渡辺和子さんのベストセラーエッセイ『置かれた場所で咲きなさい』の、カバー表紙をめくったところにはこんな文面があります。現実が変わらないなら、悩みに対する心の持ちようを変えてみる。
「いい出会いにするためには、自分が苦労して出会いを育てなければならない」
最近、親しくなったひととメールのやり取りをしていて、ふと、転職についての話題になりました。
当時、お互いに転職活動をしていて、励ましあっていたのです。その相手が言うには、自分は優れた人と仕事をしたい、バカは相手にしたくない、終身雇用なんて崩れているのに、会社に奉仕するなんてふざけている、仕事が楽しくなければやめる、というお話でした。
私はその言葉がなんだか重くて、相手には悪いのですが消してしまいました。
自分の過去の暗い感情を覗かれたような気がしたからです。その相手からすると、私の方が学歴は高いし、収入も多いのです。でも、相手からしたら、私は後輩扱いでした。
私も転職の多い人間です。
どの職場も、入社したときは、面接でお言葉がけいただいた方の期待を裏切らなうようにとの初心がありました。必死に業務を覚えるためにノートをとり、通勤時間にも、昼休みにも覚え、分からないことは質問して、成長したいと願っていました。
しかし、なぜか、いつも仕事慣れしてくると疎まれてしまうことが多いのです。
私はその理由がわかりませんでした。他の人よりも朝早く出勤しサービス残業もやり、雑用も買って出ます。備品は会社のモノを使わず、自前で用意。けっして、他人の悪口の噂話があっても、うかつに乗らないようにしました。それでも、なぜか嫌われたり、浮いてしまったりする。居心地が悪くなります。しだいに体調不良をきたし、吐き気や嘔吐に見舞われる。こうして転職を余儀なくされたことがありました。
仕事を辞めたくない一念で相談したところ、あるキャリアコンサルタント氏に愚痴をノートに書き綴る作業をすすめられました。そして、私はその仕事を続けるメリットとデメリットを書き連ね、どこまで自分が我慢できるかを試してみることにしました。
私がしばしばこぼしていた愚痴が、職場環境が悪い、同僚や上司が愚か、ということでした。
朝礼での無駄な訓戒や発表。意味のない備品の購入、マニュアルの不整備、OJTの機会のなさ。制服の着づらさ、休憩時間がとれない、電話の応答が不愉快。礼儀作法がなっていないしゃべり方、田舎くさい服装。どれも対外的なものばかり。しまいの結論が、周囲の人間はすべて無駄なことをしているという。
なぜ、周囲が愚か者に見えるのでしょうか。
それは、自分がその周囲に受け入れられていないからです。いや、仲良くなったとしても、私はどこかひとの粗探しをするいやらしさがあります。根本からひとを信用せずに、愛してもいない。これは家族でもそうなのかもしれません。本質的には孤独が好きで、だけど、どこか寂しがりや。他人の悪い部分がみえるので、真意ではその人を避けている。それが相手には伝わってしまうのでしょう。そこが私の弱点だったのです。
いつも誰かに優れている、素晴らしいと思われたい、そんな欺瞞があります。
ちょうどSNSでいいねの数を競うように、承認欲求が高い。
私は士業資格があるのだ、大学院を出ているのだ、これこれの権力者と知り合いなのだ──どれも他人からしたら、うんざりするものばかりです。
優れた人と仕事をしたいという奢り、それは自分の自信のなさの裏返しではないでしょうか。
優秀な人はそれだけのネットワークを築いているので、会う人を限定してしまいます。一時的に知遇を得ても、向こうは何とも思ってはいません。
ですから、もし自分が優れているのに恵まれない病に陥ったら、いちど自分を見つめなおすのがいいのかもしれません。
置かれた場所で咲きなさいはほんとうです。自分の周囲の環境の悪さばかりに目を向けて不幸を嘆くよりも、自分の至らない点を反省して改善につなげよう。──私はその言葉を自分に向けてつぶやきましたが、肝心のその相手に語らいかけることができませんでした。私の方が年下ですし、角がたつと思ったからです。
自分が憧れられる存在になるということは、自分よりも若く、かつ劣った存在と仕事をすることということです。他人に対する敬意を抱かねば、自分もそれをお返しにもらうことができません。
今から思えば、私は子どもの頃から反抗心の塊でした。
親にも教師にも反発し、組織での立ち居振る舞いを20代までに学ばず、独り立ちするのに苦労しました。
自分がちいさな、ちいさな水たまりの世界で優れていると思ってきたら。
いちど、新しいことに挑戦して、あえて挫折してみるのもいいかもしれません。中年になって失敗が怖くなったので、過去の成功にしがみつくのでしょう。過去のがんばりは自分の誇りですし、自分の苦境を支えてくれます。けれども、いつまでも過去の大学の中でのエリートの自分をどこかで捨てないと、自分はロクな生き方ができないのでは、と考えてしまうのです。
会う人みなすべて自分の師匠という言葉があります。
こちらからして欠点がある人でも、その悪い面は自分が踏まずに済んだ轍とすることもできます。他人の愚かなミスは、自分の代わりに行ってくれたのだ、私はそこから秘かに反省して、次にいかさねばならないのです。
いま、私は他人事のように書きましたが。
皆さんが、私のつたないブログの日記帳をお読みになって思ったこととて、同じです。
失敗は責めず、恥ずかしがらず、共有して、負から有を生む財産として活かすべきなのです。