おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

カーター氏の「A Crisis of Confidence」」(1979)の演説に学ぶこと-私たちが直面していることについて考えるⅢ⑧-

2024-04-11 07:15:00 | 日記
日本の総理は、アメリカ議会で何を話すのだろうか、と考えていたとき、
ふと、『大逆転(Trading Places)』(1983年)という素敵な映画を思い出した。

裕福な男と、貧しい男の立場が、ある日突然入れ替わるのであるが、
貧しい男はすぐに裕福な男を装って振る舞い始め、裕福な男は、貧しい男の怒りに満ちた、生き残りをかける生活を否応なしに始めるのである。

『大逆転』は、
「確りと相手の立場に立って考えなければ、その人の考えていることや、感じていることを理解できない」
ということを教えてくれる。

特に、協力関係を築くためには、その人(とその背後にある国)の苦しい状態を理解し、まず、ひとりの人間として、それに反応するほど、理解しようとすることが出来るし、また、相手のことを知るほど、自身の偏見に気づき、偏見を抱くこと自体を上手に素早く抑えられるのである。

ところで、精神療法家と治家には多くの共通点が在り、影響を及ぼす範囲は大きく違っていても、目標や手法は極めてよく似ている。

両者とも、ときには明言され、ときには隠されることもある動機を理解し、それらに訴えかけることによって、相手の態度や行動を変えようとする。

また、精神療法家が基本的に1度に1人の患者に働きかけるのに対して、政治家は何百万という人々に影響を与えるが、両者が持つスキルはよく似ている。

精神療法家が、患者の信じているものが間違いで自滅的であったとしても、いきなり間違いを証明しようとして事実に基づいた議論を行うことは、まず、ない。

先走って患者に現実を押しつけようとすると、患者は、怒りや不安、困惑を感じ、頑なになり、精神療法家と共に治療に取り組む意欲をなくしてしまう可能性がある。

真実は、人を自由にすることもあるが、患者の側にそれを聞きいれる準備が出来ていなくてはならないのである。

優れた精神療法家は、患者の隠れた苦悩をくみ取ると同時に、その苦悩を和らげる現実的な方法を見つける取り組みを、患者と共に少しずつ行ってゆくのである。

政治家にも精神療法家と同様の戦略が必要であるように、私は、思う。

患者が間違っているからといってすぐに、信じていることを捨てられないように、世界にとって誤った危険なものであるからという事実に基づいた議論だけで、世界はいきなり、これまで信じてきたものを捨て去ることなどは出来ないのである。

この点を、よく著しているのが、1979年7月1日にジミー・カーター大統領が、行った「A Crisis of Confidence(信頼の危機)」いわゆる「社会の沈滞(malaise)」と呼ばれたテレビ演説である。

カーターは、エネルギー危機のなかで、アメリカ国民は自信を失い、共通の目的を失っていると指摘し、エネルギー問題の解決策を提示した。
また、同時に、この解決策がアメリカの結束と、将来に対する信頼をよみがえらせ、国と国民全員に新たな目的意識を与えると説いたのだ。

しかし、このカーターの演説は、アメリカにもアメリカ国民にも現在の状況は間違いであることを説明し、事実にもとづいた論を展開し、先走って現実や問題解決策を押しつけようとした結果、国民に怒りや不安困惑を感じさせ、カーターと共に歩む意欲をなくさせてしまったのである。

カーターは、勇気を持って事実に向き合うように有権者に素直に呼びかけたつもりかもしれないが、「確りと相手の立場に立って考え」なかったために、「相手の考えていることや感じていることを理解」できず、レーガンにある意味「大逆転」されて、1期4年で政権の座を去ることになったのである。

精神療法家であれ、政治家であれ、最初に行うべき最も重要なことは、相手の立場に身を置いて考えることである。

「自分が(自国が)この人(国)の状況にあったら、私自身もこの人(国)のように行動し、考え、感じるかもしれない」という前提に立つことから始めるのである。

細かい差異は在るとはいえ、大まかなところでは皆同じなのであるから、似たようなニーズや不安、欲求不満を抱え、似たような形で人生の危機に対処していることに加え、認知と神経科学の研究から、政治的保守派の人々は、精神的にも生物学的にも、恐怖を感じる状況に対してより強い反応を示す傾向があることが解っている。

国外だけに対してだけではなく、国内に対しても、
精神療法において精神療法家と患者の協調に必要なことは、政治家と私たちとの効果的な協調に必要なことであるように、私には、思えるのである。
以下は、精神療法で基本的ルールとされるものである。
ルールのなかの「精神療法家」を「政治家」に、「患者」を「国民」(または有権者)に置きかえてみてほしい。

・精神療法家は誠実であること、また、患者にも誠実であるように促すこと。
・患者との強い絆を築かなければ患者を助けることはできない。
・患者の言葉遣い(感覚)で話をする。
・患者の話をよく聞き、患者が精神療法家から学ぶのと同じくらい多くのことを患者から学ぶようにする。
・共感と信頼が治療(言い換えるならば政治)に最も必要な要素である。
・痛みや恐怖、怒り、落胆を自由に表現するように患者を励ます。
・患者のニーズと、患者がそれをどのように満たしてほしいと感じているかを確認する。
・現実的な目標と期待について話し合う。
・性急な判断をしない。
・(過大な期待をさせるのではなく、)徐々に希望をもてるようにする
・精神療法家が自分の感情を意識し、それを効果的に活用する。
・治療のなかの何もかもが同じ重みを持つわけではない(ことを理解する)。
・患者が潜在的に持つ変化への転換点に常に注意し、変化を起こすために出来ることはなんでもする

ルールの一部に(丸カッコ内)で私なりの付け足しをしているところがあるが、政治家が精神療法家のルールを少しでも国民との日々の取り組みに生かせば、さらによい政治家になることが出来ると、私は、思うのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

前回から、数回、総理のアメリカ訪問に合わせた話にしています。相変わらずミーハーですみません^_^;

今日も、気分の良い晴れですね(*^^*)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

日本は「アメリカ例外主義」とどう付き合ってゆくのか-私たちが直面していることについて考えるⅢ⑦-

2024-04-10 06:47:17 | 日記
アメリカ例外主義は、アメリカ特有の現象である。

それは、
「三塁ベースで生まれた国であるが、三塁打を打ったかのように振る舞うことがよくある」
と表現されたこともあった。

アメリカ合衆国の種は、類をみないほど豊かな天然資源に恵まれた広大な土地に蒔かれた。

そこは、疫病により先住民が衰退し、「空地」になってしまったかのような場所であった。

アメリカは、ヨーロッパ勢力による侵攻の脅威に直面することがほとんどなく、その一方で、西欧のテクノロジー、思想、資本の恩恵を十分に受けていた。

世界の多くの国々は、何百年、あるいはもっと長い間、成功と失敗を繰り返し体験してきたため、権力の行使に慎重であり、自国の限度をある程度は知ってはいるが、同時に、懐疑的で悲劇的な世界観を持ちがちな面がある。

一方で、アメリカは比較的若い国であり、さまざまな点で偉大ではあるが、同時に、未熟で衝動的な面があり、結果を顧みることなくリスクを冒しがちな面がある。

「例外」ということばを、アメリ化に対して初めて使ったのは、1830年代にアメリカを訪れていたアレクシ・ド・トクヴィルであった。

彼は著書『アメリカのデモクラシー』で、アメリカ人が異常なまでに利益の追求に熱を上げ、文化的なものにはあまり興味がないことを、皮肉を込めて、

「アメリカ人の状況は、だからまったく例外的であり、彼ら/彼女らの起源はまったく清教徒的であり、習慣は商売一辺倒、ヨーロッパと隣り合っていることが、学問、文学、芸術研究から、彼ら/彼女らの知的関心をそらせている。......数多くの要因があって、アメリカ人の精神を純粋に物質的な事柄を考えるように異様なまでに集中させた」
と述べている。

もちろん、トクヴィルは、アメリカのよい部分にも目を向けている。

トクヴィルが見た当時のアメリカ人は、他者を押しのけながら、あくせくと働き、貪欲に資金を貯めていたが、その一方では、アメリカは世界の希望でもあったのである。

なぜなら、その独特の歴史、国土の広さ、国民の多様性、豊富な天然資源、地理的な独立性、民主主義、自由な経済活動、個人の自由、個人主義、新たなアイデアや発明に対する寛容さ、少ない事業規制、豊富な商取引経験、機会均等という点で、例外的な存在だったのである。

さて、アメリカ例外主義は、確かにいつもある程度は正しく、アメリカ(や世界)によい結果をもたらすことも多かったことは、事実であろう。

アメリカは、国土の広さ、資源、富、営利企業、生産能力、押し寄せる移民たちを引きつけ、融合させる能力という点で、他に例を見ない。

そして、アメリカ例外主義は、アメリカを偉大にし、結束させる野心と楽観主義をもたらしたのである。
(→この中には2度の世界大戦から旧世界を救い、個人の自由と経済繁栄の手本を示した、という考え方も入っている)

しかし、アメリカ例外主義が、アメリカはもちろん、世界に重い荷物を背負わせており、世界におけるアメリカの立場をもはや正しく繁栄していないことを、アメリカも世界も、もちろん日本も、もっと早く認めるべきであった。

かつてアメリカの工業生産高は世界の半分を占めていたが、今や20%ほどにまで減少している。

まだまだ大きなシェアではあるが、もちろん、支配的というわけではなくなり、ヨーロッパ連合や中国より少なく、これから先を考えたとき、未来の現実的なリスクから目をそらして、これまでのような日米同盟で済むというような楽観的な予測をしている余裕は、私たち日本人にはないのかもしれない。

世界が、山積している難題に対処していくためには、今や「独りよがりの例外主義」は自滅的であるということ、また、「独りよがりの例外主義に追随すること」も自滅的であるということを認め、
さらに、「独りよがりの例外主義」が、アメリカにとって、また「独りよがりの例外主義にただ追随すること」日本にとっても、悪であり、世界にとっても悪であることを、アメリカも日本も意識しなければならない。

アメリカが合衆国になってから、95年後にイマヌエル・カントによって『永遠平和のために』が著された。

一見すると、前向きにみえるタイトルとは裏腹に、突き詰めればカントの人間に対する懐疑と風刺に満ちた内容想い出し、暗くなるが、
それからたいして変わってはいないのだが、今、やはり、世界各国が、本当の意味での「国際連合」とならなければ、世界は人類生存に関わる難題にまったく対応できないであろう。

また、アメリカがアメリカの、日本が日本の、それぞれの国がそれぞれの困難を解決しなければ、世界も世界が抱える困難を解決することは、到底出来ないのである。

アメリカは、世界の問題にきわめて大きく関わり、問題解決の担い手として、世界にとっても、日本にとっても非常に重要な存在であることには変わりない。

また、どの大統領になろうと、本当の愛国心は、決して「自国が正しいか、間違っているか」で語れるものではない。

日米首脳会談がはじまる。

さまざまな歴史をみているとき、いつであれ、どこであれ、ただ単なる卑屈な忠誠心は、現実に目を向けた建設的な批判よりも、自国を思う度合はずっと低い、と、私は思う。

もし、今、日米どちらの過ちをも、見抜いて正せなければ、その過ちはずっと続き、さらにそれを悪化させることになってしまうだろう。

実りの多い会談を期待したい。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

総理が訪米し、日米首脳会談が行われるので、シリーズをいったん元に戻しました^_^;

「闘病生活で考えたこと」シリーズは、また、数回後に復活させる予定です......相変わらずふらふらした日記で本当にすみません^_^;)

こんな日記ですが、良かったら、お時間のあるときにこれかも読んでやって下さいね( ^_^)

今日は、何だか綺麗に晴れた朝で嬉しいです(*^^*)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

「異常」も「正常」定義など出来ない世の中で-闘病生活を経て考えたこと①-

2024-04-09 06:53:59 | 日記
何が「正常」で、何が「正常」でないのか、を考えるにあたって、まず「正常」とは、どんなものであろうか、という問いに突き当たる。

「正常(normal)」ということばは、大工の矩尺を指すラテン語として生を受け、今も、幾何学で、直角や垂直を表すときに用いられている。

その成り行きとして、「normal」はいくつもの「正しい」という含みを持つようになったのである。

通常、標準、ふつう、日常、平均、典型、平凡、予想通り、習慣、普遍、共通、適合、慣例、妥当、通例などである。

そこからさらに、normalは、
「生物学的にも、心理学的にも良好に機能している状態」を、

つまり「心身の病気にかかっていない状態」を表すようになったのである。

しかし、「normal(正常)」が何かを知るためには、何が「異常」かを知らなければならないのだが、辞書によると「異常」は、正常でないもの、自然でないもの、典型でないもの、ふつうでないもの、や、基準に適合しないもの、となる。

まさに、堂々巡りである。

辞書は、一方のことばを他方のことばの反対語として提起するだけであり、どちらについてもまともな定義はなく、両者の間に有意義な線引きはされていないのである。

私たちは「正常」と「異常」という相反するふたつのことばを、よく知っているようで、知らないのである。

確かに、私たちは、両者の大体の意味は、直感的にはわかっているが、具体的にどのようなものか断定することは困難であるようである。

なぜなら、私たちが、現実世界で問題を整理するのに役立つような、普遍的で超越的な定義など存在しないからである。

では、哲学は「正常」についてどう語っているかを考えたとき、あまりに僅かしか語っていないことに、気が付く。

哲学は、私たちの認識の仕組み、人間の本質や、真実、道徳や正義、愛、美、善や悪、死と不死とか、自然法とか、といった仰々しい概念の意味を深く理解すべく、たゆまぬ努力を重ねてはきたが、「正常」はこの哲学の混沌の中に紛れて見落とされて「放置」されていたのである。

この「放置」が長くつづいたあと、日常のもっと身近な問題に哲学を用いようとする新たな動きが現れたのである。

先駆けとなった功利主義は、「正常」と「精神疾患」をどこでどう線引きするかについて、今も、現実的、哲学的な唯一の指針となっている。

基本前提は、「正常」に普遍的な意味などないということであり、必死になって演繹法を働かせても厳密に定義するのは不可能だということである。

つまり、美と同じく、まさにそれはみる人次第であり、時代や土地や文化によって変わってくるため、「正常」と「精神疾患」の境界線は空理空論に基づくべきではなく、異なる選択をしたときに、どのようなプラスとマイナスの影響があるかというバランスに基づくべきであり、「最大多数の最大幸福」常に追求せねばならず、何が最善の結果を出せそうかを考えて決断しなければならないのである。

しかし、現実的な功利主義を貫こうとしても、それがあてにならないどころか、価値観にまつわる危険な地雷が潜んですらいる。

「最大多数の最大幸福」は字面こそ立派であるが、大小をどのように測定し、幸福をどのように定めれば良いのかあまりに曖昧なのである。

功利主義が現代のドイツでひどく不人気であるのは、偶然などではなく、ヒトラーによる「最大多数の最大幸福」の乱用のせいで根深い悪評があるからである。

ドイツが第二次世界大戦中、戦前や戦後なら間違いなく異常と見なされたような蛮行を行ったのことは、支配人種の最大幸福のためには必要だ、と、功利主義の立場から、当時はことごとく正当化された。

統計的な(頻度に基づく)「正常」が、命令的な「正常」(あるべき世界や慣例に則った世界)を一時圧倒したのである。

邪悪な手に落ちてしまえば、功利主義は、善き価値観から目を背け、悪しき価値観によって歪められるのは、確かではある。

しかし、それでも、精神の「正常」と「異常」の間に私たちが、線を引くとき、功利主義が最善、もしくは唯一の哲学的な指針であることには、変わりはないのである。

現に、功利主義は、日々使われているDSM(-5)で用いられているアプローチであるのである。

「正常(normal)」を定義するのは難しいことである。

今回は、辞書は納得のいく定義など示せず、哲学者は長い時間をかけながら、いまだにその意味を巡って言い争っていることについて少し考えてみた。

次回は、統計学者や心理学者、社会学者たちについても、少し考えてみようと思う。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

私は、「ふつう」≒「正常」とは都合のよい言葉ですが、曖昧にすぎる言葉であると思っています。

また、「正常」についてよく考えず、アタリマエに使っている人ほど簡単に「おかしい」≒「異常」意味を振り回すのかもしれない、とも思います。

最近、ある知人から、

「それはおかしい、ふつうはそうしない、だからこうすべきだ」

という内容の話をされた際に、なんだかもやもやとしたのです^_^;

「おかしい」は、(正常を前提とした)「正常ではない」と言い換えられるし、「ふつう」も、「正常」と言い換えられる文脈だなあ、と感じたのです。
そんなきっかけもあって、これまでいろいろと考えてきたことを、長い話にはなりますが「闘病生活を経て考えたこと」、というシリーズの中で描いてみたいと思います( ^_^)

良かったら、お時間のあるときに読んでやって下さいね(*^^*)

何だか最近、急激に温かくなったように思います。

体調管理に気をつけたいですね。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

ダーウィンの肩に座るフロイト、フロイトの肩に座るカーネマン-私たちが直面していることについて考えるⅢ⑥-

2024-04-04 06:40:00 | 日記
チャールズ・ダーウインは、

「生き残るのは、最も強い種ではなく、最も知的な種でもない。
最も変化に適応した種である」

と述べ、また、

「人間も動物も、快楽や苦痛、幸福や不幸を感じる能力に、根本的な差異はない」

と述べた。

過ちは人間の常である。

その理由を突き止めることは、ときに不快なものである。

しかし、それが、人間が繰り返し同じ(ような)過ちを犯さないようにするための唯一の方法かもしれない。

賢明だと言われる人々でさえ、なぜ頻繁かつ愚かに間違うのか、という問いは、昔から哲学者を常に悩ませてきた。

最初に最も明確な喩えを用いて説明したのはプラトンであろう。

彼は、人間の魂を二頭の馬と、馬たちを制御するのに苦労する御者に見立てた。
二頭の馬は、気概と衝動を、御者は理性を表している。

以来、作家たちは、私たちが頻繁に過ちを犯す原因となる隠された動機を好んで作品に取り入れ、私たちの失敗を、喜劇にも悲劇にも仕立ててきたのである。

持って生まれた無意識の衝動が持つ力は、決して謎に包まれたものではなくなったが、そのような力の源泉が、チャールズ・ダーウィンやジークムントフロイトの著作で明確に説明されるまでには、2000年以上かかった。

そして、最近、人間が理性的な生き物でないという事実が、ノーベル賞を受賞した認知心理学者や3月27日に亡くなったカーネマンに代表されるような行動経済学者たちによって、さらにはっきりと説明されることとなった。

また、神経科学者たちは、どの神経回路がどのような衝動を司り、どのようにその衝動を制御しているのかを賢明に究明しているところである。

ところで、ダーウィンはそれまでいた心理学者から抜きん出た存在である。

プラトンにまで遡るすべての哲学者は心理学者でもあり、人間の本性に関する理論、つまり何が、人間の行動や考え方を引き起こしているのかを詳細に論じてきた。

主観的な自己観察や演繹的推論、イデオロギーを組み合わせて、それぞれの哲学者は、人間の心に関する独自のモデルを作り上げようとしたが、概してそれは、各自の心の輪郭や癖によって、形成されたものであったのである。

ダーウィンは、ビーグル号での航海からちょうど2年後の1838年に、彼の後にも先にも誰ひとり獲得できなかった、しかし、最も深い心理学上の洞察が含まれていることばを、ノートに走り書きをしている。

それは
「ヒヒを理解する者は、ロックよりも形而上学を極めるだろう」
というものである。

ここで、ダーウィンが言う形而上学とは心理学のことであり、彼が触れているのは、イギリスの偉大な哲学者ジョン・ロックのことである。

ロックの心理学では、人間は空白の石版のような心を持って生まれてくる。

その後、人間がどのように成長するかは、自身の感覚を通じて経験したことだけによって決まるというのである。

ダーウィンの洞察が、人間にとって衝撃的かつ屈辱的でもあったのは、人間が自由に生まれついていないという点にある。

つまり、私たち人間は、身体のみならず、心も、魂とされているものも含めて、動物だというのである。

そして、ダーウィンの洞察は、人間の身体の形態のみならず、人間の心理的形態も進化から生じたものであるとした。

人間は、経験の世界と作用し合う、一連の複雑なプログラムを持って生まれてくるのである。

つまり、ロックの心理学でいうところの石版は、真っ白ではなく、持って生まれた遺伝情報で埋め尽くされており、人間の動機付けや行動様式の多くは、自覚した意識や制御の外側にあり、感情、行動、思考の大部分を決定している、ということになる。

ダーウィンは、自分が唱える新たな進化心理学が、どれほど人間のプライドを傷つけるのか、十分に分かっていたようである。

だからこそ、彼は、自分が発見したことを、引き出しの中にしまい続けた。

気が進まないながらも、最終的に発表するに至るまでには、35年の月日がかかったのである。

その理由は、ダーウィンが理論を提示するまで事実の収集に細心の注意を払っており、人間に対するこの唯物論的な見方が世界ではまだ受け入れられないと認識し、さらに、彼の発見によって、人間の独自性を頑なに守ろうとする批判家たちとの対立が避けられなくなることを好まなかったからである。

心理学は、実験と観察という科学の標準的な手法を用いて研究することが可能であるし、私たち人間は、心理面と身体面両方の進化の段階を研究することによって、自分を最もよく理解することが出来るようになるのであろう。

ダーウィンは、心理学の新たな経験的手法の確立に着手した。

その後、それが心理学の分野における標準の手法となった。

例えば、子どもの観察、比較文化調査、(当時としては最新の発明である)写真を使った表情の研究などがある。

ダーウィンが亡くなったとき、フロイトは26歳で、2人は直接会ったことはなかった。

また、フロイトが亡くなったとき、カーネマンは5歳で、この2人も直接面識はなかった。

しかし、脳の層構造にみられる進化や心理学、それらに基づく意思決定の研究を通じて、彼らが、研究の遺伝子ともいうべきものを繋いでいくさまは、ニュートンの、先人である巨人の肩に座る人のたとえを借りるならば、
ダーウィンの肩に座っている人が、フロイトであり、フロイトの肩に座る人が、カーネマンである。

人間心理の理解における最も重要な前進は、人間の精神生活の大部分が、理性や意志でコントロールされず、自動的かつ無意識に営まれていると気づいたことである。

ダーウィンが登場する前後の時代に、多くの哲学者、科学者、そして作家が、無意識の領域の研究を行っている。

だが、やはりこの点でダーウィンは、最も重要な人物であり、すべての起点となる存在といっても過言ではないのではないだろう。

なぜなら、彼は、人間の心と霊長類の歴史を結びつけることによって、それまで説明されていなかった空白の部分の多くを埋めることができたからである。

現在の世界のなかで、私たちが、多くの誤った判断を下すのは、5000万年の哺乳類の進化の過程で、私たちの祖先が直面した状況に脳が適応するようになっているからである、と、ダーウィンとフロイトとカーネマンが、教えてくれているように私には、思えるのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

明日からまた数日間不定期更新になります( ^_^)
また、よろしくお願いいたします(*^^*)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。