《以下引用》
「北九州市は24日、生活保護相談に訪れながら受給に至らなかったり、保護を打ち切った人の生活状況を日常的に確認し、事情によっては民生委員に見守りを依頼したり、保護申請を助言する方針を明らかにした。(略)小村洋一・市保健福祉局長は「孤独死をする方をこれ以上出すわけにはいかない。いつ急迫状態に陥るか分からず、定期的な一斉点検よりも日常的な見守りが大切と考えている」と語った」(8月25日『毎日新聞』北九州版)《引用ここまで》
生活保護の申請・認定をめぐっては、北九州市が暴力団に脅されたり、偽善申請がまかり通ったりといった事情があったとしても、市の対応はやはり間違っていた、といわざるを得ない。
確かに地方財政の危機は深刻だ。であればこそ、地方はどう収入の道を拓き、そしてできうる限りの歳出制限をしながらも、そこから自立の道を探っていくかは首長に課せられた仕事だ。その首長が、憲法遵守を持ち出すまでもなく、市民ひとりひとりの健康で文化的な最低限の生活保障に鈍感であったことは、首長としての資質を問われても仕方ない。
投票によって任せられた地域をどう経営していくかは、首長の手腕にかかっている。市場経済、競争といった経済原理で突き進んでいくのか、それとも、その地域にある資材をできうる限り生かしながら行政経営をしていくのか、この違いは大きい。
ひと言でいえば、ひとりひとりの暮らしに目を向けようとする姿勢があるかどうかの違いである。弱者は仕方ないとばかりに、北九州市がやってきたようなやり方はこれからは成り立たないのではないか。
もっと引いた言い方をすれば、ブッシュ流アメリカ経営理論を出発点にした「小泉改革」路線の見直しが始まるに違いない。
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