夏目漱石は『草枕』のなかに
「住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界を目の当たりに写すのが詩である、画である、あるいは音楽と彫刻である」
と書いている。
漱石は、ロンドン留学後、胃炎とうつ病を患ったが、これは、日本人が西洋個人主義にはじめて直に触れた際の副反応だったのかもしれない。
帰国後は、日本における個人の問題を考えながら小説を書き始めた漱石であったが、漱石の小説の多くは、かなり「ありがたい世」からかけ離れた、愛憎渦巻く不倫劇であった。
......。
家制度から外れる現象を描くことにより、個人の問題をあからさまに表そうとしたのかは解らないが、個人の存在が切実に問題となるのは、愛と死においてである、と漱石は考えたのかもしれない。
さて、西洋個人主義とは言うが、西洋社会もはじめから個人主義であったわけでは、勿論、ない。
農耕牧畜社会は必然的に共同体的であって、産業構造の変化、近代的都市の誕生、旧来型秩序の崩壊、国民国家の形成を経て、 西洋社会なりに時間をかけて醸成されてきたのである。
当然ながら、その過渡期には、西洋社会も漱石と似たような苦しみを経験したのであろう。
ゲーテが著した『若きウェルテルの悩み』は、極端に言うならば、
近代社会が生み出す孤独と居場所の無さから、自らの存在を肯定してくれるシステムを恋愛に求めた青年の苦悩と絶望の物語、である。
ウェルテルに歌を歌わせたら、そのなかのひとつは、フランツ・シューベルトが26歳のときに作曲した歌曲集『美しき水車小屋の娘』になるのではないか、と、私は思う。
歌曲集『美しき水車小屋の娘』は、全20曲から成り、旅する快活な青年が、水車小屋の娘に出会い、恋をし、失恋し、失意のうちに自殺するまでが描かれる。
主人公の青年は水車職人で、修行の旅に出ているのであるが、それは
「住みにくき世から、住みにくい煩いを引き抜い」た、自分の足で自由に世界へと踏み出してゆく喜びに満ちている。
そして、小川に沿って旅を続けるうちに水車小屋に行き当たる。
青年はそこで働き始め、その小屋の娘に恋をするのである。
原詩ははミュラーという詩人によるもので、舞台も中世が想定されている。
中世ドイツでは、職人は比較的自由な存在であった。
特に、建築職人やここに出てくる水車職人は定住する必要もなく、己の技巧や才覚だけで、どこへでも渡り歩くことが出来たのである。
しかし、ミュラーとシューベルトが水車職人の青年に託しているのは、きわめて近代的な意識である。
何にも縛り付けられない自由の謳歌は、拠り所を持たない孤絶の不安と表裏一体である。
だからこそ、主人公はさすらいつつ、寄る辺を探し求めている。
そして、美しい娘がいる水車小屋に働き口を見つける。
このあたりまでのシューベルトのメロディーはみずみずしく、優美極まりない。
シューベルト自身がこの青年に十分に心を共鳴させていることをうかがわせるほどである。
しかし、シューベルトはそれにとどまることなく、芸術家特有の冷たさでもって、物語を暗転させてゆくのである。
恋の喜びの弾むような音楽も束の間、荒々しい音が現れる。
狩人が現れ、青年から娘を奪ってゆくのである。
「ああ、涙は5月の緑を育てはしない、死んでしまった愛を再び花咲かせはしない。
それでも春はやってきて、冬は去ってゆくだろう、そして花が草のなかに育つだろう。
僕の墓のなかに置かれている花々、その花々は、みんな、彼女が僕にくれた花だ。
そして彼女がこの丘に通りかかったとき、心のなかで思ってくれたなら......『あの人は誠実だった』と!
そのときには総ての花々よ、咲き出せ、咲き出せ!
5月が来たんだ、冬が去っんだ」
(第18曲 枯れた花)
こうして青年は死を選ぶのであるが、シューベルトは嘆きの淵にある青年の歌、そして、青年の霊を慰める最終曲「小川の子守歌」にもっとも繊細で優しく美しい音楽をつけるのである。
シューベルトの共感は、恋に弾む青年の心ではなく、死を見つめる青年の暗い心にこそ、向かっていたのであろう。
ロマン主義においては、死は
「住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて」、個人を解放してくれる最後のよすがだったのかもしれない。
31歳で夭折した天才シューベルトが、歌曲集『美しき水車小屋の娘』を作曲したとき、まだ26歳であったことを考えると、やはり私は哀しく思い出してしまうのである。
ここまで、読んで下さりありがとうございます。
今回は、どのシリーズということもなく、シューベルトの『美しき水車小屋の娘』を描いてみました( ^_^)
もう少しで、ゴールデンウィークですね(*^^*)
皆さまは予定を決められましたでしょうか??
今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。