陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

我が家の歴史、博物館へ寄贈しました(前)

2018-09-03 | 芸術・文化・科学・歴史

大阪府の千里丘陵にて催された1970年(昭和45年)の日本万国博覧会は、日本の経済成長と文化発展とを世界に発信する、エポックメーキングなイベントでした。その跡地はいまや記念公園と称し、敷地の一部はエキスポランドという遊園地になり、かつ博物館施設にもなっています。最近になって、岡本太郎の太陽の塔の内部が公開されましたね。

万博記念ホール西側に、博覧会後建設されたのが通称「みんぱく」こと国立民俗学博物館。東京は上野の東京国立博物館にもひけをとらない世界中の博物品を収蔵。この民博が特殊なのは、民俗学とも考古学ともの範囲にはとどまらず、現在の資料をもとに今日の諸民族の社会や文化を比較研究する文化人類学のミュージアムとしてオープンしたこと。まさに、『悲しき熱帯』のレヴィ・ストロースや、『銃・病原菌・鉄』のジャレド・ダイアモンドの語る世界そのもの。私が所有する20年ほど前のブルーガイドニッポンの旅行ガイドには、「歩いて回るミニ世界一周、世界の民俗学を2時間で旅する」とあります。まさに、それぐらいのボリュームのある展示です。この民博の学芸員だったM田先生は、私の母校大学の博物館学講義を担当されておりました。

美学美術史を大学で専攻した私めですが、見て回って楽しかったのは世界の名宝美術品よりも、考古学や民俗学の生活展示、さらには古民家。格別の天才的技能がつくりあげたものでもなく、無名の人の手垢がつきまくったものに、なぜ格別に愛着がわいてしまうのか不思議でもありました。小説家の原田マハさんは、学生時代、美術館巡りをして何気なく購入したとある名画の複製版画に魅せられたが、その一枚との出会いが後年の自分の行く道を決定づけたのかもしれない、とエッセイで語っています。そこまでではないにせよ、何気なく出会ったものがふとのちの自分に影響及ぼすことはあるのかもしれませんよね。

まさか、博物館で働きたいと思っていた人間が、その夢かなわず、しかし、よもや博物館に寄贈してしまう側になってしまうとは。しかも、自分の制作物とかではなく、自分が買い集めたものですらなく、なんとなく受け継いでしまったもので、これはなんらの名誉でもなんでもないのですが、しかし、博物愛がある(?)自分だからこそ思いついた芸当なのかもしれない。ちなみに、自分に所有権があるもので寄贈したのはこれがはじめて。図書館に勤めていたときに、大学の後輩が自費出版した小説(その後輩が挿絵担当、小説は事故死したその友人)を当該市の中央図書館へ寄贈を斡旋したことはあります。自分の論文が載った研究誌なんて、ほっといても大学図書館が保管しますし。

嘆きながら、怒りながら、そしてたまには喜んだり目を輝かせたりもしつつ、ここ数年がかりで行ってきた古い納屋のお片付け。あきらかに破損したものはごみへ出して、これはと思うものだけを保管。そして、つい、先日、かねてからの計画を実行しました。

我が家の珍品を博物館へ寄贈すること。
それが、今回の最終ミッション。いや、最終地点は納屋を解体することなんですが。これまでの民族学博物館だの歴史資料館だのを訪れてきた私の鑑識眼がたいして良かったわけでもないのだろうが、ここぞと思う民具や農具、もろもろ生活の品々を用意して、博物館学芸員氏の到着を待つばかり。ご当地町内の資料館も寄贈受付しているはずなのですが、十数年前にご近所の方が大量に寄付したとの情報をキャッチし、では、うちは収容キャパの大きな県立博物館にしようと思った次第。日本史の高校教師で学芸員になった方とも交流がありましたし、その県博で生活用品の展示があるのを目にしたことがあったからです。

予約を入れてやってきたのは、民俗分野担当の学芸係長。
映画『トランスポーター』シリーズの主演ジェイソン・ステイサムのマッチョをほどいて文系にしたような感じなので、ここだけの話、ジェイソン氏と呼称させていただく。13日の金曜日のあの男ではないので、あしからず。

ジェイソン氏、我が家のややいぎたない、埃だらけの納屋の悪環境にもめげず、並べられた珍品を手にしてはつぎつぎと検分。これは、〇〇ですよね、と懇切丁寧に解説もしてくださるが、こちらとしてはつねに疑問形。そりゃそうだ、生まれる前にあったものだもの。知っているといえば、最近、製造元が廃業で話題になった着物の鏝(こて)ぐらいか。そこの兄さん、この品どうですか、お安くしときますぜ、みたいなもの売り気分で手にとらせてみたものの、なかなかお持ち帰りリストに入れたがろうとしないジェイソン氏。運び屋なんだからさ、さっさとおたくの公用車に持ち帰りなさいよ(違)、とはこちらの内なる声。

学芸係長いわく、収容したい寄贈品候補になりやすいのは、以下のとおり。

・当該博物館では未収蔵のもの(とくに1700~1800年代などの特定の年代)
・生活用品は来歴、使用目的が判別できるもの
・一部破損していてもいいが、完全に揃っているもの
・あまり大きなものは管理できないので不可
・個人情報が露出してしまう恐れのあるもの(古い通帳、預金証書、登記簿など)は不可
・今後、開催予定の展示テーマに利用できそうなもの
・書籍類は文書管理している施設が適切

というわけで。
我が家の納屋のスペースを占めている巨大な水車や舟と魯、餅つき杵と臼、脱穀機などなどの農具などは、あいにくお引き取り願えなかった。戦争中に蔵が焼けたり、水害で流されたり、それまでに整理されたりして、まさか江戸時代のものなんて残っているわけがない。木製の箪笥なんて昔は畑で丸焼きにして処分していたくらいなんだから。鑑定された農具も、ほとんど昭和40年代までの比較的新しいもの。よくわからない生活用品もあったが、学芸係長氏が知らず、使用目的をこちらが明らかにできないものも不可。

著作権に反しそうな古いレコードや、メーカーものの家電も却下。
家電も各メーカーが企業博物館を運営していますから、そこから借りればいいわけで。レコードも正直、どちらさんですか、と言いたくなるような知らない歌謡歌手もいます。それにしてもレトロ満載で、ほんとうに小津安二郎の映画世界そのまんまのような生活用品なんだけど、引き取られない。古いラジオも使えそうだけど、電気代がかかりそうで使いたくない。

とくに残念だったのは、祖父が持ち帰ったとされる戦争関連の資料。満州で陸軍の補給部隊にいたとされる祖父とその戦友とされる兵士の写真が大量に見つかった。しかし、彼らがどこの誰かが皆目わからない。人物写真の場合は、当時の様子が分かる背景が写っていればひきとるとのことだったが、それもない。そもそも、写っていてもそれがどこか記載されておらず、こちらでは伝えられない。8月15日が来るたびに、戦争の語り部が乏しいことが話題になるけれど、いまの三世代が同居しない暮らしぶりでは、お年寄りの記憶なんてなくなってしまえば葬られてしまうわけですよね。真鍮を抜いたと思われる砲弾の先端らしきものまで見つかったが、アレの正体は何だったのだろう。いくら、戦の形見だからといって、そんなもんまで持ち帰ってこんでよろしいがな!と亡き祖父に言ってやりたい。


我が家の歴史、博物館へ寄贈しました(後)
古めかしい不用品が出てきたら、捨てる前に博物館などへの寄贈を検討してみましょう。意外な日用品が歴史的遺産になり、後世に脚光を浴びることもありえます。寄贈の際は、どのように活用するかを訊ね、寄贈資料一覧リストを作成してもらいましょう。あらかじめ、寄贈先に受け入れ対象品あらましを聞いておくといいです。




【博物館・美術館部門】

博物館・美術館に関する情報や考察、美術展評



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