いま、千歌音の手元には姫子と二人で写した一枚の写真がある。
おそらく、これは現実界にある写真ではない──のだろう。1980年代の写真機らしいネガフィルムもなく、感光液に浸すでもなく、ぽわんと一枚かってに出てきたのだった。まやかしのカメラに技巧などいらない。なんども念じればいいだけだった。好きなだけやり直すことができる。衣装だって舞台だって変えることができる。
しかし、姫子が望んだのは、いまこの二人があるがままの姿を捉えた一枚だけだった。その一枚をさも大事そうに握りしめ、姫子は感慨深げに、こうこぼすのだった。
「千歌音ちゃん、知ってる? 月ってね、やっぱりふたりの場所だったんだ」
「そうね。ここは姫子と私だけの場所…」
その言葉をまるで歴史上はじめて月面に降り立った宇宙飛行士のように、誇らしいものとして千歌音は感じていたに違いない。
この月に二人も、いや、厳密に言うならば、ふたりっきりで過ごした人間などいただろうか。仕事仲間でも、科学者然としたパイロットでもなく、ただの愛しあうふたりの隠れ家として。そんな物語はいつぞや世界のどこぞの誰ぞかにでも書かれたのかもしれないが、それを女ふたりで実現せしめたのは、はじめてだったのではないかしら。
白粉をまぶしたようにこんなにも美しく覆っているこの月を、あの蒼い星の住人たちはどんな顔して眺めていることやら。見えるはずのないものであるのに、その見え方を想い描いてみては千歌音も姫子も、童心に帰ったかのようにこころが浮き立つのだった。
──私たちの逢瀬を阻むものは、もはや何もない。
そう。太陽と月のあいだに割りこんでくる存在など、もはやあるわけがない。
その想いを噛んで自分の胸の奥に擦り込ませるように、千歌音はつぶやかずにはいられなかった。
千歌音の脳裏にぼんやりと差し込んできたのは、思いがけず社の裏側に見出した巨大な石柱のような物体だった。
あまりにも楽しい時間にくるまれすぎて、それが存在していたことにふたりは気づかなかった。月に暮らしてからおそらく数日は気づかなかったくせに、千歌音も姫子もそれが何であったのかを、瞬く間に理解することができた。それを見たとたん、怯えたように自分の袖を握りしめてくる姫子を抱き寄せて、千歌音は冷静にその偉容をあらまし観察したのだった。
それはあらためて眺めると、地球上で観た巨石の遺跡の何倍も大きかった。
これに匹敵するものといえばエジプトにある神聖な獅子のからだと人間の顔をもったあの像だろうか。だが、しかし、かつてこれがうごめくものであったことを知る人間は、もはやこの月にしかいない。
その名を「剣神アメノムラクモノツルギ」──かつて、神無月の巫女が搭乗してヤマタノオロチと戦った、伝説の神機である。
「これはもう眠っているわ」
「…だといいな」
「だいじょうぶ。姫子よりも、ずっと、お寝坊さんになっているから起こせやしない」
「あっ、ひっどい。千歌音ちゃんたら」
ひどいと言いながら、責める顔ではない。
私たちはこんなことも言い合える仲になった。千歌音も姫子も微笑みあった。
かつて、あの黒い巨体の影こそが現世で唯一、ふたりが乗ることのできたものだった。
そして、それはふたりをひとつにもし、ひとりにもしてしまう哀しき魔神でもあったのだった。
思い返せば、出逢ってからというもの、わずか半年ばかりなのだった。
その半年のなかで、姫子と千歌音だけが誰に憚ることなく逢うことを許された時間が、場所が、どれくらいあったのだろうか。ふたりの巫女が使命感を持ち合わせて、信頼を寄せ合って乗り込むその空間ですら、この時代のふたりには最後のさよならの場所でしかなかった。
【神無月の巫女二次創作小説「花ざかりの社」シリーズ(目次)】