「三食のほか、ものを食うべからず」
あるお酒がほとんどいけなくて、甘いものを食べる習慣をやめられない28歳の男性が、書いた日記です。
そのひとは、32歳になっても、日記に、
「無益のもの、食ふべからず」
「心きたなくも、ものを食ひたり」
「パンを食ふ、一時の気の迷いなり」
と、日々、記していました。
なんだか可哀想になる心の葛藤ですが、彼は、30代半ばで、なんとか、おやつを食べたい衝動を克服したようです。
おやつを食べる習慣は、だらしなく、身体にも良くないなあ、とわかりつつも、その習慣をやめようと決意しても、なかなかに実行出来ない己の不甲斐なさを嘆き、それでも、なお、努力を重ね、やっとの思いで乗り越えたようなのです。
そのとき、はじめて、
おやつは身体に悪い
という知識と、
おやつをやめよう
という意思と、
そして、
実際におやつをやめる
という実行が、一致したのでしょうね。
これが、日記ではなく、
『善の研究』
という哲学書になると、
「純粋経験の事実としては、意志と知識の区別はない。......真に知足行である」
などと、難しく書かれてしまうのでしょうか。
「明治以降、日本人がものした最初のまた唯一の哲学書である」とまで評価された、しかし、大変に難しい内容の哲学書である『善の研究』を発表した方と、おやつ日記の書き手が、同一人物なのは、本当に素敵だなあ、と思ってしまいます。
どんなに立派だと言われるひとにも、隠された弱点、秘められた傷、人知れず悩んでいることが在るのでしょうね。
しかしながら、人間の素晴らしさは、まさにそのような弱点や、傷や、悩み、のただなかからこそ、生まれてくるのかもしれませんね。
日本が、世界に誇る西田幾多郎先生も、また、同じ人間なのだと、ほっ、といたします。
難しい哲学的な文章をお書きになる西田先生であっても、日記の文章は、とても、わかりやすいのですから。
ただ、西田先生は、日記が、公表されて、人目に晒されることになろうとは、思わなかったのではないでしょうか。
死後に、手紙や日記を含めて、全集を出版されるほどの有名人は、大変ですね。
西田幾多郎先生に想いを馳せてみました。
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。
【追記】
代官山の書店のトークショーで、尊敬する先輩にサインを貰ってから、頑張れる気がしています( ^_^)