以下は理解できないかもしれません。ひとつの考えであり、正しい訳ではありません。以下のことについて議論をするつもりもないし、そういうものでは全くありません。
ご自分で考えてみて下さい。
有名な環境活動家の人の講演が僕の治療院の近くで行われるとのことで、行ってきました。
木〇町に高レベル放射性廃棄物の処分場が出来るのではないかという問題に宮〇県は晒されているのです。
僕の住む都城も関係があるのです。
いつもの通りに、無関心で挑みましたが、終了後は無関心を超えてしまいました。
いわゆる超無関心です。
僕はそもそもあらゆることを調べているのですが、改めてこの世界の闇深さを認識しました。
さて、このような講演に行くと、いつももやもやした状態が、しばらく残ります。
そのもやもやした状態はシュレディンガーの猫状態です。
そして無関心の僕も頭を抱えることにしばしなるのです。
それは、活動家の人がどうということではなく、一体、社会活動とは何なのか考えさせられるからです。
中には真剣にこれは問題だと何らかのアクションを取る人もいるでしょう。
もちろんこのような問題に関心がある人が集まっているので、それはあります。
僕らが住む世界の闇深さは、本当にうさぎの穴はどんだけ深いのかについて途方に暮れることになります。
そして、このような出来事に、まじめに活動している人とは一体何がしたいのかを僕は考え込みます。
善と悪の概念が成り立たないこの世界で、一体何をしたいのか。
そう考えた時に、もちろん何がやりたいのかは明確に単純に、理解できます。原発がそもそも不要だという通常の頭で考えた時に至極当たり前のことです。
しかし、現実に原発は日本にたくさん建てられ、再稼働しさらに動かそうとしているのです。
これは多くの人が望んだからです。望んでいなければ絶対にできません。洗脳されたからだといえばその通りです。でも、うすうすとおかしいなとは思っていたでしょう。
だから事実として完成しています。
しかし、世界の歴史やその他大勢の人間の思考を考えた時、この世の中が、
何故このような嘘社会になっているのかという観点に立った時に、
僕は明確にわかるのです。
それは洗脳されたとか、いろいろあるけれど、もし、洗脳され誘導された結果がこの社会であれば、それは洗脳でなく、それがこの世界です。
ですから、この原発問題に限らず、この3年間の嘘風邪をみても、第二次世界大戦にしても国民や、あるいは世界に置き換えても、間違いなくコントロールされ、物事は進んでいくのです。
それはこれが正しいとか正しくないとかいう問題を超えてそうです。
つまり、原発の問題に気づいてもそれは、新たな洗脳に過ぎないということです。
良い洗脳なら、いいじゃないかと思う人がいるかもしれません。
しかし、それが一見よく見えても、それが良いかどうかはわからないのです。
活動家は本当に凄いなと単純に思うし、社会的に気づきをもたらす存在として尊敬します。
多くの活動家や良い人はこの世界を良くしようと思って行動します。
戦いや争いを止め、平和で幸せな世の中にしたいと考えるのです。
そのこと自体は僕も本当に賛同し、共感します。
しかし、嘘社会に洗脳された人が大多数を占めているのが、この現世です。その人たちを気づかせても、ただ反転するだけで新たな洗脳が完成するだけなのです。
活動することにより、間違いなくその他大勢の洗脳された庶民との分離から闘争に至ります。
ここが最大の矛盾になります。
平和な世界を創ろうとする際に必ず分離と闘争が起こります。
そもそも平和を求めているのに、行うことが反転します。
それは確実にそうです。
結局、人間は良いとか悪いとか言いながら、行っている行動が同じになるということです。
何しろ、その争っている相手が、ストレートに権力者やその悪事を働いている人に到達せず、その間には同じ庶民を挟んでいるのです。
この矛盾から考えると、良いと思って活動する闘いに人生を捧げるのは最終的に人間界はエゴが発動するサバイバルの弱肉強食世界ではないかということです。
実際に、歴史も現世もそうなっています。ずっと繰り返しています。
この繰り返しの仕組みに気づくと、その社会運動は同じ延長線上にしかないのではないかということです。
同じことを繰り返している以上は、同じ歴史を繰り返すだけであり、そこには何の思考も存在しない機械的な営みにみえてしまいます。
おそらく僕が考えていることは、多くの人には伝わらないと思います。
もしも、この世界を良くしようと考えるのならば、社会ではなく、自分の本当に身の回り、手が届いて自分で変えられる範囲内で幸せな状態を創ることです。
そのことに社会活動も要らなければ、闘争も必要ありません。
ただ、幸せに生きていればいいのだと僕は思います。
もちろん、自分の身に降りかかれば、戦います。しかし、多くの人は身に降りかかる前に活動しようとしています。
それはその事自体が、僕はやりすぎであり、自分のコントロールの外に手を出すことに繋がり、争いに至るのです。
問題が降りかかる前に、問題に入り込み争いに巻き込まれる。
つまり、問題を創り出しているのは自分自身かもしれない事態になりかねないのです。
徹底的に自分の手が届かない範囲に介入し争わないということに多くの人々が徹すれば、きっと新しい世界が訪れるでしょう。
何しろ、歴史上これをできたことが一度たりとも存在しないからです。
だから何もしないことが最大の方法になります。
もちろん、これは大多数の人が何もしないで争わないという選択をするということです。
それが無理であれば、今までやってきたように徹底的に闘い、戦い、破壊活動に徹することです。
そのことをその活動家に尋ねてみたところ、悟ったように何の返事もありませんでした(他の人も大抵同じ反応です)
勘違いしないように。僕はそれが良いとか悪いとか言っているのではなく、どうすれば争わずに世界が良くなるのかについて述べているのです。
その為には、人類が今までと違う方法に至ることが必要だと思います。
一般的には、活動家は権力者から弾圧され、庶民からは正義の味方であったり、実際に会うと良い人なので、絶賛されます。
しかし、その絶賛の向こう側には何があるでしょうか。
絶賛するあなたの心の中には、何があるのか自らの内面に尋ねてみることも考える必要がありそうですね。
そういうことです。
ちなみに僕のエゴは、木〇町に高レベル放射性廃棄物処分場が出来るのには絶対に反対です。
(注)まだ具体的に決まったわけではありません。それに原発の闇だけに気づいても、他のことに気づかないのであれば、何も気づいていないのと同じで、仮に処分場の建設を回避できても、別の問題に突き当たり、結局のところ何も気づかないのと同じだと僕は思います。
もし、人類がその程度であれば、仕方のないことです。
僕は何が起ころうと、社会には関係なく、ぎりぎりまで幸せを感じ続け、幸せを行使します。
いや、それではいけない。吉田は何もしないのか。それでいいのか。
吉田はほっとけ、あいつは何もしない奴だ。俺たちは戦う(闘う)と皆さんは言うのでしょうか。
僕はその人にこう言います。
そうなんですね。この世界は闘い生き残るサバイバルなんだね。
厳しい世の中なんですね。
追記
僕には社会活動家とか正義や良いことを言う人と、いわゆる権力者とか支配者のような悪人が相似形を表現しているように見えてしまい、そういう人が絶賛されているのを見たときに、一挙に冷めてしまうのです。
そういうことは、何もこの現世に生み出さない単なる繰り返しの悲劇とヒーローの劇場に見えます。
僕らはそういうことのために、現世に生まれてきたわけではないと、
僕は強く確信しています。
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