アルバート・アインシュタインは、ナチスの時代を経験したあと、
「ナショナリズムは子どもの病気である......それは人類のはしかである」
と言った。
強い国家主義思想を持つことは、今の時代、ますます望まない結果を生むことが多くなったようだ。
自国を愛することが、他国への憎しみや怖れに繋がる場合は、特にそうである。
歴史を俯瞰すると、世界の大部分において、国民国家は比較的新しく、今でも極めて脆い統治状態にある。
例えば、忠誠の対象は、かつては今よりずっと範囲が限られていた。
狩猟採集民ならば、自分が所属する小さな放浪集団に忠誠心を感じていた。
規模の大きい政治機構が出来るようになったのは、
富の蓄えによって、土地と権力の蓄えも可能になった農業革命後のことである。
ほとんどの時代にほとんどの場所では、個人の忠誠心の対象は、近親者、村、部族、宗教団体であった。つまり、国家ではなかったのである。
現在の国民国家の歴史はさまざまだが、
最も新しい部類でいうと、わずか35年ほど前(なんだか私には親近感を感じる年齢だ)に、ソ連とユーゴスラビア崩壊後の混乱が収まったのちに生まれた国々があり、アフリカ大陸の大部分の国家が生まれたのが50~70年前、「インド」とパキスタンは75年ほど前で、「アイルランド」の歴史も100年ほどとなる。
「ドイツ」と「イタリア」建国から150年ほどで、イギリス、フランス、スペインは、かろうじて500年の歴史がある。
古い国家が在った中国大陸でもその歴史の中ではたびたび分断と敵対を繰り返していた。
新たな「国家」の多くは、植民地独立後に植民地の行政官が自分の都合で人工的な国境線を引き、作られたが、その妥当性は曖昧で、国家の安定性は未知数であることも多い。
「国家」の境界では日常的に、
多くの異なる部族や宗教団体がひとまとめにされる一方、
まとまるべき人々が人工的な境界で分断されていた。
そのようにして
「イラク」「シリア」「ソマリア」「アフガニスタン」「スリランカ」という概念は、
その土地に暮らす人々ではなく、実情に疎い政治家たちにとって大きな意味を持っているのである。
私たちは、国を愛することを、多く人類が持つ、自然かつ高尚な感情だと、なぜか捉えがちである。しかも、当然のように。
しかし、実際、こうした感情は人類の歴史の中では比較的最近発達したもので、それは特に自然でもないし、哀しいことに多くの場合特に高尚でもない。
愛国心ということばが生まれたのは、ほんの3世紀前で、宗教的制度を世俗化する啓蒙運動の一環として取り入れられた。
愛国心は宗教と同様に、よりよい未来のためのツールや価値の在る活用法があるものであるだけではなく、浅い歴史ゆえに、危険な形で誤用されることがある。
そして、それは、その浅い歴史がまた証明していることでもある。皮肉なことに。
ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
分断の時代に考える⑧にさせていただきました。
さて、まだ、日本とアメリカの名前が出てきていませんね。なぜでしょう?と考えていただいたところで、今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。