「すべてのものには美しさがあるが、
すべての人にそれが見えるわけではない」(孔子)
その逆や、美しさの部分を恐ろしさに換えても、上記の孔子のことばは成り立つであろう。
ビル・ゲイツやイーロン・マスク、スティーブン・ホーキング(2018年3月死去)は皆、
私たちに従順であるようなコンピューターを作ることが、やがて将来の人類生存に対する脅威になるかもしれないと危惧している。
また、人間が今後、地球外生命体と接触する確率を計算する理論家は、
人間が接触する地球外生命体が機械であり、生物学的生命体ではないと予測するようになっている。
なぜなら、生物学的生命体の生存期間の方非生物学的生命体の生存期間よりも、もともと短く、さらに単純な元素の複雑な元素の複雑な生命体への進化は、宇宙で必然的に起こることであるからである。
そうした生命体には、賢くなり、また愚かにもなりながら、自らにやがて取って代わる機会を作り出す性向が、もともと等しく備わっているのかもしれない。
しかし、私たち人間は、コンピューターに制御された世界に生きている自覚があるのならば、人間が不要であるとコンピューターが決めるリスクを何よりも先に話し合うべきではないだろうか。
それはコンピューターがどんなに便利な世の中を創造できるか、ということより先に話し合われるべきであり、
コンピューターの良い面だけをみながら語る世界を創造するという、目先の喜びを重視するべきではない、と、私は考える。
人工知能を開発するコンピューター分野の天才たちは、
「己が出来ることはやるべきだ。
やらなければ、競合する者に間違いなくやられてしまう」
と考え、フランケンシュタイン博士のような独善的な態度を取っている。
確かに、彼ら/彼女らの取り組みは技術の上では素晴らしいが、
倫理に関する議論や、冷静な他者の監視によって縛られていない。
さらに言うなら、
彼ら/彼女らのやり方は、
手段のみに重点が置かれ、目的はまったく考慮されず、ともはすると、目標すら考慮されていないのである。
私の裡に在る人間というものに感情的な愛着からかもしれないが、「人間はよいが、コンピューターはもっとよい」というような彼ら/彼女らの姿勢を私は、ひどく恐ろしく感じている。
人間は、コンピューターの側がもたらすシンギュラリティの世界に立ち入るべきではない。
その世界では、人間が担うであろう役割は無視されてしまうであろう。
そこは人間が、存在していても、必要と捉えられない世界だ。
繰り返すが、
私たち人間に対して最終的にどんな影響があるのかを、前もって徹底的に話し合うことなく、人間が出来るありとあらゆることや、さらにそれ以上のことがこなせるプログラムを「深く考えもせずに」、「議論を尽くしもせずに」開発すべきではない。
熱心なテクノロジー専門家にかぎって、いつもいつも、人間に利益をもたらすようなコンピューターの利用を強調するが、そのリスクや意図せぬ結果は、すべてと言ってよいほど無視している現実に目を向けてほしい。
コンピューターが作るユートピアを夢見る者たちは、究極のデイストピアを創造しつつある。
もしそんな世界が創造されたら、
その世界では人間は不要であると規定されており、人間の尊厳も人間らしい人間もいない。
ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
前回からの続きですが、気持が入りすぎて?、長文になってしまいました。
今日も頑張り過ぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。