友人から教えてもらって、映画「アメイジング・ジャーニー~神の小屋より~」を観た。
レビューの評価を観るとあまり評価は高くない。
この映画は理解できる人と理解できない人がいると思う。理解できない人がダメとかそういう話では無い。
キリスト教の宗教的観点が無いとわからないとレビューにあるが、そうではない。
本質的にはこの映画の通りであると僕は思う。
日本人の考える神とキリスト教の言う三位一体の神とは違うと言うが、確かにそうみえるが、本質的には同じ視点になる。
おそらくこれがわからないところだと思う。さらに困難なのは愛する娘を誘拐され殺されたのに、それを許さなければならないという受け入れがたい感情のところだと思う。
幸せな家庭が、何の落ち度も無いのに一瞬にして地獄となる。そして残された家族の心がバラバラになりお互いの愛が失われてしまう。
どこに神が存在しているのかと疑問が生じる。神など信じられない。
しかし、神はいつもよりそい愛を降り注いでいる。神はただ愛である。
その愛(神)を、可愛い娘を殺されたお父さんは信じることが出来ない。何故殺されたのか。神は何を見ていたのか、何故救ってくれなかったのか。
何度も主人公は神にこの疑問と憤りを投げ抱かける。本当に最後の最後まで、怒りと憤りは消えない。神に問い詰める。
しかし、神はただ寄り添って愛を注いでいると穏やかな笑顔で話す。
そう神のすべては愛そのものであり、常にあなたのそばに居る。
神は人間が考える善悪などの概念を持ち合わせていない。ただ愛だけの存在。その愛は人間が考える極悪人にも注がれているのだ。
つまり、善悪とは人間が考えた概念であり、神には善悪は無いのだ。だから神は人を裁かない。
神は言う。
人を裁くのはいつも人間だと。お前達は常に物事を裁いている。人間が、その個人が考えた善悪と言う曖昧な概念によって、
そして、その行為が、その出来事が自分に都合が悪いと判断(ジャッジ)すると、それが結果を引き起こす。
嫉妬、恨み、憎悪、暴力、殺人、戦争、復讐。
神の視点から観ると、どんな人間も神の子でいとおしい。
神はいつもそばに居て愛を注いでいるだけなのだ。神を恨むの筋違いだ。
罪を創り続けているのは、神では無く、人間だと。
人は瞬間瞬間に人を裁いている。あの人はどうだとか、この人はダメだとか、あの人は気に入らないとか、あの人は悪い人だとか、良い人だとか勝手に自分のいい加減な都合で裁いている。
神はジャッジもしなければ裁くこともしない。ただあなたのそばに寄り添っているのです。
そして人間は人間を裁くことをやめて、お互いに許し合うことが必要だと。
そうすれば、神の言う愛の世界が訪れる。
罪は人間にある。神は愛である。
ジャッジしない。赦し合うこれが幸せに至る方法である。
しかし、あれだね。この映画を観る限り、神は愛そのものであり、ジャッジせず善悪の概念は無い。
ということは最後の審判は無いと言うことなのだね。
最後の審判があると言っているのは、恐怖により人間をコントロールしようとする人間が創り上げた物語に過ぎないんだね。
神と言う言葉に馴染みがが無かったり、抵抗がある人は神をそのまま”愛”という言葉に置き換えると理解しやすいかもしれない。
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