放送は4月1日(土)夜10時10分からのNHK『BSドキュメンタリー』。
タイトルは「出兵を拒否した者たち~アメリカ軍兵士・3人のケース~」。
イラク戦争から3年経ったいま、アメリカ軍内で何が起きているのか、それを取材したドキュメンタリーです。ストーリーを含め、詳細は来週28日にUPします。
さて、続きの『検証・韓国反米感情の深層』の第8回目を以下に掲載します。前回までは、ふたりの女子中学生が轢殺された事件が基地に依存して暮らす人々に与えた衝撃をお伝えした。今日は、基地のまちはアメリカ軍とどのように「共存」してきたのか、その実態を報告する。
■本名では生きられなかった女性たち
歓楽街から少し離れた小高い丘の一角に無縁墓地がある。斜面の一部を市が買い取り墓地にしたのだが、そこで私は呆然とするしかなかった。
韓国独特の土まんじゅうの形をした墓の脇に立っていたのは無数の木札だった。木札に記されていたものは、名前ではなく、全て数字だった。ひと桁の数字から1200番台までの数字を追うことができた。
「この街で必要だったものは本名ではなく仮名だけでしたからね」
喧嘩、失恋、刃傷沙汰、結婚、離婚、踏み倒し、殺人・・・・、と日々基地の街で起きる様々な問題に直面した女性たちの相談役となってきた福祉施設「ダビデの家」の田禹燮牧師は、無縁墓地を歩きながら溜息をついた。
「本名では生きられなかった女性たちでしたから、番号で表すしかなかったんです」
牧師はそういい、遺体の引き取りを申し出た家族もいたことはいたが、多くは引き取りを断った、といった。
儒教の教えがいまだ残る韓国では、ことに女性が異国の人間を相手にするような商売は忌み嫌われる。遺体を持ち帰っても、近所の人たちからなぜ、どうして、と詮索されるならば無縁仏として葬ってくれ、という依頼が多かった、という。
「私も数十人をここに埋葬しました。自分を悲観して自殺した女性、夢破れて死んだ女性、事故死した女性、病死した女性、老いて死んだ女性・・・・。いずれもがこの基地の街でしか生きられなかった人たちでした」
殺された女性もいる。
事件が起きたのは1992年10月。加害者はアメリカ陸軍第2師団所属の2等兵、マークリー・ケネスという名前の20歳の兵士だった。被害者はユン・クミという26歳の女性で、アメリカ兵専用のクラブ従業員だった。
発見された遺体の下半身にはビールやコーラの瓶、傘の柄などが差し込まれていた。体はあざと打撲傷だらけで、全身に白い合成洗剤の粉がまかれ、口には折ったマッチ棒が噛ませてあった。直接の死因はコーラ瓶で殴られたことによる顔面陥没と出血多量だった。
コーラ瓶に付着していた指紋からケネス容疑者が逮捕されたのは2日後。だが、SOFA(韓米地位協定)の規定によって身柄は基地内に置かれたまま韓国側で裁判が行われ、1審で無期懲役、控訴審では懲役15年に減刑。被告側はさらに控訴したが、1年半後、ソウル大法院(最高裁)は控訴棄却を言い渡し、刑が確定した。
この間、韓国では事件の非道さに対する怒りが全国的なデモとなって荒れ、ホワイト・ハウスへは10万通を超える抗議の手紙が送られた、という。判決後、初めてケネス被告の身柄が韓国側に渡された。彼はいまも韓国・天安刑務所に服役中である。
田禹燮牧師が回想する。
「本当にひどい殺され方でしたからね・・・。しかし残念ながらアメリカ軍駐留50年の中でもこの事件だけです、韓国側の主張が認められ、曲がりなりにも韓国側の裁判で解決できた事件は・・・。その背景には圧倒的な国民の世論があったからです」
韓国側はケネス容疑者を殺人罪で起訴し、そして有罪判決を勝ち取った。アメリカ軍側は公務時間外の午後4時半の犯行であったにもかかわらず、公務中だったと主張し、無罪を申し立てた、という。もし公務中と認められれば、有罪でも無罪になる。それが地位協定に書かれていることである。(第9回に続く)
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