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NO.7 わたしの難聴ヒストリー③ (web制作の仕事 フリーランス ゆうさんの場合)

2024年02月22日 | 記事

ゆうさん web制作(フリーランス) 30歳 幼児期55dB   その後95dB 補聴器装用

 ゆうさんが幼児期に療育施設に通うようになったのは、3歳児クラスからだった。その頃、中等度難聴だと発見がこのくらいの時期になることは少なくなかった。同齢にわんぱくな男の子がたくさんいて、ゆうさんもやんちゃな男の子だった。賑やかなグループだったと記憶している。

 大分時が経ってから、ひょんなことから、私の職場の看護師さんが、「私の甥が幼児期にお世話になりました。」と話しかけてくれたのがきっかけで、本人とオンライン上(zoom)ではあるが再会することになった。30歳でのインタビューが実現した。

 聴力が幼児期の時より随分と低下しているとのことだったので、初めにコミュニケーション方法についてたずねると、「今は、ろうの友達と話す時は、ばりばり手話で会話している。しかし口話もできる。相手によって使い分けている。」ということだった。

 Zoomで1対1の手話まじりの口話での会話はほぼ問題なかったが、随所で手話が役に立った。ただし、私の手話がつたないこともあり、特に読み取りがついていけず、細かいところでの私の聞き間違いがあった。そこで、動画に字幕をつけたあとで、本人に修正してもらった。例えば、「情報システム解析学科」を私が「総合システム解析学科」と聞き間違ったりした。「ジョウホウ」と「ソウゴウ」のように母音や口形が同じで、文脈によっても判別がつかない場合は、お互いに、その場ではそのディスコミュニケーションに気づかない。彼は「情報」と言いながらちゃんと手話でも「情報」と表現してくれていたのに、私はその手話が読み取れていなかった。後で動画に字幕をつけた時に彼の方で気づいてくれたのだった。そういう意味で、彼との正確なやりとりには、指文字や手話や文字は必要だった。

 

【 ゆうさんのストーリー 】

<幼児期>

 幼児期は両耳共に55〜60dBの中等度難聴だった。療育施設には3歳児クラスから通った。卒園の頃、つまり就学直前に聴力が落ちた。それからあまり変化はない。大学生までは両耳に補聴器を装用していたが、社会人になってからは、右は外している。今、左は95dBくらい。右は100dBは越えてると思う。右はあまり聞こえなくなって、はずした方が楽だった。

 療育施設では、やんちゃな男の子だったと自分でも思う。同年齢の男子が多かったので、一緒に楽しく遊んでいたと記憶している。負けず嫌いで、負けると泣いたという記憶がある。今も負けず嫌いだと思う。

 個別指導の担当はS先生で、聴力検査をやってもらったりした。

 保育園の記憶はあんまりない。療育施設は週に2回。月曜日と金曜日に通った。ことばというよりは、行動で示すことが多かったイメージがある。

<小学校時代>

 小学校に通うため、両親は、実家近くでことばの訓練ができるところを探した。ことばの教室のあるO小学校に入学した。それに合わせて引っ越しもした。ことばの教室でサポートをしてもらった。授業はみんなと一緒で、終わったあとで2時間くらいきこえの練習や宿題をみてもらったりした。コミュニケーションは行動で示すことが多かった。やんちゃだったと思う。席は前の方にしてもらった。隣の友達に色々と教えてもらったが、算数は得意で、友達に教えてあげたりしていた。つまり助けてもらうばかりでなく、ギブアンドテイクの関係だった。

 幼児期から公文に行っていて、算数が得意だった。いじめは一時的にはあったが、大きないじめはなかった。ことばの使い方や発音には苦労した。国語は嫌いだった。あと、空手を習っていた。空手を習うことで、落ち着いて相手の話をきいたりする力や集中力が身についたと思う。聞く力を育てることは大事だなと思っている。

<中学校時代>

 中学校に入るにあたり、はじめろう学校か地域の学校か迷った。両親は、普通の学校でもまれてほしいと願っていたが、自分はどっちでも構わなかった。負けずぎらいなこともあって、地域の学校で色々学ぶこともあるんじゃないかと思った。それで、地域の中学校に進んだ。授業はわからないところは、授業が終わってから、先生にききに行った。わからないところは納得いくまできいた。塾も行っていた。

 小学校の時の友だちがたくさん中学校にもいて、きこえのことはわかってくれた。わかりやすく話かけてくれた。中学校でいろんな友達とも付き合ったことで、健聴者との付き合い方も学べたと思っている。

<高校時代>

 高校は、他県にあるN大学附属高校(共学)に進んだ。片道2時間半、3年間通った。今から考えるとよく通ったなと思う。塾の先生からの情報があり、その高校に魅力を感じていた。教育方針がしっかりしていた。

 難聴のことは、高校の先生はわかってくれた。学習面でわからないことをきくと教えてくれた。授業はみんなと同じように受けた。黒板に書くことを見て、理解するという力を小中学校時代に身につけていたので、先生の話がよく聞こえなくても黒板の板書で理解した。

 高校は新しい環境だったが、友達とのコミュニケーションへの不安より、ワクワク感が大きかった。きこえないことを隠さないで、説明した。きこえないから、ゆっくり話してほしいと伝えて、わかってもらうようにした。そのようにして人間関係を築いていった。また、自分が言っていることが相手に伝わっているかどうかをちゃんと見るようにしていた。これは伝わったけど、これは伝わらなかった。その伝わらなかったことは言い方を変えてみてまた伝わるかをみた。複数人数の会話は難しかったけど、1対1の会話を大事にした。特にテニス部の部活の友達とは、仲良くなり、今でも時々会っている。

  高校の時は数学の成績がクラスで1番か2番だったので、そのまま推薦でN大学に入学した。「数学のできるやつ」として一目おかれる存在でもあった。

<大学時代>

 N大学文理学部 情報システム解析学科に入学。

 大学生活が学校生活の中で一番楽しかった。サークルは、テニスと手話に入った。手話サークルで初めて手話の世界やろうの世界を知って、ろうの友達と手話でコミュニケーションを取る楽しさを知った。

 1年生の時、幼児期に出会った療育施設の友達に飲み会に誘われた。ろう学校に行った友達がそこで手話で楽しそうにコミュニケーションを取っているのを見て、楽しそうでいいなと思った。自分も学ぼうと思った。それで大学の手話サークルに入り、学んだのだった。小さい時から手話というものがあることは知っていたが、あまり関心がなかった。だからと言って、子供の時から手話を学べばよかったとも特に思わない。しかし、今は手話での方が楽しいと感じる。口話は発音のせいで伝わったり伝わらなかったりするから。

<就職>

 R社の特例子会社に障害枠で入った。5年と少し勤めて、ウェブ制作の会社に変わった。そこに1年半勤めて、スキルを身につけて、ウェブ制作のフリーランスになった。

 初めの会社は、色んな業務を請け負っていた。自分は広告の仕事をしていて、ホームページを作ったりした。ホームページの仕事が楽しかったので、会社に行きながら、ホームページを作る学校にも通った。会社の仕事は、浅く広くだったが、やりたい仕事を思う存分やりたかった。自分の可能性を試したい、とことんやってみたいという気持ちがあった。そこで、初めの会社をやめて、ウェブデザインの会社に転職した。そこに1年半勤めてスキルを磨いた後、今はフリーランスになって仕事をしている。おかげさまで忙しくしている。一番うれしかったのは、レプロ東京というろう者と健聴者の混合のサッカーチームのホームページ制作の仕事を依頼されてやったことだ。聴覚障害の自分が聴覚障害者の役に立てたのは格別うれしかった。

<両親、友達>

 両親は、自分がやりたいことを好きにやらせてくれた。感謝している。フリーランスになる時も、どう思う?ときいたら、やってみればと背中を押してくれた。特に他に影響を受けた人というのはない。

 今はろうの友人も難聴の友人もいる。アイデンティティは、特にこだわりはなく、どっちでもよいと思っている。口話でも手話でも相手に合わせてコミュニケーションを取っている。

 

<あとがき 〜ゆうさんのストーリーについて〜>

 後に障害者の就職に詳しい人と話した時に、特例子会社で働いた後に、そこを退職し、フリーランスで仕事をしている人がいると話したら、大変驚かれたことがある。滅多にないことだということだった。私の勉強不足で特例子会社についてよく知らなかったのだが、そこから自立して自分の力で仕事を始めるというのは、大したことに違いない。

 彼に幼いころから数学的才能があったことは確かだろうし、それが彼の身を助けることになった面もあるだろう。高度難聴がありながら、高校時代に数学でクラスで1、2番の成績というのは、やはり彼の自信や誇りそして拠り所となったに違いない。しかし、それを武器としてポジティブに真っ直ぐに努力した力は、心の強さも感じさせる。

 コミュニケーションでは、大学で初めて手話サークルに入り、手話で会話する楽しさを知った。今では、手話の方が楽しいという。しかし、だからと言って、それまでの会話の苦労に対する恨み言は一切聞かれなかった。生来の負けず嫌いからくるものもあるかもしれないが、なんともポジティブな姿勢に心打たれる思いもする。

 後で少しだけお母さんに話をきく機会があったが、中学校の時にはイライラを示す時期もあったとか。本人からは、一切そこでの嫌な経験とかつらい気持ちだったとかはきかれなかったが、実際にはそうはいいことばかりではなかったと想像する。しかし、振り返ってみて、本人は「中学校で健聴者との付き合い方を学べた」と中学校生活もあくまでもポジティブに語った。嫌な思いをしたこともあっただろうと思うが、負けず嫌いだけでなく、何でも自分の力に変えてゆく力を感じた。そして彼を信じ、支えたご両親の力も大きかったのだろうと思う。彼のお母さんもまた、はっきりとした、クヨクヨしない性格の方だったと記憶している。そして、もちろん、いい友達、いい先生にも恵まれたのだろう。

 自分のことを誰も知らない高校生活も「ワクワクした」と語ったのについては、真っ直ぐに自分を開示し、周りの理解を得ようとする姿勢の素晴らしさを感じた。自分の言ったことがちゃんと相手に伝わっているか見届けるようにし、伝わっていないと感じたら、伝え方を変えたりしたのは、自己流のコミュニケーション上の工夫だったといえる。大学生活についても、まだ支援室もない時代だったが、自分の力で友達関係を構築して、大学生活が「一番楽しかった」というのも素晴らしいと思う。

 やりたい仕事で自分を試したかったとフリーランスの心意気を語ったが、自分の可能性を信じる力に感動さえした。今後、彼の仕事が末長く発展的に続くことを心から願っているし、活躍を楽しみにしている。

 



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