陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

ひとを悪魔に変えてしまう読書、ありやなしや

2018-06-16 | 読書論・出版・本と雑誌の感想

ここ最近、毎週ごとにびっくりするような胆冷やすような事件・事故が多いですよね。
それに慣れてしまう自分も怖いと言いますか。

小さなお子さんが事件に巻き込まれると、たいがい、容疑者加害者のルーツ探りからはじまって、思想調査にまで踏み込んでいくわけです。アニメや漫画好きとわかると、たいてい槍玉に上がりますし、それを懸念してアニメおたくが飛び火して迷惑だと表明する。ほんとうに論じられるべきは、どうやって子どもを安全に守るかなのだけれども、自分の趣味が虐げられることへのシュプレヒコールしかしない。とくに、それが飯のタネもしくは小遣い稼ぎになっている人なら、なおさらです。若い女性への性犯罪が起きても、男の誘惑にホイホイ乗った方が悪いとか、ふしだらな家庭で育ったとか、たちまち二重三重に被害者が傷つけられてしまいますよね。

被害者が未成年ならば、非人道な加害者の幼稚性がクローズアップされ、そのアイテムとしてアニメや漫画は格好の叩き材料なわけです。ところが、加害者があまりに若すぎる場合では、ゆがんだ知能犯である場合もあり、その趣味に驚くこともあり得ます。

つい先日発生した新幹線内の無差別殺人事件。
逮捕された男は22歳。発達障害の気配があり、実家の両親も匙を投げ絶縁状態。祖母宅に身を寄せて会社に勤めたことはあったものの、人間関係で折り合わず退社。その後、ネットに熱中して引きこもり状態だったけれど、昨年末から家出したままだったとか。この22歳男は、刺すのが「誰でもよかった」と供述していますが、最初に狙ったのは襲いやすい20代女性。勇敢にもひとり抵抗をこころみた既婚の30代会社員男性が、犠牲となっています。ほんとうに痛ましい事件ですよね。

この事件に置いて論ずべきは、車内での防犯体制。あるいは自衛策。
3年前にも、老後の貧困を憂えた老人が女性を巻き込んで焼身自殺する事故があったばかり。防犯カメラを増やしたものの、飛行機のように手荷物検査をすればダイヤ運行に支障をきたすため不可能。不審者に声掛けするなどの対策しかとれないとのこと。これでは、確実に二度、三度繰り返されますよね。なにせ、この犯人からして、どこにでもいそうな青年にしか見えませんし。他人を見たら、泥棒どころか、殺人者とまず疑わねばならない世の中なんて。

この容疑者の自宅からは、愛読書が発見されたとの報道が。
その本というのが、古事記とかの神話や歴史の本。さらには塩野七生のユリウス・カエサルの伝記や、ドストエフスキーの『罪と罰』まで。ふつうに誰が読んでもおかしくない本ですよね。むしろ、教養本としてすすんで読んでいる方も多い。私が好きな哲学者マルティン・ハイデッガーの『存在と時間』もあったらしい。

ドストエフスキーの『罪と罰』は、近年刊行された新訳本を借りて読んだことがあります。
ロシア人特有の呼称の変化が煩わしいこの世界的名作、名前は知っていたものの、苦手でしり込みしていたのですが、最近になってやっと通読。ひと言でいうと、感動しました。生活に行き詰まった法学生の青年が、金持ちの強欲な老女(と、そこに居合わせた別の女性も巻き添えに)の命を奪う。その一方で、父親の借金のカタに売春婦となった美しい娘の家族への援助は惜しまない。主人公ラスコーリニコフはなんども自白しかけ、また、犯行に勘づいた男が脅迫しかけるも、遁れてしまう。ところが、あるきっかけで結局、シベリア送りになりますが、殊勝に服役しています。出所したら帰りを待つ恋人の存在が励みになっている。読後感はあまり悪くないです。この作品が語り掛けているのは犯罪の正当化ではなく、ひとを愛することに目覚めた男が最後に辿り着くヒューマニズムの境地にあります。事実、この主人公は、罪を犯した自分に何度も苦悩し続けるのです。

いま、感動したと申し上げましたが、じつはながらく、私はドストエフスキー作品が苦手でした。私の大学時代の後輩がこのドストエフスキー愛好者で卒業研究のテーマにしたほうだったそう。ひとよりは目立つ存在でしたが、礼儀正しいし、付き合っている彼女もいました。ところが、数年後に、彼は自殺したというのです。それ以来、怖くて、小説好きならば誰もが好んで読むというこの作家をひじょうに毛嫌いしていました。その作品のなかに、ひとを凶器に変える何かがあるに違いなく、それに感化されるのが怖かったのです。

私は学生時代、デカルトとかニーチェとかの哲学書が好きでしたけれど、そういうお堅い「知性のある」本ばかりに触れていると、世間に対して盲目になる危機感もうすうす感じていました。おたく気質というのでしょうか、同好の士のなかでは知識で張り合いができるけれど、それが通じない外界ではなにも自分の存在意義を示すことができないもどかしさ。オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』とか、エミール・ゾラの『制作』とか、バルザックの『知られざる傑作』とか、芸術家を描いた物語は、命を削ってまで創作に身を捧げる崇高さがある反面、常人からすれば狂気の沙汰としか思えないふるまいが多い。日本をはじめとした神話だって、けっこうえげつないエピソード多いですよね、親殺し子殺しとか、姦通するとか。歴史小説や偉人の伝記が好きな人も、万能感に浸りたいタイプが多いことは否めないでしょうし。

ある種の本には、ひとを堕落させる、悪魔に変えてしまう要素があることは、かならずしも否定できないでしょう。その反対に、本を読んで、生活を立て直そうと思ったり、ひとを愛することの大切さに気付いたりすることもあるんです。
猟奇的な犯罪小説や、凄惨すぎる暴力的シーン、性差別を助長するような描写のある本は、読者の理性をゆがめてしまうのか? これは永遠に正解が見つからないテーマです。そうだといえば、待っているのはレイ・ブラッドベリの『華氏451度』が描くような焚書、言論統制。しかし、野放しにすれば、モラルの低下の叛乱です。ネット上にあふれるヘイトスピーチのような。

ひとが道を誤るのも、正すのも読書だけではない、ということしか言えない。
読書というのは、所詮、ひとりっきりで完結してしまう趣味ですから、視野が狭くなりがち。ペンは剣よりも強しとはいいますが、読んだ者の人生や価値観をいい意味でも悪い意味でもあっけなく変えてしまう魔術は、読書にはあります。むしろ、危険物だと認識されないだけタチが悪いと言えるのかもしれない。神戸市の少年殺傷事件の少年Aのように、出版社が面白がって手記を出すケースもあります。

本が好きなのはいいけれど、本に書いてあることを超えるような体験をしておくのも大事なんでしょう。生きるために万引きをしたり年金詐欺をしたりする家族を描いた、日本人監督の映画がカンヌ映画祭で最高賞を受賞したとしても、国内の一部でやや白けているのも、読書や芸術享受のような文化体験ばかりが人間形成において重要ではないことの証左といえるかもしれませんよね。

それと、ある作品を好きでいたら問題行動のある人だとレッテル貼りされるのは、ギャンブル依存とか毒になるほど大酒飲み、他人のアレルギーお構いなしのスモーカーとか、まあそれと似たようなものでして、人間の防衛本能に基づくものです。私は気にならないですが(自分の溺愛作品への批判でも、合理的なものも多いので)、自分の好きなものを悪く言われる、批判されることへの免疫力は鍛えておいたほうがよいのかもしれない。しかし、ドストエフスキーなどは、正直、ある程度、物事の分別がついてから手に取ったほうがよさそうだとは思います。難しい本を読みこなしているから、精神的に成熟しているとは限らないんですよね。思春期に親以外に理解のある大人が周囲にいないことの弊害もあるでしょうし、若い人がおかしい犯罪を犯したり、子どもが事件の犠牲になるのは、自分も含めて頼りない頼れない大人が多くなったからなのかもしれません。

読んだ言葉よりも、書いた言葉よりも、自分に言われた言葉のほうが、人生の行く先に響く。
どんなに美辞麗句の本を読んでも、誰かが落ち込んだときにどう言ってあげればいいかしばしば悩む私は、そう思うのです。これ読んで元気になりなさい、がなんだか安直な気がして。

読書の秋だからといって、本が好きだと思うなよ(目次)
本が売れないという叫びがある。しかし、本は買いたくないという抵抗勢力もある。
読者と著者とは、いつも平行線です。悲しいですね。


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