「さしあたって」と「とりあえず」ばかりで人生を送りたくないなあ、と、回復中の私は考えています。
とはいえ、機敏に手っ取り早く、という方がありがたいときもありますし、現実の生活のなかでは、むしろその方が喜ばれることが多いのかもしれません。
「ゆっくり」というのは、楽なようで、実はなかなか苦しくつらいものなのです。
「間に合わないやつだ」とののしられる、「まだその程度なのか」と蔑まされる、そんなことを繰り返しているうちに、出来の悪いやつだ、と自分で自分がイヤになる。
周りの人からのそうした軽蔑と自己嫌悪という暗いトンネルをくぐり続けて10年以上が過ぎました。
幸いにも仕事が増え、しかし、それにすぐ対応出来ておらず、まだまだ私は心と体の調子と相談しながら辛抱強く「ゆっくり」をまだまだ担っていかなければならない、と思います。
不器用な私の場合、心を込めて文を綴ろうとすれば、おのずからゆっくりということになってしまいます。
心のこもらないコメントを返すことがないように、しばらくは慣れるために、本当に言葉が届くように、しばらくはコメントを一時停止にさせていただいています。
ご不快に思われても仕方のないくらいの時間、はっきりと説明を描かずに申し訳ありませんでした。
私にとって、心を込めるとは、そうした「ゆっくり」を担うことに他なりませんでした。
私の場合、焦りは、このゆっくりと心を込める苦痛から逃れようとする姿勢をいうのだと、考えました。
身についてもいないものを、既に身についているかのように飾ることを、私は、「虚飾」だ、と、思います。
結局、「虚飾」は焦りの子どもに他ありません。
たどたどしい文で言い訳を連ねました。
コメントには感謝しているのに、コメントを一時的に止めている我が儘をお許しください。
図々しいですが、これからもよろしくお願い致します。