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■「黄長はかく語りき」 第三回

 写真は、南北朝鮮を結ぶDMZ(非武装地帯)内にある京義線の第二通問。(『世界日報』から無断転載)

 韓国のメディアが伝えた以下のニュースには、多少解説を要する。京義線(ソウル―新義州間の鉄道路線)東海線(釜山―安辺間の鉄道路線)は共に2000年の金大中・金正日首脳会談で確認された南北を繋ぐ鉄道連結事業のことである。この6月にも完成させ、金大中前大統領の再訪朝には、この京義線を使おう、という話もある。そういうことを念頭に置いて読むとわかりやすい。

《以下引用》
 「北朝鮮は19日、京義線・東海線の鉄道試運転を25日に控え、北朝鮮側運行区間の事前点検を行った。開城工業団地を往来する消息筋が、北朝鮮側関係者らが京義線連結区間で線路をチェックしている様子を目撃したと20日、明らかにした。政府当局も、こうした北朝鮮側の事前準備の動きを確認しているという」(5月20日韓国『聯合通信』)《引用ここまで》

 南北の緊張緩和そのものはいい。韓国が必死になって北朝鮮に融和的な政策を施せば施すほど、本来ならば北朝鮮も「素顔」を見せつつそれに答えていく、というのが筋だが、核問題にしてもミサイル問題にしても、必ずしもそうではないところに不安が宿る。

 この鉄道連結構想についても、金泳三元大統領は「北朝鮮の思うツボだ。万が一のときには北朝鮮の人民軍がこれに乗って攻めてくるぞ」とこき下ろす。北朝鮮の思惑は、果たしてそうか。以下、『黄長はかく語りき』の3回目。

□太陽政策の「暗部」
 世界をあっといわせた南北朝鮮首脳による会談(1000年6月)を実現した金大中大統領だったが、なぜ前大統領にさえ黄長氏を会わせまいとしたのだろうか。
 「それは、金大中が北を意識してね、黄さんが金正日とかその体制に対して攻撃するでしょう、それがいやなんですよ。黄さんが真実をいうのがね、あれが嫌いですよ。もっと厳しい言葉でいうとね、絶対(黄長氏に会うことは)許さないと、こういう考えですよ」

 2人の金氏は、朴正熙独裁政権下では反独裁・民主化の先頭に立った政治的同志だったが、その後の路線争いをきっかけに袂を分かってから、金泳三氏の金大中氏に対する口調は常に厳しい。
 「黄さんはね、本当は南に来て、韓国の人たちに(北の)真実はこうだと、国はこうだと、そういう話をしたくてね。(韓国に)来たのに、こっちでの自由があまりなかったでしょう、情報部がこれをしたら駄目だ、この人に会ったら駄目だと、そういいながらずっと監禁みたいな生活をさせたでしょう」

 黄長氏が著わした『金正日への宣戦布告』を翻訳した萩原遼氏の「訳者あとがき」によれば、2006年6月の南北首脳会談のあと、国家情報院(韓国の情報機関。前の国家安全企画部)は「現政府の対北朝鮮政策を厳しく批判した」として、黄長氏に対して次の5項目の禁止措置を通知したという。

 ①政治家、マスコミ人との面会禁止 ②外部での講演中止 ③本の出版禁止 ④脱北者同志会の会報『民族統一』の出版禁止 ⑤民間レベルの対北朝鮮民主化の活動への参加禁止。

 もうひとつつけ加えれば、国家情報院によるこの5項目の禁止措置(2000年11月16日)が出された直後の11月21日、黄長氏は同時に亡命した金徳弘氏とともに、次のような抗議声明を発表している。ちょっと長いが引用しておきたい。

 〈私たちの立場は祖国統一のために一命を捧げるためである。しかし民族統一に対する私たちの立場は様々な事情により歪曲されており、少なくない人々に誤解を受けている。
・・・・このような事態を収拾するために、2000年6月に「南北首脳会談と関連したいくつかの問題に対して」という題目で脱北同志会会誌に発表した。

・・・・国家情報院側は11月16日に私たちを呼びつけ、この文章は現政権の対北朝鮮政策をより強く批判したといい、私たちを厳しく非難、活動を制限する措置を一層強化した。
・・・・これに対して私たちは11月17日、国家情報院の林東源院長に嘆願書を提出した。そのなかで、会誌に発表した文章は脱北同志会の構成員に限定されたものであり、現政権を批判したという評価は不当であることを指摘して、制限措置を取り消してもらわないと、私たち自らが、自分たちの行動の方向を決定せざるを得ないことを明らかにした。

・・・・私たちは今後も現政権の北朝鮮政策に口出ししないものであり、政治闘争に巻き込まれない立場を固守する。しかし民間次元で行われる民主主義的運動には、自らの決心で参加しようと考える。言論の自由は民主主義の生命であるからである〉

 金泳三元大統領私邸の廊下の両壁には、橋本龍太郎元首相に始まり、クリントン、江沢民、ゴルバチョフ、ラモスといった各国首脳らとにこやかに並んで撮った記念写真が飾られている。そしてそれらの写真から少し離れた居間中央の壁には毛筆で書かれた4文字漢字が額に飾られていた。
 
 独裁を恣にした、といわれた朴正熙大統領の執権時代(1961年~1979年)、反独裁運動に奔り、1980年に起きた光州事件(注⑦)では自宅軟禁を強いられたときに書いたものだという。

 克世拓道。世の中に打ち克って道を拓く。

 だから韓国に亡命をした黄長氏が、実際には情報部の視線のなかに常に捕らえられながら不自由を囲っている悔しさはよく理解できる、と金泳三元大統領はいう。

 「命を賭けてこっちに来たでしょう、自由を探してね。韓国にね。あの人の家族は全部死にましたよ、奥さんは自殺してしまったし、あの人が亡命をしたことがわかってね。また娘は連れられていく途中に車から飛び降りて死にました。それに息子は収容所で死にました。誰もいないんですよ、自分ひとりですよ。それで私にはなにもないと、失うものはなにもないと、こういうんですよ」

 黄長氏の信念の凄み、というものを感じさせられる元大統領の言葉だった。(以下第4回に続く)

(注⑦)光州事件・・・1980年5月に全羅南道の光州市で起きた反政府運動が武力弾圧された事件。軍の発砲などによって191人の死者が出た。きっかけは前年10月の朴正煕大統領暗殺事件。このとき全斗煥将軍が粛軍クーデタを起こして非常戒厳令を宣布、金大中氏には内乱陰謀罪で死刑判決(1982年に刑の執行停止)が下され、金泳三氏は自宅軟禁とされた。

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