おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

層構造を持った人間の脳と意思決定

2024-07-09 08:26:20 | 日記
現在の世界のなかで、私たちが多くの誤った決断を下すのは、5000万年の哺乳類の進化の過程で私たちの祖先が直面した状況に、脳が、適応するようになっているからなのかもしれない。

進化はもっぱら、既存の組織の上に積み上げられ、古い組織に在った役に立つ機能は何であれ、新たに進化した組織の中に維持される。

爬虫類や哺乳類、霊長類の祖先の脳において、上手く機能した神経回路は、人間の脳に今も組み込まれており、人間性を生み出す重要な役割を果たし続けているようである。

爬虫類の脳から生じた基本的な身体制御の機能は、新皮質が司る意識の外側で自動的に発生し、新皮質の制御を必要としない。

哺乳類や霊長類の祖先に由来する情動反応や動機の多くは新皮質に伝わり、ある程度その支配は受けるものの、身体制御機能と同様に自動的に発生する。

一連の進化の過程で、情動は認知よりも速く発生し、言語や理性的思考を寄せつけない速さで他者や当人に情報を伝える。

物事に対する私たちの感じ方は、深く迅速で、たとえ詩人ががどれほど頑張っても言葉で言い表すことは難しいだろう。

人間が置かれる状況で起きる悲劇の多く(→ごくたまに栄光)は、もともと人間に備わっている理性よりも情動に基づいた意思決定から生じているようである。

いつも、理性を司る皮質はか弱く、情動を司る辺縁系の荒々しさや無頓着さに苦労しているのである。

理性的な皮質と情動的な辺縁系との間で繰り広げられる果てしない戦いの中心にあり、戦いの結果の鍵を握るのが、扁桃体である。

さまざまな機能を果たし、脳の奥深くで他の部位と密接に繋がっている扁桃体は、恐怖、快楽、怒りといったきわめて強い重要な情動のすべてが集まるところなのである。

理不尽な恐怖や、根拠のない怒り、中毒的な快楽といった感情の強さからもわかるように扁桃体は、反応が早いだけでなく反応を持続させ、支配的なものにしている。

皮質からある程度独立して機能しているために、扁桃体は、自動的で制御できないと思われる人間の行動を引き起こすのである。

扁桃体が生み出す理不尽で、自動的な恐怖、怒り、快楽追求は、進化における過酷な戦いにおいては、命を救ってくれたかもしれないが、今となっては、大抵の場合、長期的視野に立った、理性的な意思決定をする際に悪い影響を与えている。

しかも、そのような情動を変えたりコントロールしたりするのはきわめて難しいのである。

現代の認知科学と神経画像処理技術のおかけで、実験に基づく量的なエビデンスが得られ、人間の脳の異なる部位の説明が出来るようになり、ダーウィンやフロイトの洞察が確りと裏付けられた。

ダニエル・カーネマンはノーベル賞を受賞した研究をまとめた『ファスト&スロー』(Thinking,Fast and Slow)
を発表し、その中で、層構造を持った人間の脳が日常的に行う認知と、それがもたらす結果について論じている。

カーネマンは、フロイトと同様に、意思決定の形態を2つに分類している。

システム1は素早く、自動的に働き、感情的、かつ、直感的で、人間に本来備わっている思考形態に近い。

システム1は、使いやすい形に凝縮された古来の知恵に相当する。

システム2は、もっと新皮質の機能に近く、その思考は遅く、理性的であり慎重で、エビデンスに基づき、論理的法則に従った科学的なものである。

両システムとも、それぞれに相応しい場面においては、適切に機能する。

システム1の思考は、人類が進化の戦いの中で、目立たない片隅から、舞台中央の座を得るまでの長きにわたって生き残るための支えとなった。

しかし、今では、私たちが作り上げた、以前とは大きく変化した新しいステージで、この後、生き残っていくうえでの、大きな障害に、なっているのである。

システム1の思考は、広く知られた新しい問題に対して、迅速かつ柔軟に使うことが出来ないために、私たちの社会が陥りがちな、しかし自滅的な思考の源泉となりがちである。

自己中心的で攻撃的な本能は、賢い新皮質に大きく助けられながら、数百万人という人口のまばらな世界から、混み合った70億人の世界に私たちを放りだした。

しかし、その70億人が共に平和に、持続可能な形で今の時代をどう生きることが出来るか考える上で、そうした本能は、危険なほど時代遅れなものになってしまっているようである。

システム1の脳を最新の状態にするには、少なくとも数万年という進化の期間が必要だろうが、私たちにそのような時間的余裕は無いであろう。

私たちは、今後、あらゆる点で、最近発達した人間脳であるシステム2による理性的思考が、より原始的なシステム1の脳構造に組み込まれた反射的行動をどうにかして、うまく、コントロール出来るようにする必要があるだろう。

私たちが、これからも、生き残りたいと思うのであれば、理不尽な衝動や欲求実現の幻想を上回る、理性的な心の力を取り戻さなければならないのかもしれない。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日も暑いですね^_^;

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

モーツァルトとメンデルスゾーンという2人の天才が子供時代に描いた曲

2024-07-08 06:49:51 | 日記
モーツァルトとメンデルスゾーンという2人の天才が子供時代に描いた曲のなかで、死など心配せず、将来に希望を抱ける年代の美しさそのものである、と
私が感じる曲に(もはや戻ることもかなわないという憧憬とほろ苦さとともにではあるのだが......)、「ディヴェルトメントK.136」と「弦楽交響曲第5番」が在る。

モーツァルトは、円熟するというより、生まれてから死ぬまで、ずっと天才モーツァルトであった。

16歳の時に作られた「ディヴェルトメント」には、モーツァルトの早すぎる晩年までに共通する、魂の素直な躍動が満ちている。

シューマンはモーツァルトの音楽を
「どんな暗い世の中でも明るさと戯れをふりまかずにはいられない天使のいたずら」
と評したが、「ディヴェルトメントK.136」には、まさにいきていることそれ自体を喜びと感じられるような人間にしか書けない、底抜けの、混じり気のない純粋な喜びが溢れているように私には、感じられるのである。

なお、「ディヴェルトメント」は通常、「嬉遊曲」と和訳されるが、
「難しいことを考えずに、素直に心を委ねて聴けば良い音楽」というような意味に捉えてよいように私は勝手に思っている。

「ディヴェルトメントK.136」の第1楽章は、春の朝の日差しのように屈託なく始まる。

途中、その日差しには、かすかに翳りも生じるが、それもまた、結局、明るく復活する最初の主題をさらに生き生きと感じさせることになるのである。

第2楽章は、比類ない美しさを持つゆったりとした楽曲であり、ここにはモーツァルトがのちに書くオペラの原形が、すでに、こめられているようである。

それは、心の底から静かに湧き上がる、生きている喜びと感謝の旋律である。

いたずらっぽく始まる第3楽章は、「嬉遊曲」の名にふさわしく、あからさまに喜びが疾走する。

生命力に溢れた音楽は休みなく目まぐるしく動き続け、輝かしいきらめきを放ちながら全曲を終える。

さて、同じく早熟の天才であるメンデルスゾーンは、生涯、お金に苦労したモーツァルトとは異なり、大富豪の家に生まれた。

幼少から、作曲の才能を示したメンデルスゾーンのために両親は私的にオーケストラを雇い、息子がオーケストラ曲を作曲したら、すぐにそれを演奏できる環境を整えた。

このような恵まれた環境を活かし、メンデルスゾーンは、10歳頃から15歳頃にかけて、13曲の弦楽交響曲を書いている。

そこではさまざまな実験的な技法、着想が試されており、この自由な作曲経験がのちの傑作「スコットランド交響曲」「イタリア交響曲」などに結実してゆくことになるのである。

「弦楽交響曲第5番」は、12歳頃に作曲された。

「弦楽交響曲第5番」は単なる習作にとどまらず、少年メンデルスゾーンでしか描き得なかったであろう、天真爛漫さと優美に満ちていると、私は、思うのである。

第1楽章は、明るくたくましい主題で始まり、対位法を駆使しつつ休む間もなく突き進んでゆく。

時折、聴衆を驚かせる意外な展開もあり、いたずらを仕掛けて喜んでいる少年メンデルスゾーンの顔が思い浮かぶほどである。

第2楽章は落ち着いた優美な音楽が奏でられる。

わずか12歳の子供がこれほど繊細な世界を持ち、表現していることには、驚きを禁じ得ない。

第3楽章は、モーツァルトの曲と同様、激しい喜びの爆発である。

最後は、ふっ、と、肩透かしを食わせるかのように、小さな音で終わる。

これもまた、子供らしい遊び心と言えるのではないだろうか。

2人の天才が子供時代に描いた曲を、いまいちど、ゆっくりと、味わいたい。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

昨日の都知事選は盛り上がりがすごかったように、投票所でも感じました( ^_^)

今日も、暑そうですね^_^;

体調管理には、気をつけたいですね( ^_^)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

ベートーヴェンの「交響曲第9番」

2024-07-07 06:42:47 | 日記
ヒトラーとスターリンが独ソ不可侵条約を結んだとき、その記念式典で、この曲が演奏されたことは、歴史の神による皮肉であろうか。

戦いでも、救済でもない、人間が人間を愛することによって生まれる「歓喜に寄す」という人間讃歌が歌い出されるのであるが、この旋律に辿り着くまでに、一体、楽聖と呼ばれるひとは、どれほどの長い夜を過ごし、それでも生きたいと、涙とともにパンをかじる日々を経なければならなかったのであろうか。

その結論や歌詞が大事なのでは、ない。

かつて、自殺を決意し、困難と苦悩と戦い続けた人間が、ついに、生命を肯定するに至った、その魂の動きそのものが、聴く者の魂と共振するからこそ、ベートーヴェンの「交響曲第9番」は不滅の名曲なのであろう。

この曲を作る前から、楽聖は、耳が聴こえなくなっていた。

彼は、ピアノの脚を切り、地面に直接接地させて、脳髄に振動する波動で以て、ようやく和音を類推しながら、それでも曲を作り続けていた。

また、楽聖は、貧困にも悩まされていた。

彼が作る音楽は、あまりにも新し過ぎて、売れなかったのである。

なにしろ、楽聖が作り出そうとした音楽は、サロンで貴族たちがBGMとして楽しむ音楽ではなく、聴衆をコンサートホールに正座させて、音楽という言語を以て、楽聖の思想を開陳するという前代未聞の企みだったのである。

その試みは失敗続きであった。

「運命」に対峙する人間の姿を描いても、
「田園」のなかで安らぎを得る人間の姿を描いても、
心躍る舞曲を描いても、聴衆の反応は、いまひとつだったのである。

楽聖は、世界から拒絶され、自分ひとりの世界へとひきこもる。

どうせ世界が私の声に耳を傾けないのならば、私は、私の声が私自身を表しているかどうか、そこを突き詰めたい、というわけである。

ベートーヴェンの傑作かつ難解な作品として名高い後期ピアノソナタや、「大フーガ」を代表とする弦楽四重奏がこの時期の傑作である。

しかし、自分ひとりの世界にひきこもるベートーヴェンにも、お呼びの声が、かかる。

厳冬に閉ざされていた窓を、春の訪れを告げる燕が、コツコツ、と叩くのである。

それは、交響曲の作曲依頼であった。

楽聖は、自らの死期が近いことをうっすらと分かっていた。

この申し出を受けたとき、楽聖は自分の全人生を要約するような曲を作ることを考えた。

自分の人生はいつ始まったのか?
それは、生まれた時ではない、作曲家ベートーヴェンは、作曲家を志した時に始まったはずである。
では、何故、作曲を志したのか?
それは作曲をせずにはいられぬ程の衝動に身を突き動かされたからだ。

では、何に突き動かされたのか?
それは、14歳の頃、シラーの詩に出会った、あの時からではないか?
あの時に自分の人生は決定づけられており、あの瞬間を取り戻すため、私は、これまで、回り道を経てきたのではないだろうか。

「喜びよ、......全人類よ、ともに抱き合おう......」

かつて、発作のごとく若き日のベートーヴェンを襲ったシラーの熱情が、老いて聴力を失ってしまった楽聖の心を再び燃え上がらせる。

なるほど、若い頃には、生きていることが、そのまま、美しく素晴らしいことだと思っていた。

しかし、今になってわかる。
生きていることは、それがなんであれ、美しく素晴らしいことでならねばならないのである。

なぜならば、そうならねば、ならぬからである。

なぜ、このような単純なことをわかるのに、人間は人生を無駄に費やさねばならないのだろうか。

楽聖はしずかに楽譜を書き進める。
そこには、人類が到達し得る最高の、至福の喜びが歌われている。

「ああ、全人類よ、共に抱き合おう!」

それは、人類が初めて耳にする、悩み、苦しみ、のたうち回る生の姿そのもの、を称揚する志向の聖歌であり、いきているということの歓喜の爆発である。

無分別な愛の椀飯振舞である。

これほど無尽蔵に愛を謳歌することがかつて地上に存在したであろうか。

今や、歌が喜びを歌うのではない。

喜びが歌を謳うのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

昨日は、「読んでいただいている」日記であることを忘れ、自分勝手にヒートアップし過ぎてキツい日記になってしまったかもしれないなあ、と反省しています^_^;

ですから、今日は、話題を変えてみました( ^_^)

今日も、暑そうですね^_^;
体調管理には、気をつけたいですね(*^^*)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

数多くの複雑に絡み合った原因と数多くの複雑に絡み合った対策

2024-07-06 06:56:18 | 日記
診断のインフレには、数多くの複雑に絡み合った原因があるはずである。

そして、その解決には、数多くの複雑に絡み合った対策が必要になってくるであろう。

ただ、先行きは不透明である。

為すべきことが自明であり、頭で、それをわかってはいても、実行する力ながなければ意味はない。

政治や経済の力は、大抵、「異常」を後押ししているので、「正常」を後押しする勢力はなかなか対抗できないどころか、歯が立たずにいるのが現状である。

しかし、希望がまったくないわけではないはずである。

誰もが予想だにしていないときに社会や公衆衛生の思いがけない奇跡が起こることもある。

例えば、喫煙という行為は、洒落ていて粋で、しかもアタリマエのようにみえた嗜みであったが、つまらない、迷惑な、しかも害になると煙たがられる悪習へと一変しつつある。

それならば、たぶん、診断インフレという獣も飼い慣らし、精神疾患の流行、蔓延、氾濫から世界を救うことだって、出来なくはないはず、と、かつてそれに苦しんだ私は思うのである。

苦しんだといえば、診断のインフレとセットでもれなく付いてくる処方箋の乱発や多剤大量処方であるので、最低でもデメリットがメリットを大きく上回る薬は特定して廃止すべきではないかと思うのだが、なかなかそうはならないのは何故だろうか。

アメリカ食品医薬品局(以下、FDA)は、新薬を市販薬として承認する前に、十分とは言えないものの、かなり徹底した審査を行っている。

しかし、ひとたび承認されてしまえば、その後の薬の前途は洋々で、最悪でも一生安泰であるのだ。

目に余る合併症があったり、人を多く死なせてしまったりしない限り、レーダーを搔い潜って何十年も、悠々と飛んでいられることが多い。

FDAの承認後監視プログラムは、深刻な予算不足で、全ての無用あるいは有害な薬を監視する役目を果たせていない。

抗不安薬ザナックスをみてほしい。

ザナックスは、ヴァリウムやリブリウムにかわる脅威の特効薬として1980年代に登場した。

患者に人気が高く、かかりつけ医が頻繁に投与したのだが、ザナックスは、よく効く薬と言うより、脅威のドル箱ロングセラーと言った方が良いだろう。

なぜなら、治療に用いられる量は、依存をもたらすほど高用量であることが多く、患者が一生手放せなくなるくらいに離脱症状が重いからである。

さらに、使用を中止しようとすると、患者がもともと抱えていた問題より深刻な、激しいパニックや不安の発作を引き起こす。

実際に、ザナックスは、しばしば他の処方薬やアルコールとともに用いられて、医原性の過量服薬や死亡事故をもたらしているのである。

ザナックスは、適切な医療行為には、なんら、寄与していないに等しい。

ちなみにザナックスは、日本では、ソラナックスと呼ばれている。

処方箋の濫用との戦いが正しく行われれば、ザナックスは早々に討ち死にするに違いないはずなのだが、現在のアメリカの政策の下では、害を為すばかりの薬に対して歯止めをかける仕組みがFDAにはないのである。

ならば、それを処方する医師に期待をしたいところである。

私には、人としても医師としても尊敬する方々もいるし、勿論、ほとんどの医師は薬の処方に責任を持とう、と、つとめているのであるが、 残念なことに、ごく少数の腐ったリンゴと言われても仕方のない医師が多大な害を為すことがあるのである。

そんな、彼ら/彼女らは、違法ドラッグを売るならず者の合法薬物版に該当する。

そういう、「野心家」を医療の監視と監査によって特定するのは極めて容易い。

彼ら/彼女らは、なるべく短い時間で、なるべく多くの患者を診察するからである。

限られた診察時間内で、精神疾患の診断を最もよくくだし、しかも、どの患者にも同じ診断と同じ投薬で済ますことがよくあるのだ。

あきれるのは、患者ひとりに複数の薬を最高常用量で与える処方箋を最もたくさん書いて、どの患者にも同じ薬のカクテルを服用させるため、大抵は1回の診察につき出来るだけ高い料金を請求する方法は熟知しているくせに、患者の名前や患者の抱えている問題を覚えることは、大の苦手であることである。

おまけに、製薬企業のイベントには、せっせと参加して、ときには講演までして、未だよくもわかっていない最新の特効薬を褒めちぎっていたりする。

診察室は製薬企業の営業員のたまり場で、その誰もが秘書とは
ファーストネームで呼び合う親しい仲だ。

診察室のあちこちには、製薬企業からの贈り物や私物が散らばっているかもしれない。
......。

野心家たちは、ときどき、自分が処方した薬の過量服薬が原因で患者が死んでしまっても、懲罰を受けたことなどなく、医師仲間の中心人物として、何故か、自らの診療技術に己惚れているフシさえあるのである。
......。

最も原始的なものでも構わないから、コンピューターによる薬物監視システムを設ければ、野心家を見つけ出して、適切な医療から大きく逸脱していると烙印を押すのは容易く出来るであろう。

最も初歩的で構わないから、品質管理の方法を設ければ、野心家は自らの決定を弁明するように強いられて、速やかに鼻柱を折ることが出来るだろう。

そして、最も少ない数で構わないから、野心家を懲戒すれば、他の同類も同じ処分を受けることになり、皆、メンツを失って、野心など消えてしまうかもしれないのだ。

これは、合法薬物濫用に対する闘いの一環として行うことが可能であろうし、行うべきであろう。

現時点では、まったく行われていないに近い。

適切な監視と品質管理のシステムが整えば、適切でない多剤処方は、遠くない将来に無くすことが出来るはずである。

いったい、いつまで、ならず者が正しさの仮面を被って商売に励み、その代償を患者が後遺症、障がい、ときには死によって支払わされている世界のままにしておくのだろうか。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

自分が本当に苦しんだことなので、いつもにもまして暑苦しく描いてしまいました......ただでさえ暑いのにまたまた暑苦しくてすみません^_^;

今日も、暑くなりそうですね^_^;

体調管理には気をつけたいですね( ^_^)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

専門家団体、消費者保護団体、報道機関に対して想うこと。

2024-07-05 07:23:05 | 日記
どんな作用にも、反作用がある、はず、である。

診断インフレと処方薬の濫用から、そろそろ、バランスを取り戻すための振り子が働いてもいい頃合いではないだろうか。

実は、ここで力を合わせれば、診断インフレに強烈な反撃を加えて形勢をひっくり返すことすら出来る3つの勢力が在るのである。

それは、専門家団体、消費者保護団体、報道機関である。

これまでのところは、いずれも診断インフレに十分な力を注いではいない。

その理由のひとつは、専門家団体、消費者保護団体、報道機関どれもが、多かれ少なかれ、製薬企業によって組織ぐるみで抱き込まれていることである。

公正で理に適った世界ならば、この3つは、最前線にいてもおかしくはないし、製薬企業のマーケティング活動を助けるのではなく、それと戦っているはずである。

3つとも、現在は本来とは違うであろう陣営に居るが、これは速やかに変えらるであろうし、3つがしょうらいの希望である事実には変わりはないであろう。

中世のギルドは、まったく別物であるが両立出来るふたつの目的を念頭に置いて設立された。

ひとつは、ギルドの会員を外部の価格競争から守ること、もうひとつは、買い手を粗悪な商品から守ることである。

ギルドには独占権が与えられたが、それを悪用せずに、公衆からの信託物を尊重する場合に限らた。

現代の精神保健の専門家団体は、ギルドから派生しているにもかかわらず、この義務に背いている。

会員やその官僚的な組織を守ろうとするばかりで、本来なら質を維持したり、社会が最大の利益を得られるように尽力しなければならないのに、そういうことは、ほとんど重んじていないように、思える。

精神保健の専門家団体は、どこも、薬の著しい過剰使用を突きつけられも、極めて消極的な態度を取り続けている。

例えば、近年の子どもの注意欠陥・多動性障害(ADHD)、自閉症、双極性障害のまやかしの流行にも、たいして抵抗をしなかった。
......。

このような状況での中立は、真の中立ではない。

それどころか、劣悪な診断と適切でない治療に消極的に協力しているのである。

専門家団体は、自らの倫理的責任として、精神保健政策に関する充実した公開討論を奨励すべきである。

意地の悪い見方かもしれないが、それをしていないのは、自己の利益のためである。

つまり、診断のインフレがますます拡大すれば、治療すべき患者が増えて、製薬企業から資金援助を受けられる見込みがある、というわけである。

そのような理由もあり得るであろうが、しかし、真の問題は、単なる金銭的な利益相反よりも深刻で、解決が難しいのかもしれない。

DSM-5の失敗が証明しているように、専門家団体の視野の狭い、官僚的な組織が、意思決定を左右するようになり、自分たちの偏った利益の他は、なにも見えなくなっているのではないだろうか。

専門家団体が診断インフレに関する公共政策の問題や患者のケアに対する鈍感である現状は変えられる、と思う。

製薬企業との深いつながりが明るみに出たために、それまでの関係性を断って、独立性を取り戻すためのプロセスに着手せざるを得なくなった医師会も世界には(→残念ながら日本ではないが)、既に存在するからである。

もし、DSM-5に好ましい点があるとすれば、ギルドの最大の忠誠心は、ギルドの会員ではなく、社会に向けられなければならないという意識を高めたことであろう。

質の良いものを生み出すことが出来なければ、独占は失われるのである。

動機が公共の利益と一致するとき、組織は変われるのではないだろうか。

消費者保護団体は、精神科の治療の均一化を進め、精神医学の研究資金を増やし、サービスを向上させ、支援を提供し、偏見を軽くするなど、素晴らしい働きをしている。

しかし、残念なことに、消費者保護団体もまた、知らず知らずのうちに製薬企業の立場を忠実に守るロビイストになっており、そのために余計に信頼を置かれている。

これは、「カエサルの妻たる者は疑惑を招いてはならない」という掟を破るものだけに、問題は一層大きいのである。

消費者保護団体の予算のあまりにも多くが製薬企業から提供されている。

ヨーロッパの消費者保護団体は、薬の過剰な使用を認めるのではなく、それに反対をしている。
......。

もうひとつ、もっと見えにくい利益相反が在る。

組織というものは決まって、会員を増やそうとつとめる。

消費者保護団体が大きくなればなるほど、その政治的発言力と経済的影響力は強くなる。

そして、障害を持つ人たちが増えるほど、それに伴う偏見は軽くはなったかもしれない。

しかし、過剰な診断という副作用が在ったことを忘れてはならないのではないだろう。

例えば、かつて「自閉症だ」と診断された人たちのおそらく半数は自閉症ではなかった。

とんでもない副作用であるが、消費者保護団体が分別を持つようになれば、おのずと過剰な診断のリスクはもっと強く認識されるであろう。

そして、長い会員名簿を持つことによる利益と、会員に相応しくない者を会員にすれば、結局は有害無益である、という、危険とのバランスを上手く取れるようになるであろう。

メディアの調査報道は、製薬企業の誇大宣伝に対する最強の盾となり得るのに、ニュース編集室の贅沢品のようなものになってしまっている。

現実はいつだってもっと複雑なのにもかかわらず、深く掘り下げもせずに製薬企業のプレリリースを垂れ流すだけの記者が世界中に多くいることは残念でならない。

息もつかせぬ勢いの報道が助長するのは、
「すべての問題は脳の病気だとする説が、研究の進歩によって裏付けられた」
という誤った結論である。

製薬企業は、科学的研究よりも、マーケティングやロビー活動にずっと熱心であるし、そちらの方がずっと上手だという事実には、なぜか、あまり注意が払われていない。

新薬の流通ラインにしばらく何ものっていないことはあるが、ワシントンや各州都に注ぎ込む権力の潮流が涸れることは、決して、ないのである。

企業が犯罪行為で巨額の罰金を科せられても、それは大抵、裏面記事か没にされてしまうようである。

しかし、希望の種もある。

DSM-5が、とてつもなく無謀で、報道に鈍感だったからであろうが、メディアは精神科の診断の危険性に、間違いなく、気づいているからである。

DSM-5に関する報道は、実に詳細で、世界中に及び、粘り強く、しばしば容赦がなかった。

DSM-5は、外部の専門家グループによる批判には、驚くほど無関心であったが、最悪の提案の多くが報道機関によっ手酷評された際には、最終的にそれらを撤回したのである。

巨大製薬企業もまた、自らの乱行の影響が、子ども、高齢者、貧困者、帰還兵など最も立場の弱い人々に及ぶようになってからは、打撃を被り始めている。

野放しの多剤投与や医原性の過量服薬という許し難い状況も、然るべき関心を、ようやく、集めるようになっている。

報道機関に望みたいことは、市場の力を代弁するのではなく、それに逆らい、医療や製薬業界の暴走を監視し、診断のインフレと、過剰な治療に対する国民の守り手として発言してゆくことである。

H・L・メンケンは言っている。
「複雑な問題には必ず、明白で単純でまちがった答があるものだ」と。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

熱が入りすぎて、ただでさえ暑いのに暑苦しい長文になってしまいました^_^;

でも、また読んでやって下さいね( ^_^)

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

*見出し画像は散歩中に撮ったものをその日の気分で選んでいます(→内容とは関係ないことがほとんどです)(*^^*)