□「そんなことはふぬけ者のすることだ」
人口1040人というレッドグラナイト。カナダと国境を接するアメリカ・ウィスコンシン州にあるこんな小さな町にも、3軒のバーがある。夕方になれば地元の男たちが集まる。お互い話すこともないのか、ビールを片手に、店の片隅に置かれたテレビに見入っている。まちにはひとりの黒人も住んでいなければ外国人もいない。全員が白人で、日曜日にはふたつの教会は家族でいっぱいになる。だが他人に対する目線は誰もが冷ややかになる。
彼らの楽しみといえば、冬は狩り、夏は釣りだという。そしてここで暮らすほとんどの人たちが愛国的で保守的で、ブッシュ支持者である。だからこそというべきか、少しの変化にもすぐに反応するし、広まるのも早い。そんな町に私は来ていた。
「誰に強要されたわけでもないし、自分も承知の上で軍に入ったのだろう。8割の若者は実際イラクに派遣されているじゃないか。ただ乗りしようなんて虫が良すぎる。そんな連中は必要ないから追い出すべきだよ」
「臆病だとは思わんが、怖いだけだろう。任務を遂行するために訓練だって受けているわけだし、責任は果たさんとね」
イラク戦争に背を向ける兵士が増えていることについてどう思うか、という私の質問に、バーの男たちの答である。国防総省が公表している数字によれば、アフガニスタンとイラクを舞台に〈テロとの戦争〉が始まった01年度(01年10月~02年9月)から04年度(~05年9月)までの4年間に、基地を脱走した陸軍兵士は1万5314人。また基地に止まって、良心的兵役拒否という兵士に与えられた唯一の権利を使って除隊を申し出るケースも増えている。
「ベトナムのときは徴兵だったんだ、強制だったんだよ。だから脱走も仕方なかった。志願兵制のいまとは事情が違うよ」
「そんなことはふぬけ者のすることだ。奨学金だってもらっているんだろう」
男たちが募らせる苛立ちは、自ら志願して軍隊に入ったのに、戦争がイヤだから抜け出そうというのは身勝手だ、というところにある。実はこのレッドグラナイトでも、この町で生まれ育った女性兵士が、良心的兵役拒否を理由にアフガニスタンへの出兵命令を拒んで、軍と対決していた。
兵士の名前はキャサリン・ジャシンスキーさん。22歳。戦場にはまだ行ったこともない陸軍上等兵だった。
ジャシンスキーさんが故郷を出たのは、「9・11テロ事件」が起きた年の9月。レッドグラナイトから見れば、最も遠い南にあるテキサス大学に合格したからだった。
「事件が私の将来にどれだけ深刻な影響を与えるかなど、深く考えなかったんです。そのころの私は、アメリカがいったい何をしているのかを伝えるニュースさえ、全く気にもしていませんでした」
大学のあるテキサス州の州都オースチンでのインタビューで、ジャシンスキーさんの話を聞きながら、そんなアメリカ人もいるのか、とちょっと私は驚いた。しかし入学したばかりのジャシンスキーさんにとって、より直接的で深刻な問題だったのは、その後の学費や生活費の工面だったのだ。両親に頼るわけにもいかず、ジャシンスキーさんは入学当初から陸軍に入ることを考えていた。軍に入れば奨学金が約束されているからだ。
「なるべく多くのことを経験し、人生を精一杯生きるためにも一度は軍隊に入るのもいいかな、と思ったんです。それに戦地に派遣されても任務を全うできると思いました。人生にはそんなときもあるだろう、という程度にしか考えていなかったんです」
入学から半年経った02年4月、ジャシンスキーさんが陸軍と結んだ入隊契約書。
『アメリカ軍隊の一員として、命令があれば戦闘や危険な任務にも就かなければならない。大統領による戦争終結宣言が出されない限り、兵役期間が終わっても6ヶ月間、兵役は続行される。軍から除隊されない限り兵役期間の基本は8年・・・』
アメリカでは入隊を条件に軍が奨学金を出すことはよくあることで、苦学生たちはそれで救われる。とはいえ、いったん契約をすれば、8年間は理由もなく自分から辞めることは不可能であることも書面から読み取れる。ジャシンスキーさんがサインした8年間の中身は、初めの2年間はテキサス州兵、残り6年間は陸軍の正規兵というものだった。
大学での授業や月2回の州兵訓練はともかくとして、実家を離れてひとり暮らしを始めて見ると、答えの見つからない問題を考えるようになったり、いろいろなことに疑問を持つようになった、とジャシンスキーさんはいう。そもそも自分とは何者なのか? いったい〈テロとの戦争〉とはどういうものなのか? 祖国アメリカとはどういう国なのか?・・・。
愛国的で保守的で、変化も望まない故郷のレッドグラナイトと比べれば、オースチンは刺激に満ちた街だった。
「戦争に反対する人たちや、戦争反対の意見を聞いたのは生まれて初めてでした」
仲間同士で議論したり、イラク帰還兵からの話を聞いたり、ベトナム戦争時のドキュメントや哲学者バートランド・ラッセルのエッセイを読みながら、兵士となった自分が関わる戦争とは何かを必至に考えた、ともいう。そして戦争のもうひとつの側面を知ったのは、オーストラリアを旅行したときだった。
「ハリバートンというアメリカの企業で働く2人の社員と会いました。彼らはアフガニスタンとイラクの戦争で、どれくらいのお金を稼いだかを話したんです。とても驚きでした。戦争で利益を得ている企業があり、アメリカ兵がそうした企業を守っているのかと思うと、戦争というものがまた違って見えたんです」
2年間の州兵契約が切れる3ヶ月前の04年1月の出来事だった。そして4月、ジャシンスキーさんにジョージア州コロンバスにある、フォート・ベニングへの移動が命じられた。これから6年間、契約書に決められた陸軍正規兵としての任務の始まりだった。
「戦地へ派遣されるかもしれないとあせりました。自分が心から正しいと信じたことに対して行動しなければ、結局は他人が正しいと思っている制度に流されたまま生きていくことになるのではないか、と思ったんです」
移動先に指定されたフォート・ベニングは「歩兵部隊のふるさと」と呼ばれ、アフガニスタンやイラクへの出兵が決まった兵士たちが最後に訓練を受ける基地だった。任務に就いて2ヶ月後、ジャシンスキーさんは良心的兵役拒否を理由に除隊を決意し、基地司令官宛の申請書にこう綴った。
『2年間で私の道徳的・倫理的信条は変わりました。世の中で最も尊いものは命です。この地球を可能な限り暮らしやすい場所にすることが私の義務です。それは暴力や死によって得られるとは思いません。暴力は暴力を生むだけです。私にできることは、戦争という手段により暴力を実証してしまう組織との関係を断ち切ることです』
ファルージャを始めイラクでは開戦以来最大となる民間人2600人、アメリカ兵274人の犠牲者を出した戦闘(04年4月~6月)が始まっていた。〈テロとの戦争〉は混乱を深めるばかりで、出口はますます見えにくくなっていたときの決心だった。(以下続く)
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