以下は、6月にあった某読書会に寄せた文章です。
「峠」で忘れられないことばがあります。原作者である司馬遼太郎が文学碑に寄せた「武士の世の終焉にあたって、長岡藩ほどその最後をみごとに表現しきった集団はない。運命の負を甘受し、そのことによって歴史にむかって語りつづける道をえらんだ。」です。一方で、「最後のみごとな表現」に巻き込まれた結果、生きたかったのに死を余儀なくされたり、家を焼かれたりした人は、やはり浮かばれないという思いも禁じ得ません。同じ封建制・江戸時代の「リーダー」でありながら、「有形無形に自己を支えてくれる藩にいる市井の者たち」に「敬虔な心情を捧げたいと願った」と若松英輔が評する上杉鷹山とは対照的で、この違いを、後世の市井の人にほかならない私たちはどう受け止め、どう評価するのか考えてみたい。〈追記〉写真は百日紅で花言葉は「雄弁」「愛嬌」「不用意」「あなたを信じる」。継之助にふさわしいような。