「超官僚制国家においては、書類が全てであり、人間の生死も1枚の紙切れに過ぎない。」
このようなソビエト社会を風刺したトゥイニャーノフの小説『キージェ中尉』が映画化されたのは「皇帝」スターリン政権下の1934年である。
ある日、神経衰弱気味の皇帝陛下ニコライ1世がお昼寝をしていると、女官の「助けて!」という悲鳴が聞こえる。
お昼寝を邪魔された皇帝陛下は、癇癪を起こし、早速犯人を捜すべく、衛兵の名簿を提出させるが、皆パニック状態に陥っており、名簿上ではシュニバーエフ中尉を故人にしてしまい、
さらに、「ポルーチキ.....ジェ」(中尉)」と口ごもったのを、皇帝が、「ポルーチク・キージェ」と聞き違え、警備の不手際に怒り
「キージェ中尉か、職務怠慢でけしからん、逮捕しろ、そしてシベリア流刑だ!」
となった。
こうして、シニュバーエフ中尉は生きながら死んだものとされ、誰に話しかけても目の前に存在しないかのように扱われ、一方、架空の人物であるキージェ中尉はさも存在するかのように扱われていくのである。
さて、さらに神経衰弱がひどくなった皇帝は、
キージェ中尉は、自分を暗殺者から守ろうとして、女官に悲鳴をあげさせ起こしてくれたのだ、と考えるようになり、
「なんとあっぱれなヤツなのだ!
よし、キージェを呼び戻せ!シベリアに迎えに行け!!」
と周囲に命じる。
皇帝の気まぐれで、存在しないキージェ中尉はシベリアから呼び戻され、昇進し、不在を隠す周囲によって、皇帝から下賜された美しい女官と結婚式を挙げ、なぜか子宝にも恵まれ、充実した人生を送ってゆくのである。
官僚には付き物ともいえる汚職とも無縁なおかげで、キージェ中尉は、皇帝陛下の忠実無欲な部下として、ついには、将軍にまで出世する.....。
セルゲイ・プロコフィエフは、ロシア革命の混乱を避け日本を経由し、アメリカ、後にパリに亡命していたが、40代に差しかかると、望郷の念やみがたく、積極的に祖国の音楽産業に協力を始めた。
この頃に映画音楽として作曲され、後に組曲に改められたものが、交響組曲『キージェ中尉』である。
「キージェの誕生」「キージェの結婚」「キージェの葬送」というようにストーリー展開に沿って音楽が配置されているので、あらすじさえつかんでおけば、音楽だけで楽しめるようになっている。
プロコフィエフは、劇音楽の天才であり、存在しないキージェ中尉を巡り繰り広げられるドタバタ劇が活き活きと描かれている。
圧巻なのは、「キージェの葬送」である。
皇帝の気まぐれに疲れていたとはいえ、キージェをさんざん都合よく使い回してきた官僚たちは、皇帝の
「我が最も忠実なる家臣、キージェ将軍に面会したい!」
と、気まぐれな望みを聞いて青ざめる。
キージェは実在しない......それどころか官僚たちはキージェの給料まで使い込んでいたため、急遽、キージェが亡くなったことにし、皇帝にそれらしい報告をする。
見たこともない将軍の死を惜しんだ皇帝は、なんと国葬を命じる。
こうして、空っぽの棺桶とともに、壮大な葬儀が執り行われる。
このなんとも滑稽な場面を描くにあたり、プロコフィエフは、悲しげな旋律と能天気で陽気な旋律を「同時に」演奏させるのである。
こんなことは簡単にできるものではなく、天才でプロコフィエフの面目躍如の1曲であろう。
ソ連との関係を十分に親密にしたプロコフィエフは、満を持して帰国するが、その後の彼の人生は、キージェ中尉のように順風満帆、とはいかなかった。
スターリンは、音楽も社会主義的でなければならぬ、と、しており、彼に自由な創造を許さなかった。
実際、プロコフィエフの代表的な作品は、ソ連帰国前に集中しており、帰国後には目立った作品を書けずに終わっている。
1953年3月5日、失意のうちに「赤の広場」近くの自宅でプロコフィエフは、世を去った。
奇しくも、まったく同じ日に、彼の後半生を暗黒に塗りつぶしたスターリンもこの世を去っていた。
スターリンの葬儀が優先されたため、プロコフィエフの棺桶はしばらくの間、自宅から出ることも出来なかったのである。
ソ連帰国後のプロコフィエフの人生は、キージェ中尉ではなく、生きながら死んでいたシュニバーエフ中尉に似ていたのかもしれない。
プロコフィエフのきらきらとした、天真爛漫な才能が自由に躍動した最後の輝き、それが、交響組曲『キージェ中尉』なのだ、と、私は、思うのである。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
しばらく、日傘も雨傘も必要な天気になるのかなあ、と考えてしまいます^_^;
暑いので、体調管理に気をつけたいですね( ^_^)
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。