「京都ではずいぶん孤独な生活を送っている。
この頃は毎日銀閣寺のあたりを散歩する。
このあたりの景色は実によい」
(by 西田幾多郎の手紙 「銀閣寺のあたり」)
西田幾多郎先生は、40歳のときに京都大学に倫理学担当教員として招かれ、
その翌年に満を持して『善の研究』を発表した。
『善の研究』は
「明治以降、日本人がものした最初または唯一の哲学書である」
とまで評価された素晴らしいものだが、あまりに難解である。
「純粋経験の事実としては意志と知識の区別はない。
共に一般的或者が体系的に自己を実現する過程であって、
その統一の極地が真理であり兼ねてまた実行であるのである。知覚の連続のような場合では、未だ知と意と分かれておらぬ、真に知即行である」
えっ!?
......実に難解な文章である。
しかし、難解な哲学的文章を描く西田先生も、日記の文章はわかりやすい。
冒頭に描いたように、本当に日記である。
しかし、西田先生も、死後公表されるとは思わなかったので、人には言えない思いを日記にぶつけている。
「三食のほかものを食うべからず」
これは西田先生、28歳のときのダイエット日記からの抜粋だが、哀しいことに、32歳のときの日記にも
「無益のもの食うべからず」
「心きたなくも、ものを食ひたり」
「パンを食ふ、一時の気の迷ひなり」
とダイエットには、失敗していることを語っている。
お酒がのめない故の甘いもの好きの西田先生の苦悩に、人間らしさを感じるが、いわば
甘いものばかり食べることは身体に悪いそれは知っている
→だから止めると決意する
→無理だ不甲斐ない
→日記にぶつけながら努力する
→40代でほぼ克服
これこそ、
甘いものばかりは身体に悪いという知識
と
甘いものばかりはやめようという意志
と
そして実際に甘いものばかりをやめるという実行
が一致したのである。
この日記の内容を西田先生は、
『善の研究』で
「純粋経験の事実としては意志と知識の区別はない。
......真に知即行である」
となるのである。
いかに立派だ、と世間に評される人にも隠された弱点、秘められた傷、そして人知れず悩んでいることはあるのだろう。
病を経たから、私が言えるのは、人間の尊厳や素晴らしさは、まさにそうした弱点や傷、そして悩みの只中からこそ生まれてくるのだと思う。
弱点が多ければ多いだけ、
傷が深ければ深いほど、
ひとを思いやれる人間になれると、
日本が世界に誇る哲学者である西田幾多郎先生の日記が語りかけてくれるようで、少しばかり温かな気持になる。
ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
洗顔の水の冷たさに驚くとき、急に季節が動き出したなあ、と実感します。
体調管理が大変ですね。
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。
学士時代の笑顔にまた、戻りたい。学士時代→→多分本気で笑ったのはこのあと、あまりない。