(→②の続きから→)
檸檬を手に入れた彼は、既存の美しさ(ここでは舶来品)に美を感じなくなり、遂に、
「既存の美しさに不満があるなら、自分で創ればいい」
というコペルニクス的発想の転換を遂げる。
この転換は、受動的な芸術鑑賞ではなく、
自分が必要とする美しさは、「いま・ここ」で自分の手で創り出してやればいい、という能動的な創作活動へと彼を導く。
自らが満足出来る美が外的(社会概念的)に相対化し、同様に絶対的な価値を知らしめる。
この行為は、肯定出来ない・肯定されない生を「生きるに値するもの」にする方法なのであろう。
主人公は、自分が没入出来ない画集なら、どんな巨匠の名画であろうと「自分にとっての価値」はないと考え、
画集の外観、表紙や裏表紙の色を「ただの着色された物質」として、
「自身が考える美しいもの」である「創作物」の「素材」に利用する。
輸入画集の売り場で、彼は、突如、オブジェ制作を始める。
画集を重ね、山を作っては崩し、順番や組み合わせを変えて、また、重ねる。
そのたびに山の色が変わる、形が変わる、ボリュームが変わる。
やがて出来上がった色彩の山の上に、彼は
「レモンイエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたような」檸檬をひとつ置く。
このとき彼は、「自分自身」が作り出した「檸檬と画集によるオブジェ」によって「不吉なかたまり」を心のなかから消し去って、美を感じることが出来た。
1924年、つまり『檸檬』が発表された年は、アンドレ・ブルトンが「シュルレアリズム宣言」を発表した年でもある。
レディメイド(既成の物品をそのまま使って作品化する)やアッサンブラージュ(既成の物品の集積で作品を作る)は、シュルレアリストやその先駆者であるダダイストが好んで用いた技法だ。
インスタレーション(特定の場所に一定期間仮設され、設置空間込みで鑑賞される作品)は、1960年代あるいは1970年代以降に一般化する制作・展示方法だが、源流を求めれば、やはりタダに辿り着く。
しかし、私は、梶井基次郎が流行を意識してこの小説を描いたのではなく、梶井自身が
「いかにして外的に否定された生を肯定するか」
という問いに対してひとつの答えを示したように私は、思う。
主人公の芸術行為は
「自分が満足する美」としてのオブジェを
「そのままの形でその場に放置する」ことに決めた。
このオブジェに気づく人の心の裡で、いったい何が起こるのだろうか。
主人公自身が感じている、この美しさ、この絶対的な価値を、その人も感じてくれるであろうか。
自分がつくったものが、自分の知らないところで、不特定多数の人々に関わりを持つ。
そして関わりは、他の「生を肯定する」重大な関わりになるのかもしれないのである。