

によって、

「不吉なかたまり」

を、心の中で消し去って、

「自分自身の満足する美」

を、感じることが出来たのではないか、と、私は、思う。

絵画療法において、何も言葉として語らなくとも、紙面に思い切り
「いま・ここ」の自分
を表現することは、治療に役立つのみならず、自分を表現し合う創作活動の過程で、同じ絵画療法のメンバーとも言葉で語り合わなくても
「生を肯定」
し合える有用なツールである、という考えと似ている、と、修論以降、私は、考えている。

『檸檬』の中の「檸檬」の存在は、芸術による、非対症療法的な心理療法の
「素描」

(dessin、drawing)であるように、私には、感じられる。

外的な評価・圧力に拮抗するための手段として
「自己の満足する美」
「創造」
することへの意義を、(脱線しまくりながら)何回かに分けて、梶井基次郎の『檸檬』への私なりの解釈として、描いてみた。
絵画療法についても、また(そのうち)、具体的に描いてみたいと思う。

ここまで読んでくださりありがとうございます。蒸し暑い日が続きますが、頑張りすぎず頑張りたいですね。では、また、次回。


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