番場の地蔵さん
(1)前田利家が今から397年前の天正10年、石動山の衆徒と一戦を交えた時、一山は戦塵の巷と化し、天平寺300余坊は鳥有に帰したが、それから5年後の天正15年、前田利長(利家の長男、二代目藩主)が、天平寺の再興に携わった頃、役僧の一人が、赤浦へも勧進に巡錫された。
そして番場の橋に差しかかった時、向こうの方から一人の侍と出合い、お互いに先を争い一歩も譲ろうとせず、其 で喧嘩となり、遂に役僧は負けて侍に斬り殺され、果かない最後を遂げてしまった。
在所の人は哀に思い、亡骸を番場の中洲に埋め、其 に地蔵を祀り、供養をしたとの傅説である。(傅承)
附記
錫杖を持っておられる大きい方の地蔵さん
◎傅説に寄れば、役僧の亡骸の上に一本の杉を植えたそうで、それが今も尚枯れずに傾いたまま生き続けているとの事である
(2)明治元年(112年前)神佛混淆は禁ぜられ、神社所属の別当僧は復職を命じられたので、石動山天平寺全山衆議し、還俗を申し合わせたが、玉演法印は、石道山復興の一念やみ難く同志と相謀り、手分けして東奔西走中、遂に病気となり、明治14年11月21日67才を以て、事成就せず、赤浦で果かない生涯を終えたとのことである。
後日村の信仰心深い人達が話し合って、亡き玉演法印供養のためにと、新しい地蔵さん一体を作り、番場の地蔵さんの側に、これをお祀りしたとのことである。
その地蔵さんを村人たちは玉演地蔵と云うようになった。(傅承)
附記
小さい方の地蔵さんである。
そして現在二体の地蔵さんが番場に祀られている。
◎玉演法印は、柳田村武藤家出身で、同家に位牌・過去帳あり
◎法印の墓に、当山(長福寺)中興大阿玉演和上