おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

アメリカ合衆国について②-ゲティスバーグの演説から-

2024-07-18 06:49:12 | 日記
「例外」ということばを、アメリ化に対して使ったのは、1830年代にアメリカを訪れていたアレクシ・ド・トクヴィルであった。

トクヴィルは著書『アメリカのデモクラシー』で、アメリカ人が異常なまでに営利の追求に熱を上げ、文化的なものには興味がないことを、彼は皮肉を込めて
「アメリカ人の状況は、だからまったく例外的であり......彼らの起源はまったく清教徒的であり、習慣は商売一辺倒、住んでいる土地そのもヨーロッパと隣り合っているため、学問、文学、芸術研究から彼ら/彼女らの知的関心をそらせている
と述べている。

しかし、トクヴィルは、アメリカの悪い部分だけでなく、善い部分にも目を向けていた。

それはアメリカは世界の希望でもあったことである。

アメリカは、その独特の歴史、国土の広さ、国民の多様性、豊富な天然資源、地理的な独立性、民主主義、自由な経済活動、個人の自由、個人主義、新たなアイデアや発明に対しする寛容さ、少ない事業規制、豊富な商取引体験、機会均等という点で、例外的な存在であったのである。
......。

さて、リンカーンは、アメリカ国民がまだ成長の途上にあることを理解した上で、アメリカ例外主義のより高尚で向上心に溢れた側面を、最も、よく体現した人物のひとりであろう。

リンカーンは、
国民は自分の生活を模範的にするだけでは十分ではなく、自分たち政治家がよりよい世界への道標となる光を灯すことを、神は求めている
、と考えており、その決意を、ゲティスバーグの演説で、
「これらの戦死者の死を決して無駄にしないために、この国に神の下で自由の新しい誕生を迎えさせるために、そして、人民の人民による人民のための政治を地上から決して絶滅させないために、私たちが、ここで、固く決意することである
と表明しているのである。

歴史の皮肉が当てはまるという点では、リンカーンもまた、例外ではなかった。

1863年11月に行われたこの演説の場所は、アメリカがまったく不当な動機を以て、最も残酷な内戦を戦った、流血の戦場の、一角だったのである。

まさに、リンカーンにとって、この時のアメリカは、よりよい世界を目指すための最悪の手本であったのかもしれない。

しかし、リンカーンは、決して希望を捨てなかった。

ひとたび、各州が結束すれば、この国はやがて、戦争の傷を癒し、高い道徳基準を取り戻し、人々を救いに導く、と、考えていたのであろう。

リンカーンは、宗教にとらわれずに説教をし、人間とアメリカが抱える実に悲しい欠点を常に認識していた。

しかし、常に、アメリカ人の善き本性を探し求め、頻繁にそれを見出してもいた。

アメリカ人が選ばれた者であるならば、貪欲さではなく、善良さにおいて「例外的な」存在とならなければならないと、リンカーンは、考えたのであろう。

「過去は決して、死なない。過ぎ去ってもいないのだ。」

奴隷を許したレイシズムは、決して滅びることはなく、その様相が微妙に変わっただけであった。

歴史に、「もし」はないが、リンカーンが生きていて、アメリカの再建を指導していたならば、彼が思い描いていた公正なアメリカが実現したかもしれない。

しかし、今日もレイシズムは蔓延る。

約160年前、黒人は文書の上では自由にはなったが、まず、厳しい人種隔離政策であるジム・クロウ制度によって、暴力にさらされ、投獄され続けた。

現在も、まだ、人種的・経済的な不公平をもたらす屈辱的な仕組みは残っている。

アメリカで最も偉大な作家のひとりであるマーク・トウェインが書いた『ハックルベリー・フィンの冒険』は、
「Black lives matter」として、白人の偽善を打ち砕いた。

しかし、アメリカ初の映画大作のひとつである『國民の創生』は、KKKの価値を高めた。

「すべての人間は生まれながらにして平等」、ただし、奴隷を除く、という、独立宣言の偽善に取って代わったのは、黒人の生活に対する日常的な偽善であったのである。

黒人はたびたび隔離され、ほぼ何かしら不平等な扱いを受け続けていて、いまだに、十分に大切にされているとは言えないだろう。

南北戦争は、まだ終わってなどいなかったのかもしれない。

マーク・トウェインは、宗教に名を借りた「明白な運命」や「文明化の使命」という宗教的偽善に隠された、アメリカの帝国主義を嫌っていた。

それは、
すべての人間は生まれながらにして平等ではあるが、アメリカ人は他者を征服する特権を神から与えられている、または、そうした役目を、自ら任じている

、という考えである。

そして、その考えのもと、アメリカ人は、西部への移動を阻むとして、ネイティブ・アメリカンを殺害し、メキシコ人を倒して広大な土地を獲得し、アメリカが捻じ曲げた事実をもとなスペインと戦争をし、植民地を獲得したのである。

マーク・トウェインは、ルーズベルトのことを
「南北戦争以来、アメリカに降りかかった恐ろしい災難」と評し、
「神は、アメリカ人が地理を学べるように戦争を生み出した」
と痛烈に皮肉った。

トウェインは、アメリカでフィリピンで人々を殺している理由を理解出来ないものとして、嫌悪していた。

しかし、少なくはない一部のアメリカ人には、アメリカ例外主義は、アメリカが関わったあらゆる戦争を、まったく正しいものであるかのように思わせていたのである。
それらの戦争が侵略された国の人々にとって理不尽なものであった場合でも、である。

哀しいことに、アメリカ人のみならず、私たち人間は、あるがままに物事を見ないことが多い、その代わりに商業的無関心というレンズを通して物事を見ている。

それも、私たちの貪欲さを理想主義の薄い膜で覆い隠して、見ているのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

暑い日が続きますね^_^;

体調管理に気をつけたいですね( ^_^)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

アメリカ合衆国について①-アメリカ独立宣言から-

2024-07-17 06:35:26 | 日記
アメリカの建国の文章である「独立宣言」の冒頭の

「私たちは、以下の事実を自明のことと信じる。
すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および、幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ」
という言葉は、最もアメリカ人を鼓舞するもののひとつであるようである。

独立宣言の起草にあたって、トーマス・ジェファーソンは、トマス・モアの『ユートピア』から強い影響を受けおり、ライプニッツの理想主義にも精通していた。

しかし、ジェファーソン自身が奴隷所有者でもあったので、自分の現実が理想に適うまでには至らないとわかっていたであろう。

すべての人間が「生まれながらにして平等」であることは決して当たり前の話ではなかった。

また、彼の個人的体験からも、彼が独立を宣言した新しい国の経験からも、すべての人間が生まれながらにして「不可侵の利益」を与えられていることを示すものは、まったく存在していなかったのである。

アメリカは、確かに、高尚なユートピア的理想とともに生まれたが、その理想は常に日々の厳しい現実に裏切られていた。

また、「幸福の追求」という表現もいくらか誤って解釈されてきているようである。

独立宣言の100年近く前に、哲学者ジョン・ロックは著書『統治二論』のなかで、
「何人も他人の生命、健康、自由あるいは所有物を侵害すべきではない」
「幸福の追求の必然性は自由の基盤である」
と述べたが、ジェファーソンは「幸福の追求」という概念を借用したのである。

「幸福」ということばは、ロックやジェファーソンにとって特別な意味を持っており、現代において使われているような、快楽を暗示するような幸福とは、かなり異なるものである。

彼らにとって、幸福の追求とは、
「より善い人間になることであり、もっと責任感のある市民になること」
を意味した。
個人の快楽や喜びではなく、勇気、節制、正義という市民の徳を指した古代ギリシア哲学における「幸福」ということばを彼らは使ったのである。

アリストテレスは著書『ニコマコス倫理学』で
「幸福な人間は善く生き、善きことをなす。なぜならば私たちは幸福を事実上ある種の善き人生とか善き行為と定義づけてきたからである」
と述べた。

ロックは著書『人間知性論』でさらに明確に
「私たちは、自分たちの最大善としての真の幸福を選択し追求する必然性によって、個々の場合の欲望の満足を停止しないわけにはいかないのである」
と述べた。

人を惑わす幸福感は、
「真の堅固な」幸福ではない、のである。

アメリカ独立宣言に盛り込まれた幸福の追求が「自由の基盤」であるのは、それが、まさに、個人の欲望の奴隷となることから解放されて、よりよい市民となることを狙いとしたものだからである。

ジェファーソンが述べたように、
「最大の幸福は、運命によって私たちが置かれる生活状態によって決まるのではなく、良心、健康、職業、自由を全力で追求した結果得られるもの」
である。

以来、アメリカ人は熱心に幸福を追求してきた。

しかし、多くのアメリカ人は、アリストテレスやロック、ジェファーソンが考えてきた市民の徳よりも、マスコミの宣伝する安易な幸福を追求することが多くなってしまったのかもしれない。

常に現実的だったベンジャミン・フランクリンは、こうなることを予測してていたのか、
「憲法は幸福追求の権利を与えているだけである。
幸福は自分で掴み取らなければならない」
と述べている。

アメリカの中でのみならず、世界の中で、人間が偽りの儚い消費の快楽にとらわれ続けるのではなく、持続可能な世界値にどうすれば「真の幸福」を最善の形で追求できるかについて、私たちは、考えなければならないときに来ているのだろう。

私たちが住む世界で、さまざまな面で中心にある国のひとつがアメリカであることは、確かである。

そのアメリカを建国したのは、疲弊した、人口過剰の争いが絶えない世界からやって来た移民たちであった。

そのような世界から出てきた彼ら/彼女らを迎えたアメリカという新たな国は、確かに
「勤勉によって、自由、平等な機会、成功がもたらされる」という理想を持っては、いた。

しかし、願望は、実現の同義語ではない。

「すべての人間は生まれながらにして平等」
と謳ったアメリカ独立宣言は、アメリカ国民にとって、大きな励みとなった。

しかしながら、もうすぐ250年が経とうとしているにも関わらず、その理想は、まだ実現してはいない。

「アメリカ」は現実というよりは、いまだに、ひとつの理想にとどまったままなのかも知れない。

いわば、「アメリカ」は進行中の高尚な一大事業であり、正当な誇りの源泉であると同時に、哀しいことに、大きな幻滅の源泉となり得るのかもしれない。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日から、普段の日記を再開いたします( ^_^)

またよろしくお願いいたします(*^^*)

トランプ氏の銃撃事件前後から、アメリカ大統領の流れが変わるかもしれないことが、立て続けに起きているように思います。

注視したいなあ、と思います。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

リムスキー=コルサコフ 歌劇『金鶏』から-芸術による政治風刺-

2024-07-12 07:08:08 | 日記
「これからおとぎ話が始まる。

これは、架空の話ではあるのだが、良い教訓が秘められている。」

リムスキー=コルサコフは、1905年に起きた「血の日曜日事件」に対する怒りを、歌劇『金鶏』で表した。

現代日本にも通ずるような辛辣な政治風刺を、コルサコフは、円熟の筆致で、まるで魔法のように、流麗緻密な音楽劇に仕立て上げてたのである。

かつては威風を誇ったドドン王も老年で孤独、さらには怠惰な日々を過ごすだけの王となっていた。

それを知る近隣諸国の侵攻に悩むも、東に守りを固めれば、西から攻められ、南を守れば、北から攻めてくる。

2人の無能な息子(グヴィドン王子とアフロン王子)とやたら反対ばかりする大臣(ポルカン大臣)とは意見が合わず、どうして良いかわからないドドン王は、逃げるように飽食と惰眠に耽る。

まさに、国家存亡の危機とは、このことである。

そんな時、星占い師が、ドドン王に金の鶏を献上する。

この鶏は、危機を察知すると、その方角に向かって
「キリキ、キリクク」(→日本語?では「コケコッコー」)
と鳴く。

金鶏さえ在れば、さあもう安全、ドドン王は、大喜びする。

ただし、喜びのあまり、星占い師に
「望みは何でも叶える」と約束してしまい、
その時、星占い師は、
「権力も富も地位も余計な敵を作るものなので辞退します。私の大切なものは愛です」
と答えるのである。

金鶏は、
「キリキ、キリクク!寝転んで治めよ!!」
と鳴き、満足したドドン王は、また昼寝に耽る。

すると、金鶏は歌い出すのだ「キリク、キリクク、寝転んで治めよ」と。
......。

ところが、ある時、金鶏が
「用心しろ!警戒しろ!!」
と、危機を知らせる。

ドドン王は、精鋭部隊をと2人の王子を差し向けるが、全滅してしまう。(グヴィドン、アフロン両王子は刺し違えて死んでしまっていた)

どうしたのだ、何が起こったのだ。

金鶏は、「用心しろ、警戒しろ!!」と甲高く鳴き続ける。

精鋭部隊が滅んでしまった、残っているのは老人部隊だけではないか......ポルカン大臣にせき立てられながらではあるが、老兵とともに老骨に鞭打って、ドドン王は、国家の危機に対処しようと、危機が起きている方向に出兵する。

そこで出会うのが、謎めいて妖艶なシェマハの女王である。

あろうことか、ドドン王は、シェマハの女王に一目惚れし、求婚し、自分の王国を明け渡すことを約束してしまう......。

コルサコフは、ロシア帝政末期の作曲家で、色彩豊かな管弦楽法を開発し、その美は、彼の最も有名な作品である交響詩「シェラザード」で多くの人に知られている。

また、コルサコフは
「ロシア人とは何か」
を突き詰めて考えた愛国者であり、ロマノフ王朝がおかしなことになってゆく中で、ロシア人の原点を示すように、歌劇『見えざる町キーテジの物語』を書いた。

キーテジの物語は、昔話で、ロシア人なら誰でも知っているような物語なのだが、そこには、ロシア人の誇りと、ロシア正教が教える、神の恩寵が下ったロシアという神話的情熱が切実に歌われているのである。

しかし、現実はそれほど美しくは進まなかった。

時はロシア革命前夜である。

「政府はおかしい、青年たちの社会主義運動にこそ正義があるのではないか」
という意見を公にしたために、コルサコフは王立音楽院を追放されたのである。

皮肉なことだが、表現の自由が制限された時、表現力は爆発的に拡大されることがあるのかもしれない。

比喩、暗喩、寓話という形で、コルサコフの批判精神は爆発し、人生最後にして最高の傑作オペラを書き上げる。

それが、『金鶏』である。

ドドン王は、シェマハの女王(と、シェマハ傘下の得体の知れないものたちを)伴って、凱旋帰国をするのだが、結婚式を挙げようとすると、あの星占い師が登場し、
「私が金鶏を王様に献上した際、私の望みは何でも叶えるとおっしゃいましたね。私は、シェマハの女王をお嫁に貰いたいと思います」
と横槍を入れる。

怒ったドドン王は、王杖で星占い師の頭を打ち、星占い師は死んでしまう。

すると、突然雷鳴がとどろき、ドドン王は祟りを恐れるが、シェマハの女王は笑い始める。

ドドン王に対して、シェマハ女王は
お前のような出来損ないは消えてしまえ」
と叫ぶ。

そして、金鶏が耳をつんざくような鳴き声で
「キリク、キリクク!愚かな爺さんの頭を突っつくぞ!!」
と叫び、ドドン王の頭を突っつき、ドドン王は死ぬ。

そう、「本当の危機」は、「侵略してくる近隣諸国」ではなく、「自国の愚かな爺さん」にあったのである。
......。

シェマハの女王は、高笑いをしながら金鶏とともに消え去る。

金鶏に殺されたドドン王の葬儀で、国民は、
「あの王様は、愚かだったのかもしれないが、王様がいなくなったら、私たちは、どうすればよいのだろう。
どんな愚かでもいいから、誰か私たちを導いてくれ」と盛大に嘆きの歌を歌う。
後には、
「ドドン王よりも、もっと愚かな国民」だけが取り残されたのかもしれない。

この現代日本にも通ずるような辛辣な政治風刺を含んだ音楽は、すぐに上演禁止になり、その心理的ショックがコルサコフの死期を早めたとも言われる。

帝政ロシア、ソ連時代にも長く『金鶏』の上演禁止は続き、再演が果たされたのは、1989年の事であった。

それほど、芸術による政治風刺は強力であり、恐れられていたのである。

金鶏』は、冒頭同様、星占い師が登場し、

「お話はおしまい。
悲惨な結末をおそれなくてもいい。
何故なら実在したのは私と女王だけ。
残りは幻さ」
と意味深長に告げ、観客に一礼して姿を消す。

しかし、観客の裡に芽生えた「おそれ」や「不安」は、消えずに残ることであろう。

それゆえ、芸術による政治風刺は、強力であり、恐れられていたのであろう。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

明日から、また、数日間、不定期更新となりますが、またよろしくお願いいたします( ^_^)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

プロコフィエフの交響組曲「キージェ中尉」に見る風刺から

2024-07-11 06:25:03 | 日記
「超官僚制国家においては、書類が全てであり、人間の生死も1枚の紙切れに過ぎない。」

このようなソビエト社会を風刺したトゥイニャーノフの小説『キージェ中尉』が映画化されたのは「皇帝」スターリン政権下の1934年である。

ある日、神経衰弱気味の皇帝陛下ニコライ1世がお昼寝をしていると、女官の「助けて!」という悲鳴が聞こえる。

お昼寝を邪魔された皇帝陛下は、癇癪を起こし、早速犯人を捜すべく、衛兵の名簿を提出させるが、皆パニック状態に陥っており、名簿上ではシュニバーエフ中尉を故人にしてしまい、
さらに、「ポルーチキ.....ジェ」(中尉)」と口ごもったのを、皇帝が、「ポルーチク・キージェ」と聞き違え、警備の不手際に怒り
「キージェ中尉か、職務怠慢でけしからん、逮捕しろ、そしてシベリア流刑だ!」
となった。

こうして、シニュバーエフ中尉は生きながら死んだものとされ、誰に話しかけても目の前に存在しないかのように扱われ、一方、架空の人物であるキージェ中尉はさも存在するかのように扱われていくのである。

さて、さらに神経衰弱がひどくなった皇帝は、
キージェ中尉は、自分を暗殺者から守ろうとして、女官に悲鳴をあげさせ起こしてくれたのだ、と考えるようになり、
「なんとあっぱれなヤツなのだ!
よし、キージェを呼び戻せ!シベリアに迎えに行け!!」
と周囲に命じる。

皇帝の気まぐれで、存在しないキージェ中尉はシベリアから呼び戻され、昇進し、不在を隠す周囲によって、皇帝から下賜された美しい女官と結婚式を挙げ、なぜか子宝にも恵まれ、充実した人生を送ってゆくのである。

官僚には付き物ともいえる汚職とも無縁なおかげで、キージェ中尉は、皇帝陛下の忠実無欲な部下として、ついには、将軍にまで出世する.....。

セルゲイ・プロコフィエフは、ロシア革命の混乱を避け日本を経由し、アメリカ、後にパリに亡命していたが、40代に差しかかると、望郷の念やみがたく、積極的に祖国の音楽産業に協力を始めた。

この頃に映画音楽として作曲され、後に組曲に改められたものが、交響組曲『キージェ中尉』である。

「キージェの誕生」「キージェの結婚」「キージェの葬送」というようにストーリー展開に沿って音楽が配置されているので、あらすじさえつかんでおけば、音楽だけで楽しめるようになっている。

プロコフィエフは、劇音楽の天才であり、存在しないキージェ中尉を巡り繰り広げられるドタバタ劇が活き活きと描かれている。

圧巻なのは、「キージェの葬送」である。

皇帝の気まぐれに疲れていたとはいえ、キージェをさんざん都合よく使い回してきた官僚たちは、皇帝の
「我が最も忠実なる家臣、キージェ将軍に面会したい!」
と、気まぐれな望みを聞いて青ざめる。

キージェは実在しない......それどころか官僚たちはキージェの給料まで使い込んでいたため、急遽、キージェが亡くなったことにし、皇帝にそれらしい報告をする。

見たこともない将軍の死を惜しんだ皇帝は、なんと国葬を命じる。

こうして、空っぽの棺桶とともに、壮大な葬儀が執り行われる。

このなんとも滑稽な場面を描くにあたり、プロコフィエフは、悲しげな旋律と能天気で陽気な旋律を「同時に」演奏させるのである。

こんなことは簡単にできるものではなく、天才でプロコフィエフの面目躍如の1曲であろう。

ソ連との関係を十分に親密にしたプロコフィエフは、満を持して帰国するが、その後の彼の人生は、キージェ中尉のように順風満帆、とはいかなかった。

スターリンは、音楽も社会主義的でなければならぬ、と、しており、彼に自由な創造を許さなかった。

実際、プロコフィエフの代表的な作品は、ソ連帰国前に集中しており、帰国後には目立った作品を書けずに終わっている。

1953年3月5日、失意のうちに「赤の広場」近くの自宅でプロコフィエフは、世を去った。

奇しくも、まったく同じ日に、彼の後半生を暗黒に塗りつぶしたスターリンもこの世を去っていた。

スターリンの葬儀が優先されたため、プロコフィエフの棺桶はしばらくの間、自宅から出ることも出来なかったのである。

ソ連帰国後のプロコフィエフの人生は、キージェ中尉ではなく、生きながら死んでいたシュニバーエフ中尉に似ていたのかもしれない。

プロコフィエフのきらきらとした、天真爛漫な才能が自由に躍動した最後の輝き、それが、交響組曲『キージェ中尉』なのだ、と、私は、思うのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

しばらく、日傘も雨傘も必要な天気になるのかなあ、と考えてしまいます^_^;

暑いので、体調管理に気をつけたいですね( ^_^)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

認知バイアスについて①

2024-07-10 07:06:18 | 日記
「私たちは、なぜ、愚かな間違いを繰り返すのか」

という疑問に、最初に最も明確な喩えを用いて説明したのは、プラトンかもしれない。

彼は、人間の魂を、それぞれ違う方向に進もうとする翼が生えた力強い2頭の馬と、それらを操るのにひどく苦労している馭者に見立てた。

馭者は理性を、2頭の馬は強い気概と荒々しい衝動を表している。

それ以来、作家たちは、私たちが頻繁に過ちを犯す原因となる隠された動機を好んで作品に取り入れ、そのような私たちの失敗を愉快な喜劇や陰鬱な悲劇に仕立て上げてきたように思う。

持って生まれた無意識の衝動が持つ力は、決して謎に包まれたものではなくなったのである。

しかし、そうした力の源が、チャールズ・ダーウィンやジークムント・フロイトの著作で明確に説明されるまでには、2000年以上かかったのである。

そして、最近、人間がまったく理性的な生き物でないという事実が、ノーベル賞を受賞した認知心理学者や行動経済学者たちによって、さらに、はっきりと証されることとなった。

一方、神経科学者たちは、どの神経回路が、どのような衝動を司り、どのようにその衝動を制御しているのか、を懸命に究明しているところである。

さて、私たちの祖先は、自分が住む世界を実際にはほとんど支配出来ず、また機械論的に世界を理解することも出来なかったため、魔術的思考や儀式、神話を用いて、自分たちが世界を支配しているという幻想を作り上げて、精神的な安心感を得ていた。

現代でも、そのような姿勢は続いており、私たちは、願望に満ちた、都合のよい、しかし危険な幻想を作り上げているのである。

例えば、現代に生きる私たちは、人口過剰が戦争、飢饉、疫病などを引き起こし、化石燃料の燃焼が危険な地球温暖化を進行させる一方、集落を爆撃しても集落を救うことにはならないという事実を無視している。

願望的思考は、私たちの遺伝子の奥深くに入り込み、厳密な論理や科学的事実を頑として撥ね除けるのである。
......。

私たちは、実際に在る問題を解決する現実的なステップを踏むことができるように、成熟しなければならないだろう。

まず、危機がなんとか魔法のように消え去ることを思い描き、最後の最後に神の摂理やハイテクによって救いの手が差し伸べられるのを待っているような私たちの思考を強めるいくつかの認知バイアスについて(数回の日記に渡って)考えてゆきたいと思う。

それでは、まず楽観性のバイアスついて考えたい。

自然選択と性選択の両方で好まれたのは、陽気な楽観主義者の遺伝子であろう。

私たちの約80%が楽観性バイアスを持っているとされており、それによって願望が経験に勝るようになる。

私たちの祖先が過酷な進化の歴史の中で、困難に向き合ってこられたのは楽観主義のおかげである。

過酷な現在の向こうに明るい未来を見通せる者の方が、困難に耐え、他者に打ち勝つ可能性が高かった。

また、楽観主義者はそうでない者よりも楽しく自信に満ちているため、繁殖競争に勝つ可能性が高かったのである。

数学的モデルによれば、ポジティブバイアスは、たとえ長い目で見て深刻な問題が在るとしても、多くの場合、勝利を収める短期的戦略を生み出すことがわかっている。

脳の血流画像からも、楽観主義者は左脳が、悲観主義者は右脳の活動が活発であることがうかがえる。

ただ、楽観主義には、暗い一面もある。

楽観主義者は、利益を過大評価し、害やリスク、コストを過小評価するのである。

人類が生存の脅威に日々向き合い、小さな集団で苦労しながら生活していたとき、根拠のない楽観主義は、非常にうまく働いたのかもしれない。

しかし、人類が世界の大半を支配したものの、自らを制することにもこれほど苦労している今、そうした楽観主義は惨事を招いている。

突き詰めれば、戦争、金融バブル、人口過剰、建設過剰、資源不足は全て、
「将来なんとかなるさ」
というポジティブな願望や幻想のせいだとも言えるだろう。

ディケンズは著書『デイヴィッド・コパフィールド』で自身の父親がモデルのミコーバ氏を登場させている。

ミコーバ氏は、常に分不相応な暮らしを送り込り、いつも負債者監獄に収容される危機が迫っているのだが、当の本人は、心配などしていないのである。

「なんとかなるさ」
という、まったく見当違いの信念をずっと持ち続けているからである。

ちなみに「ミコーバ」は、英語辞書で「貧しいが、さらなる幸運を期待して楽天的に生きる人」と定義できる表現となった。

ミコーバは、妄想的な信念の象徴である。

今は、浪費してもかまわない、将来誰かが、何かが、私たちを救ってくれる、という信念である。

ミコーバは『デイヴィッド・コパフィールド』のなかで、
「さあ、貧乏だって大歓迎だ......さあ、苦難よ、来い。宿無しよ、来い。さあ、腹ペコでも、ボロ服でも、嵐でも、乞食でも、何でも来いだ。お互い信頼していれば、一生とことん支え合っていけるとも」
と言うのだが、どうにもならなくなると、ミコーバー自身と彼が愛する人たちが責任を負わされる羽目になるのである。

暢気な見当違いの楽観主義は、昔はよいことが多かったが、今では私たちから未来すら奪ってしまう可能性があるのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。