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目下、海外のとある資格試験が耳目を集めている。
元内親王の配偶者が受験したとされる米国の司法試験。日本のれっきとした国家資格のそれとは違い、州ごとに法律が異なるための資格認定試験のようなもの、なのだろうか。今年7月の合格者は60パーセント代、そこそこの大学直下のロースクール卒業者ならばゆうに8割を超える。ただし、語学の壁がある外国人の合格者は3割ほどとされる。
法律事務所に就職内定されていた「彼」は、あいにく不合格だったらしい。
一個人の試験結果が、かつて、これほどまで何度も報じられたことがあっただろうか。五輪のマイナー競技のメダル獲得よりも大騒ぎになっている。衆議院議員選挙前なのに。
話は変わるが──。
数年前、私は行政書士試験合格者の祝賀会に参加した。
模擬テストだけ利用した資格スクールからの誘いで。既に中小企業診断士を取得し定年退職して開業予定のシニア、司法書士として事務所勤めの女性、合格済みの受験サイト運営者、塾の経営者、派遣社員、専業主婦──合格者の顔ぶれはさまざま。超難関資格ではなく、大学に通う必要もないので、私のような初学者でも挑戦しやすいライセンスである。
行政書士試験に挑戦したのは一度だけ、それまでの資格試験と同じく、市販テキストのみの独学で勉強期間は5箇月だった。
宅建士も同様に4箇月で合格できたが、これは当時、個人事業のみで時間拘束が厳しくなかったからといえる。日商簿記なども含めての複数の資格を取得したことにより、30代で再就職が難しかった私でも、士業事務所に正社員として就職できた。
ところで、その合格祝賀会では、意外な事実を知った。
なんと、不合格者が合格に修正されたケースがあったのだ。自己採点したうえで問い合わせしたらしく、通知書が二枚届いた。それを記念にとっておくと壇上で発表し、その場の笑いを誘っていたのであった。私自身も、ボーダーラインぎりぎりであったので、ネット上での合格者発表欄に自分の受験番号を見つけて、大声で叫んでしまったぐらいなのである。資格試験の問題は当たり外れが大きく、たまたま、自分は運が良かっただけなのだろう。
お二方のご成婚を報じた翌日の日経新聞には、就活生たちが資格の取得に熱心な現状が報じられていた。FP技能士2級の試験を受けたときでも、受験会場の周囲が若い方ばかりで気まずかった覚えがある。学生時代に就職を見据えた学びを怠ったのだから致し方ない。
その後、さらにとある士業資格に挑戦したが、そこではじめて不合格を味わった。
事業上のトラブルや勤務先での過労、さらにコロナ禍での外出禁止などもあって、現在は断念している。しかし、この過酷な状況下にあっても地道に今年、合格を成し遂げた方はいたのだろう。時間管理ができずにくじけたのは、自分のせいなのだ。
上記の「彼」の場合は、雇用されていた弁護士事務所からの支援や奨学金もあり、論文も表彰され、実用に値する優秀な成績だったとも聞く。ただし、受験はオンラインだったらしい。来年二月に再受験とのことだが、長時間労働しながらの勉強は困難が予想されるだろう。仮にめでたく合格したとしても、日本以上に出身大学の格付けが問われ、さらにアジア人差別も激しい新天地で、弁護士として生計を得るのはなかなか厳しい。それでも、妻となったからには支えるとの、いじらしい元内親王のお言葉があったそうだが。
いわゆる資格浪人や就職浪人の恋愛や結婚をめぐっては、さまざまな見解があろう。
大学教授やら士業の先生のなかには、受験生時代を糟糠の妻に支えてもらった、という方もいらっしゃる。だが悪いことには、自分の将来の夢を騙り、気高そうな志を掲げ、ただの精神安定剤として、お付き合いさせて利用しようとする輩もいないではないだろう。魅力的なこの自分に投資してくれ、将来出世するぜ、と言わんばかりに。挑戦するなら期限を設けないと、特に女性は振り回されてしまいかねない。ご褒美を与えられたり、おだてられたりしないと学べない人間は、やがて「勉強している状態」だけを維持しつづけることを目的にしだすだろう。本人が気ままに趣味としてやっているのならばそれで構わないが。
行政書士資格も、国立大学大学院の修士号も、英語で論文を寄稿したことも。
私は率先して、初対面のひとに明かしてはいない。私よりも優れたひとにはいくらでも会ってきた。その資格や学歴やら、さらには過去のそこそこの知られた勤め先にしても、それを告げることで、他人を上から見下ろしている自分に気が付くことがある。相手の態度が変わって、なんとなしに虚しくなったこともある。でも、自分がそうではなかったのだとは言えない。優秀さを欲しがる時点で、既に負けている気がする。
資格をとれば、学歴を得れば、たしかに人生は変わることがある。
いくばくか、この世の中で息をしやすくはなった。何者かである証にはなった。会う人に臆することも少なくはなった。自分と家族の大事なものを守れるようにはなった。しかし、それは持たざるものをひしげ、踏みにじったり、権威で殴ったりするためではない。自分は有能で、あなたにとってのお買い得な人間ですよ、と宣伝材料になるわけでもない。資格をとれたからといえども、自分の出自や、過去の至らなさが拭われて、豊かな世界へお先にひとっ飛び、というわけではない。
法律を学ぶのは、個々人の偏見をのりこえたものの見方を得るためである。
こんなかしこまったことを書く自分も、はたして、つねづね倫理にのっとった言動をしているのかは自問すべきところではある。
もと内親王の夫たる「彼」は、何のために、わざわざ異国の弁護士になろうとしているのだろうか。そして、やんごとなき生まれの「彼女」はなぜ、それを望み、支援するのだろうか。失礼ながら、お互いに高望みの肩書きをお相手に求めあって、もたれかかっているようにしか思えない。それは、ほんとうに愛からくる行動なのだろうか。疑惑には誠実に対応し、ふたりして国内で仲睦まじく家庭を築く方法はいくらでもあったのではなかろうか。
私見だが、母親と元婚約者との金銭トラブルは、そもそも息子である「彼」は当事者ではない。母親が亡くなり、債務相続をすれば弁済の義務を負うであろうが。もし、こうした類のお金の貸し借りをする際はかならず、金銭貸借契約書を作成しておけばいいだけの話だ。この元婚約者が請求をした時点で消滅時効は中断するだろうが、この人物が恩を着せたくて事を大きくしたのかは不明だ。いずれにせよ、欲得づくでひとの繋がりを求めたら、いずれ失うものは大きいのである。お金のやり取りで失敗する人間は、信用に値しない、と思われるだけである。日本のように雇用が守られていない米国で、「彼」と「彼女」は、その現実をどれだけ噛みしめ、そして、乗り越えていかれるのだろうか。
思い返せば婚約記者会見での、互いを「太陽」と「月」とに喩えたお二方の覚悟が試されるのは、これからなのだろう。