冬桃ブログ

虫愛ずる自分史(ときどき登場)ニューギニア

 いま思えば、私の物書き人生は実力以上に
恵まれていた。高卒だったのに、大卒の男性たちに
混じって20歳からコピーライターをやっていたし、
たいした経歴もなかったのに、体を壊して会社を
辞めた後、いきなり児童読み物作家という肩書がついた。
 ある科学書関係の出版社が発行する、子供向け
10冊シリーズの科学絵本で、その文章をすべて
担当することになったのだ。蟻、蛍、蝶など
十種類の昆虫を一冊ごとに取り上げ、生態を、
子供向けにやさしく書く。


 もちろん何の知識もないので、その都度、専門の
学者に取材する。「ゴキブリ」の回では、生きたゴキブリを二匹、
シャーレに入れて「観察用に」と、農大の先生がくださった。
 あくる日、シャーレのゴキブリは一匹になっていた。
 彼らは他に餌がないと共食いすることを、その時、知った。

 ろくな経歴もない22歳の私が「児童読み物作家」になれたのは、
当時のパートナーのおかげである。そのあたりの詳細ははぶくが、
ある日、彼がおずおずと、でも真剣な表情で切り出した。
 「ニューギニアへ行ってアレキサンドラトリバネアゲハと
遭うのが、子供の頃からの夢だった。一緒に行かないか」と。

 科学絵本を出したおかげで、この頃には、
昆虫マニアや専門家と馴染みつつあった。
 彼らの間でもよく話に出たアレキサンドラトリバネアゲハは
緑色に光る翅を持つ世界最大の蝶。
 昔、探検家が鳥と間違え、銃で
打ち落としたという逸話もある。
 いまはもちろんワシントン条約で捕獲禁止。

 参考サイト
https://www.jataff.or.jp/konchu/chinki/ageha/ageha.html

 IDKの安アパート暮らしで貯金もなかったのに、
一も二もなく私は賛成した。素敵な夢ではないか。
 そして夢を実現させようという彼の生き方も
素晴らしい!(その後、彼はすべての夢を着々と
叶えていった)

 これから入るお金を前借して、質素な食生活に甘んじ
服も化粧品も一切買わず旅費を工面した。
 当時はネットも参考になる本もない。ニューギニアは
まだオーストラリア統治領で、未開の地というイメージだった。
 カンタス航空に唯一、香港経由のニューギニア便がある。
 そこで会ったこともないカンタス航空の
人に面会を求めた。外国系の映画会社で管理職に就いている
方が有名な蝶マニアで、ニューギニア体験あるらしいと聞けば、
その方にも会いに行った。
 海外旅行はまだ、誰もが気軽に楽しむめる時代ではなかった。
 
 お二人ともたいへん親切に対応してくださり、
ハワイのビショップミュージアムがワウという山間の
地に研究者向けに建てた家を一カ月半、借りられることになった。
 私たちは鍋窯を背負ってエベレスト登頂か、という姿で
羽田空港へ行ったが、ワウの住まいは欧米人研究者用の
瀟洒な戸建てで、何もかも揃っていた。

 ハウスボーイと呼ばれる使用人までついていた。
 名前はピーター。年齢は本人も知らない。
 ピーターは毎日やってくるが、掃除は丸く掃くだけ。
スコールが降っても洗濯物は取り込まない。
 はっきり言えば使用人としての仕事は何もできなかったが
お互い、つたない英語で話し合い、現地のことを
私はいろいろ教えてもらった。


 この頃、もうすでにこういう格好をしている
人達は「観光用」だった。素朴に物々交換を
申し出ても、首を横に振って「マネー」を要求された。
 差別もあたりまえのようにあり、村に一軒だけあるバーには
「白人専用、現地人お断り」の表示があった。
 ただし日本人は名誉白人だから入店可と。
 アメリカ人研究者に誘われてその店に行ったが
なんとも居心地が悪く、複雑な思いにかられたものだ。


 一カ月半の滞在を終え、私は日本へ、相方はそのまま
オーストラリアへ渡り、もう一カ月の滞在。
 私は帰国後、読売新聞の依頼で寄稿文を書き、
某出版社からニューギニアを舞台にした童話も出した。


 このあたりから、家の中を蝶の幼虫が這い廻っても
平気な「虫愛ずる女」になっていけたのである。


 
 
 

 
 
 

 

 

 
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