プロパガンダでヒトラー政権を支えたヨーゼフ・ゲッベルスは
「四角いものが実は丸であると証明するのは、不可能なことではない。
関係する人々の心理を理解し、
そうであることを十分に繰り返し言い聞かせればよいのだ。
それは単なる言葉であり、言葉は偽りの概念をまとうように形作ることが出来る」
と言った。
悲惨なことが可能になってしまう世界のなかで、
大胆な嘘は、あらゆる政治的武器の中で最も強力なもののひとつとなった。
大胆(かつあからさま)な嘘を操ることに長けている人たちは、
自暴自棄になり、不安を抱え、怒りを感じているが、なすすべもない人々は、
理性的な議論に耳を傾ける気になれないことを、しっているし、わかっている。
だから、ゲッベルスのように彼ら/彼女らが、人々の恐怖を煽るときの決まり文句に
「私たちは、今、最悪の時代、最悪の世の中に生きている」
「この先にもっとひどい危険が待っている」
「どこにもかしこにも敵がいる」
「自分(たち)こそ、皆の安全を守ることが出来る信頼できる人物である」
といったものが在る。
そのような決まり文句の言葉たちから、恐れを抱いた人々が、
大胆(かつあからさま)な嘘を受け容れ易い状態であることを利用し、ねじ曲げられた情報は流布され、真っ先に真実が犠牲になる。
否、なってきた。
本来ならば、そのような嘘と闘うのは、
「真実と中立性」を保つことの出来るメディアであるはずだが、果たして、現実はどうであろうか。
せっかちに大声で真偽も調べずにがなりたてるもののほうが、慎重に事実に練られた論説での言葉より大きな影響力を持ってはいないか?
大胆(かつあからさま)な嘘は、適用範囲が広く、広範囲かつ多分野で用いられる。
いつも、私たちの生きているこのごく身近な世界に在るといっても過言ではないであろう。
かつて、ローマには、無料の食糧と見世物で、民衆の歓心を買う権力者がいた。
現代の、世界(や日本)には、......。
アンディ・ウォーホルの作品を鑑賞しながら、マーシャル・マクルーハンのメディア論を読みながら、トーマス・ジェファーソンの政治哲学について考え直す時間を作らなければな、と、思う。
ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。
コメントありがとうございます。
私もいつも楽しみに拝読しております。
これからもよろしくお願いします。
マクルーハン・・・メディアはメッセージなり、ですね。懐かしい名前です。記事を楽しみにしています。tora