陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

乱れた聖火と民族の祭典

2008-05-06 | 芸術・文化・科学・歴史


錆ついたようなラッパ音を背負って、裸体の男女が肉体美を惜しげもなく披露している。モノトーンフィルムで鍛えられた彼らのからだは、ブロンズ彫刻のもつなめらかな肉の輝きを発していた。ひとりの男が円盤を捧げ持ち、折り畳みナイフのようにしなやかに身を下ろしながら、空へ向かい腕をストロークする様は、見事であった。それは明らかに、あの有名ミュロンの彫像「円盤投げ」を思わせた。

レニ・リーフェンシュタールのベルリンオリンピック記録映画『オリンピア』の冒頭シーン。これを観たのは、学生時代で他大学の映像学の夏期講習の聴講をしたときのことだった。記憶が古くなったので細部の印象をあざやかに掘りおこせないのがもどかしいのだが、とにかく初っ端から、延々と十数分もあらわな姿の男女が舞踊していた。ボディビルダーのナルシシズムな肉体誇示のようにひたすら退屈で、ひとつの彫像にイメージが重なるまでは、その演出意図に気づかない。眠気すらもよおしてぞんざいに眺めていた長い時間を、最後になってひっくりかえされたような悔しさがあった。いつでもあとで読み返せる、保存できるという、ゆるんだ緊張感で映像に接することの多くなった私は、いつもこの徹を踏んできたように思われる。
この映画は、アーリア民族が古代ギリシア・ローマの英雄と同様の美しく健全な肉体をもつ偉大な民族であるとの喧伝目的のために撮影されたものだった。リーフェンシュタール女史の斬新な映像手腕をいかんなく発揮した逸品であるが、彼女はこのナチのプロパガンダフィルムに加担したがために、その人生の大半を批難と怒号の嵐に襲われながら過ごすことになる。すぐれた芸術が、社会の無理解と偏見によって迫害された一例であったといえる。

いま物議をかもしている聖火リレーの起源が、このいわくつきのベルリン五輪にあることはよく知られている。ネットの一部の論客たちが、イギリスやフランスでの先例に刺激を得て、さかんに日本でも妨害活動をけしかけていた。数日前に別口で記事の草稿を練っていたときにもりこんだが、いろいろあって、長野での聖火リレー開催までに間に合わなかったけれど。私はこれには反対だった。
もちろん中国のチベット弾圧は看過してはならない問題であるけれども、こうした暴動で訴えることがかならずしも許されるわけではない。今回の聖火リレーはものものしい厳戒体制が敷かれ、長野市民は十年前の冬季五輪のように往来に出て走者に歓声をおくるという楽しさを失ってしまった。いくら正義の主張のためとはいえ、誰かを傷つけてもいいのだろうか?妨害活動自体が中国側の敵愾心をあおるやらせであるとの指摘もあるけれど、なぜ聖火リレーで抗議しなければいけないのだろう。まともに署名活動などしている団体もあるのに。今回の日本人逮捕者のなかには愉快犯的な動機も聞かれたのだ。
そしてもし、世界を走る祭典の火を消す行為が人権問題への正当な反論だと主張するなら、それはおそらく中国だけの問題ではない。たとえば、イギリスではIRA(アイルランド共和国軍)と、イギリス陸軍や北アイルランド警察が武力衝突をくり返してきた北アイルランド問題は、いまだ終息してはいない。中国の場合は、今回のチベット問題だけでなく、あいつぐ毒物食品の輸出や環境汚染などここ数年来の反中感情が高まっての結果もあるだろう。オリンピックが平和の祭典で、国の威信をかけるものであるには違いないだろうが、スポーツ選手たちが技を競い観客に魅せるイヴェントであることを思えば、この騒ぎはむなしく思える。サッカー世界杯日韓共同開催時の道頓堀川へのとびこみや、飲み会での一気飲みを強制するような同好会的ノリで、迷惑行為を誘発しないでほしいと思う。

日本選手は海外のボイコット者にならって、オリンピック参加をとりやめるべきだという論調も見られた。いわく、日本人スポーツマンには政治意識がいちじるしく欠落しているのだと。この意見はとうしょもっともだと思っていたのだが、この聖火リレー騒動をみるにつけ、私は逆に日本人選手は意地でも参戦してほしいという気になった。五輪を成功させたいという純粋な意志をいだいて走るランナーに、危害を加えたり、発煙筒やごみを投げこむ。そうした人間こそスポーツマンシップに劣るのではないか。スポーツマンシップはなにも運動者だけに求められるものでなく、観衆にも必要とされるべきではないか。べつに美術館やクラシック音楽のコンサートのように静謐な態度で眺めなくともよいが、歓喜に湧くあまりに度をとおりこした熱狂で揉め事に発展するのは見るにしのびない。
なにより、四年に一度の晴れ舞台のために調整を重ね、国内予選を勝ち抜いてみごと代表権を獲得した選手たちの努力を、政治的理由で無残ににぎりつぶしてよいものだろうか。芸術はアイロニーをふくんだ表現によって、政治批判をもくろむ。だが、スポーツは違う。強靭な肉体の技に民族の優劣はない。米国の黒人差別はまだしも根強いが、合衆国の陸上競技のメダリストのほとんどは、ニグロによって占められている。これとおなじように、もし中国に抗議するなら、先進国選手たちは、こぞって正々堂々と競技によって果たし合いをし、戦うべきではないのか。オリンピックのメダル獲得は、たいがい開催地に有利とされる。食品衛生問題など、不安要素はあって、とくに日本人選手の心理的負荷は重いものと察せられる。だからこそ、そうした困難をこえての勝利には賞賛がおくられるべきであろうし、負けたとしても戦い抜いたことにエールは送られてもよいだろう。
もし、開催にあたって中国側が自国のメダル数確保のために姑息な手段にでたのならば、各国メディアはその非道ぶりを報道すべきであろう。(ただしどれだけ海外取材陣をシャットアウトするのかは、わからないが…。)それによって、国際的な立ち位置はかわってくるはずだ。
なお、海外在住の中国人が数多く、Facebook内の「FREE TIBET」という抗議サークルに実名で参加しているらしい。すなわち、日本政府の親中感情が日本国民の総意でないのと同様に、中国政府の民族浄化が中国人の民意をかならずしも反映したとはいえないということだ。

しかし、いまをさかのぼること七年前、〇一年のIOC総会での投票時、いったい誰がこのような混乱を予想しえたであろう。世界一の人口を誇り、いちじるしい経済の躍進をとげたアジアの大国に寄せる期待は大きかったはずだ。だが、そのときからチベット問題は既存していたし、それを鑑みないで中国をホスト国に選んだIOCの手落ちともいえる。そしておそらくは、この開催に世界経済の威信もかけているがために、中国の非人道行為をたしなめて開催を中止する措置すらもできないという考えなのだろう。中国と同時に〇八年開催地に名乗りをあげて落された大阪が、いまや財政再建団体転落に近い、財政の逼迫をかかえていることは皮肉だといえる。じっさい、満足な設備もととのえていないのに、誘致をしようとしていたということ。もし招聘に成功していたら、企業の参賀がふえ、国の補助金をもらえただろうか?杞憂かもしれないが、中国のお粗末な宿泊設備の話を聞くにつけ、その国の経済発展の実態は、出版社がベストセラーの発行部数や書店ランキングをいつわるような、数字をいじった不正操作ではなかったかとも思われてきさえする。チベット難民のみならず、山間部ではいまでも貧しい生活を強いられているのかもしれない。一国の豊かさとは、限られた者の指数でしかない。

リーフェンシュタール映画のように、政治を悪利用して、純粋な競技者の夢のともしびを消さないでほしいものだ。今回のトラブルをふまえ、次回のオリンピックは世界的規模での聖火リレーを中止する方向であるという。残念な話ではあるが、理由の如何を問わず、神聖な儀式の代走者に攻撃するという愚行がつづく限り致し方ないのかもしれない。だが、たとえこの儀式がなくなったとしても、人びとの心に残る場面が北京五輪でみられたならば、競技人の精神はかわることなく伝播し繋がれていくものだろう。友情のメダルのような逸話(註)を、八のみっつ並ぶ日にはじまる民族の祭典に期待する。


(註)ベルリンオリンピック男子棒高跳び決勝で、二位と三位を争った日本の選手ふたり(大江季雄選手と西田修平選手)が決着がつかず、銀と銅のメダルを半分こにしてつないだエピソード。詳しくは「たむたむ(多夢太夢)」を参照。


(〇八年四月下旬 覚え書き)



【追記】
長野の聖火リレー騒動とは対照的に、台湾、北朝鮮では沿道につのった国民の歓迎的なムードで走者はぶじ完走できたようだ。
ところで、この記事草稿を書いたのちに、中国政府が北京五輪の選手団の食糧持ち込み禁止を発表したとのこと。さすがにこれには閉口してしまった。五輪がまともに開催できるのか気がかりですね、ほんと。



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