陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

正論を吐く前に人間としてやらねばならないことがある

2022-08-31 | 教育・資格・学問・子ども
 


私は個人事業専業だけ、あるいはそれ以前の無職無用の身同然のときに、ネット上のニュースサイトや掲示板をちまちま覗いていることがありました。暇にあかせての憂さ晴らしです。

そうした場所でのトピックは、新聞やテレビなどの大手マスコミが報道しないような、ゴシップや暴露記事などがあり。これははてなブログやら、ツイッターなどでもそうですが、たちまち、いち個人の見解が大騒ぎになって、ついには国会の議題にまでとりあげられることがあります。

しかしながら。私は最近、こうした傾向に疑問を抱いています。
たしかに見過ごされがちな不正や、とりあげてくれない権力のスキマの不正などを訴える手段として、ネットは有効なのでしょう。その昔、江戸幕府の八代将軍徳川吉宗は目安箱を設置して、庶民の意見をくみとり政務にう反映させたとのことですが、市民の意見が上に通りやすいのは、健全な民主主義社会の基本でもあります。

けれども、なんでもかんでも、個人の不平不満があれば大勢の支持や署名を集めて、主張を押し通してもよいものなのでしょうか。思想・信条・宗教の自由があり、結社や集会、デモでの抗議活動は平和的な手段として認められています。けれども、その公益性が認められなければ、ただの不埒ものの争議になってしまいかねません。

兼業会社員として勤めはじめますと、個人事業主としては至らなかった視点を得ることができます。
組織人として仕事をしている以上、なによりも和が大切。キレイゴトだとは思いつつ。

取引先でも、あるいは社内間の人間関係でも、個人の道理ばかりを言い連ねていては仕事が回らなくなります。
思慮深く、用心深い、研究者肌の人間はついつい、ひとつの作業にもさまざまな疑問が湧きますが。その疑問点に逐一答えをくれる学校のようなものが居心地がいい──けれども、会社はそうではありません。

いちいちわからないことがあっても、とりあえず、それはカッコ入れしておいて、作業を前に進めないといけないのです。ぐずぐずしていると、怒鳴られてしまいます。理不尽かとは思いますが、会社員とはまあそんなものです。

昔から、学校のクラスで不審な点があると、挙手をして先生に質問をしてしまう。
そんな自分をカッコいいなんぞと間抜けにも思っていたような私は、我の強い批評家精神の塊でした。自分が正しい、決め込んでしまったら、周囲が暗愚に思えて、もう何も見えなくなってしまうのです。無駄に学歴の長い人間は特に。傍から見たら、その姿は滑稽そのものにすぎないのに。思い込みのせいで、私は仕事上、なんども揉め事に巻き込まれてきました。

黙々と机にさえ向かっていれば、ひとつのことを達成すれば褒められた。
そんな学生気分の時代はもう終わったのです。デスクで書類をめくっても、電話は鳴り、FAXやメールはジャンじゃ届き、社内の他の部署からは依頼が舞い込んでくる。そのたびに私の集中力は遮断されますが、だからといって、時間を奪われたのだと嘆いていては始まらないのです。

ときには、他人の失敗によるトラブルも、自分が責を負わねばならないことがあります。
私の現職の場合は、前任者の残した作業の一部があまりにひどくて、入社とうしょから問題点だらけでした。多少は社内でも助力ありましたが、責任者についた以上は、出来の悪い仕事でもひきつがねばなりません。さらに私自身の不慣れもあって、よけいな詮議を開いてしまったこともあります。

取引先からかってに送料をつけて送られてきた赤伝票やら、未収金やら、計上洩れにされていた売掛金やらも。
向こうの身勝手に非があると百も承知の上で、こちらがへりくだって申立てしなければなりません。

私の個人事業主専業時代がどうかといえば。
くりかえされた相手先の個人事業主からの不当な債務不履行や、催告を何度も無視され、しまいに踏み倒されてしまうことに、憤りを感じ、喧嘩別れに終わったケースもありました。

もう少し、相手を刺激しないで待っていれば。
改心して振り込まれたお金もあったのでは。あそこまで仲たがいする必要もなかったのでは。と反省することもあります。自分のちっぽけなプライドが踏みにじられようとどうでもいいではないか。しかし、下手に士業資格もとり、大学院も出てしまった私には、そんな柔軟な姿勢がおそろしく欠けていました。

どんなに自分が正しくても、法律に基づき正当な権利を主張しようとも。
最後に相手を動かすのは、あくまでも感情しだい。もの言いを誤れば、相手を追い詰め、よしんば勝ったとしても、かえって自分の評判を落とし、残った取引先にも悪影響を与えかねないのです。

これに気づいてからは。
私はあまりネット上の批判的な自称論客たちが集うような場所を興味本位でのぞくのはやめました。
ネット上で世の中の問題を洗い出し批判非難だけをしても、犬の遠吠えにすぎないからです。何かを言っただけで、糺しただけで、正義者になって自分はひとかどの人物になったかのように思いこむ。それは、まさに匹夫の勇ではないでしょうか。

私自身にしても、過去に拙ブログで、いじめ問題やら労働問題やらの記事を何度も書き連ねたことがあります。
けれども、そうした記事を書くことで、いじめがなくなり、過労死や長時間労働が是正されたかといえば。そんなことはない。当事者意識としての問題であって、いくらネット上でええかっこしいの文言を吐こうが、現場でいじめやパワハラを阻止することができなかったり、労働環境を整えるように意識改革をしない限りは、なにも現実は変わらないのです。

自分が吐いた「こうあるべき」理想と、「そうにしかならない」現実との板挟みで、苦しむことになります。
自分の描いた理想が、他者にとってのそれとは限らないのだから。そして、誰かと共生していくことは、自分の融通やわがままをのみこんで折り合いをつけていくことでもあります。利他的になりすぎてもいけないし、自己利益の拡大ばかりにつとめてもならない。そのバランスを調整する能力を磨くのが、労働の場なのでしょう。

自分が正しくても、対人関係を優先させねばならないことは、社会を生きていくうえで多いものです。
それが、40歳を過ぎて、オトナになりきれなかった私が学んだ真理の一つです。ずいぶんと長い夏休み気分を味わっていたものだと、この年になってしみじみ思うのです。


(2022/08/27)











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