クリスチャンの金言(72)エミール・ブルンナー
「燃えることによって火が存在するのと同じように、伝道によって教会は存在する。」
「酸素が肺にとって必要であるように、希望は人生の意味にとって必要である。」
...「神を否認しようとする中にも、やはり神の認識がある。」
「世は神によって創造されたものである。あらゆる被造物の中でその創造主の霊が何らかの仕方で認識される。すべての名人の真価はその作品に現われる。」
「神が被造物によって讃美されているということはまた、最初の時代からその後の全世紀を通してキリスト教の典礼には欠くことのできない一構成要素である。」
「神が何事かをなすところ、そこでは神のなす業の上に神の本質の印章を押す。それ故に、世の創造は同時に、神の啓示、神の自己伝達である。」
「自然とは、罪深い人間が、そこで認識していながら同時にまた認識していないものを意味しうる。それはちょうど、人間自身の本性に関して言えば、神がご自分に似た姿として人間の本質の中に入れ給うたものは破壊されえないが、しかしどうしても常に罪によってくらまされてしまうと言いうるのと、事情は全く同じである。
それ故、正しい自然からの神認識は、これをキリスト者だけが、換言すれば同時にキリストの啓示の中に立つ人間だけが、持っていると結論的に言える。」
「保持(ほじ)の恵みとは、大部分は、人間が罪を犯すにもかかわらず、神の創造の恵みを罪深い人間から全く取り去ってはしまわないということである。保持の恵みに関して正しく語ることは、キリストの啓示の光の中で初めて可能である。」
「神は全く善意を持つ方であるので、太陽をよい者の上にも悪い者の上にも、照り輝かせるということ、神はわれわれに生命、健康、力等を与えるということ、……自然的な生活に必要なすべてのもの、そういうものすべては、保持の恵みの概念の下に置かれるが――、その保持の恵みは、それであるから一般的な恵みと呼ばれているが……われわれはこのこと、すなわち救う恵みを学び知る前にすでに神の恵みによって生きていたということを、たとえその恵みが何であるかを正しく認識しなくても、認識する。」
ブルンナーは、神との出会いを「われ―それ」、「われ―なんじ」という関係概念を用いて説明します。「われ―それ」の認識は、自己の外にあるものとしての客体の客観的知識です。
「われ―なんじ」は、他者はもはや「それ」とか「あるもの」ではなくなり、われわれにとって「なんじ」となる人格的な関係です。この「われ―なんじ」という関係は客観的関係ではなく、二つの関係が相対的関係となり、この関係によって血の通った神と人との交わりが回復されます。
ブルンナーは、この「われ―なんじ」という人格的な関係を媒介とすることによって〝神との出会い〟が可能となると言うのです。
神認識はこのような客観主義か主観主義かという二者択一ではなく、「主観と客観の超克(ちょうこく)である」というのです。
これがブルンナーの主観と客観を統一した「出会いの神学」の根本原理でした。
この客観的か主観的かという二者択一ではなく、主体(われ)と客体(それ)関係を超克することを説く。すなわち、超克とは「われ―なんじ」という「人格関係」のことであって、神はその人間との「人格関係」(言葉における神との出会い)の中にはいるということを強調します。
エミール・ブルンナー(1889~1966年)、
スイス出身のプロテスタント(改革派)神学者であり、カール・バルトと共に弁証法神学運動の草創期を担った新正統主義の代表的神学者である。
8年間の牧会生活の後、1924年からチューリヒ大学神学部で組織神学、実践神学の教授を務める。また、1942年から1944年にかけては、同大学総長も務める。
キリスト教の布教の不徹底が日本におけるファシズムの勃興の一因だったと考えて日本に赴き、1953年から国際基督教大学の教壇に立つ。そして日本で無教会主義の影響を受けた。本人は永住も覚悟した日本移住だったが、健康を損ねてしまったため、1955年に帰国した。
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