流行は、もっともらしい概念と私たちの群居本能が組み合わさったときに生まれるものかもしれない。
それは、不安定、不確実、変化の時期に付き物なのであろう。
流行は、原因が根深く、人間の在り方そのものに関わっている場合もあれば、かなり特殊で、歴史の流れ、ヒットした本や映画、新しい治療法に関わっている場合もある。
最初のメディアに煽られた流行に、吸血鬼に対する不安の流行(1720年ごろ~1770年ごろ)というものがあった。
吸血鬼に対する恐怖は、遙か昔に遡り、人間の心に深く刻み込まれている。
いつの時代も私たちは、
「死者をどう扱えばよく、死者に起こったことをどう理解すればよいのか」
という根源的な問いを突きつけられてきた。
どの文化も、このきわめて実存的な問いに、独自の答えを見出している。
手の込んだ埋葬様式と民間伝承は、生と死のもしかすると隙間だらけの境界線を管理するために編み出されているのであろう。
「死者をどう扱えばよく、死者に起こったことをどう理解すればよいのか」という問題は、狩猟採集生活をしていた遊牧民族が農耕を行うために定住し、文字通り死者の上で暮らしはじめたときに、人々をひどく悩ませるようになった。
かつてなら、死体は、部族が移住するときに置き去りにすればいいので都合がよかったのだが、死んだ祖先のそばで暮らすことを余儀なくされると畏敬の念が生じた。
誰かが病気になったり、何か悪いことが起こると、死者が(足の下で生きており、嫉妬や復讐心や不満に駆られて)よみがえり、理不尽な要求をしているのかもしれないと心配することは理に適ったことであった。
吸血鬼信仰では、これがそのまま信じられたのである。
この死者の理不尽な要求という考えを基にした流行は、18世紀の中央ヨーロッパで50年にわたり続いた。
啓蒙時代の見せかけの知的平穏は、動乱が続き、封建制度からほとんど抜け出せていないヨーロッパがうわべを覆い隠しているに過ぎなかったのである。
吸血鬼信仰は「アンデッド(生ける亡者)」についてのスラブ民話が、拡大するオーストリア帝国の新しい隣人たちに口づてで広められたときに現れた。
それに対して、ハプスブルク帝国の役人たちは、あまりに官僚的に対応するという誤りを犯した。
役人たちは、念入りな調査を行い、土地に伝わる吸血鬼の最適な退治法を詳しく述べた詳細な報告書を広く流布したのである。
こうして、正式に認められた結果、「アンデッド」に対する恐怖が瞬く間に村から村へと広まった。
やがて、物書きたちも輪に加わり、扇情的な吸血鬼文学を作り出して火に油を注ぎ、目撃者を大量発生させたのだった。
「襲撃」とされるものが、1722年にプロイセンで報告され、1720年代~30年代までにオーストリア帝国の全域で報告された。
vampireという語が英語にはじめて現れたのは1743年で、中央ヨーロッパの旅行記に登場した。
これは歴史で最初のメディアに煽られた流行だったが、最後にはならなかった。
吸血鬼に対する不安の流行は、かなり最近まで、医療技術が未発達であったため、生者と死者の明確な境界線を引けないためなど起こったといえる。
やはり、流行は、不安定、不確実、変化の時代に付き物だと言えるのかもしれない。
さて、前編で、「神経衰弱」「ヒステリー」「多重人格障害」が19世紀末には見られた3つの流行で在り、その当時の状況が現在の状況とにているところがあることについて描いた。
今回は、20世紀への変わり目のころに、ヨーロッパで、よく知られるようになった「多重人格障害(MPD)」から、過去の流行から最近の流行までをみることによって今に繋がる教訓を探そうと思う。
「神経衰弱」や特に「ヒステリー」に続き、「多重人格障害」においても、ハーメルンの笛吹きになったのは、やはりカリスマ性に富んだ神経科医であるジャン=マルタン・シャルコーであった。
シャルコーは、催眠術を一般的な治療法にすることに尽力した。
催眠状態は、それまで自意識の外に置かれていた受け入れがたい感情や空想や記憶や衝動を明るみに出した。
暗示にかかりやすい患者と暗示にかかりやすい医師が協力した結果、個人には隠されたパーソナリティーがあるという概念が作り出された。
「解離」いう現象を通じて、この隠されたパーソナリティーは独立した存在となり、主人格はその行動をコントロール出来なくなる。
しかし、多重人格障害は催眠術師が精神分析医にとって変わったときに消え去ったのである。
精神分析医は隠された(抑圧された)パーソナリティーの統合よりも、抑圧されて断片化した記憶に患者の注意を向けさせたのである。
1950年代半ば、クレックレーとセグペンが著した『私という他人』が出版されて人気を博し、『イブの3つの顔』として映画化されたことがきっかけとなり、多重人格障害は、束の間復活した。
しかし、長続きしなかった理由は、大部分のセラピストが精神分析の訓練を受け、多重人格障害に興味を持たなかったからである。
1970年代にシュライバーが著した『失われた私』が出版されたときは、流行はもっと長く続いた。
多重人格障害の症例数は急増し、流行が流行を呼んで1990年代はじめにピークに達したが、発生したときと同じくらい唐突に終息した。
多重人格障害の復活を後押ししたのは、催眠術などの逆行的、暗示的治療に、セラピストが改めて興味を持ったことだった。
多重人格障害は、いってみれば、メタファーがひとり歩きしたすぎない。
何が起こっているかをわかっていないのは、患者もセラピストも同じであった。
暗示にかかりやすいセラピストが暗示にかかりやすい患者を治療すれば、ありふれた精神科の問題をおしなべて多重人格障害にしてしまうのは難しいことではなくなってしまうのである。
自己認知に反する、脈絡がなくて受け入れがたい衝動や行動に 一貫性を与えるために、 患者と医師が「交代人格」を呼び出して告発するのである。
それが独立した存在だと想定するのは、そからたいして飛躍しているわけではない。
また、情報と支援を即座に与えられるインターネットの力も、この流行を煽った。
そこでは、誰の「交代人格」が1番多いかを決める競争すら起こったのだが、保険会社が支払いを止め、疲れたセラピストが現実に目覚めると、多重人格障害の治療を求める声は激減したのである。
DSM-5の作成時、多重人格障害はマニュアルには載ったが、DSM-5の作成者も、セラピストと患者の暗示のかかりやすさにより一時的にも多重人格障害の流行を繰り返していることを憂慮している。
今、世界は足を止め、冷静に多重人格障害から遠ざかってはいるが、大ヒット映画やカリスマ性に富んだセラピストの登場次第で、いつでも新しい流行は起こり得る。
過去の流行を知っておくことは、現在、何が流行ろうとも、疑いの目で見ることに役立つはずである。
私たちが、現代や未来の愚かな流行に飲み込まれないようにする最善の方法は、かつての流行が及ぼした害を認識しておくことである。
後編でも、最後に繰り返すが、歴史がそっくりそのまま繰り返すことは決してない。
その複雑な相互作用には、無数の確率の組み合わせがあるからである。
しかし、歴史が韻を踏むことはたしかである。
たとえ、見た目は流転していても、歴史を形作る根本的な力はかなり安定しているからである。
私たちは、過去の韻をよく知るほどに、未来にそれを分別なく繰り返すことは少なくなる、と、私は、思うのである。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
精神科の診断における過去の「流行」が及ぼした害を知る意味の(前編)に続き、やっと(後編)-闘病生活を経て考えてみたこと④-を描かせていただきました( ^_^)
急激に暑くなり、体がついてゆかず、ゆっくりとしてからの更新となりました^_^;
皆さまも体調に気をつけて下さいね(*^^*)
今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。