ゆりさん 作業療法士 28歳 低音域40dB程度、2kHz以上は90dBの高音急墜型難聴 補聴器装用
ゆりさんは、3歳9ヶ月で難聴診断を受け、実際に難聴児の療育施設に通い始めたのは、4歳直前だった。聴力型は高音急墜型といって、低音に残聴があるが、高音域で急にきこえなくなるような難聴であった。左耳は低音が40dB程度あるが2kHzからは一気に90dBに下がった。右耳は左より全体に悪く、高音域は、ほとんど聞こえなかった。音(特に低音域)にはよく反応するが、言葉が遅れるというわかりにくい難聴である。難聴が発見されるまでことばが遅いのは発達の遅れのためと診断されていた。まだ新生児聴覚スクリーニングが普及していなかった1990年代にはありがちなことだった。
4歳のころは、比較的発音もきれいで日常会話も成立するので、問題の所在がわかりにくかったが、極端に語彙が不足していて、同年齢の友達との会話も長続きしない状態だった。しかし、外交的な明るい性格で、何よりもコミュニケーションに積極的だった。ご両親も非常に熱心で、ゆりさんのために引っ越しもして熱心に療育に通ったと記憶している。
【 ゆりさんのストーリー 】
<幼児期、小学校時代 〜少しずつきこえのことを自覚するように〜 >
療育施設に通い始めるころ、療育施設やことばの教室があるO市に引っ越しをした。その頃妹が生まれた。生まれたばかりの妹を抱え、父母も一生懸命だった。
ゆりさん本人には、それほど悲壮感はなく、小学校に上がっても、割といい加減で、補聴器をつけ忘れて学校に行ってしまったり、電池を忘れたり、補聴器をつけたままお風呂に入ってしまったりしていたとのこと。実際小学校の低学年のうちは、そこまでコミュニケーションに困ることはなかった。が、母から言われて「自分はきこえが悪いのだからがんばらなくちゃ」という思いはあった。人前に出るのもあまり厭わない方で、クラスがうるさい時には、教壇に立って、「うるさいよ〜静かにして〜」などど訴えたりもするような子だった。
3年生の時のエピソードでこんなことがあった。学校の校内放送は何を言っているかわからなかった。自分だけがそれをきこえないでいることさえ、よくわかっていなかった。しかし、一度放送で指示されたことをやってなかったことで先生に叱られた。頭ごなしに叱られて、ショックだった。多分先生も自分が放送の話は聞き取れないことは、全く理解していなかったのだと思う。(卒業する時、その先生には、「あの時は悪かったね、ごめんねー」謝られた。)
そんな経験をしながら、自分は聞き取れていないことがあるということを徐々に自覚するようになっていった。5、6年生になると、友達の会話の内容が難しくなり、ついていけなくなった。友達はテレビのドラマやお笑い番組の話をするようになったが、その頃はまだテレビに字幕もなく、自分がテレビから得られる情報は乏しかった。「友達は何の話をしているんだろう」と思いながら、その場にただいるだけというのは少ししんどかった。そういう意味で友達関係に悩んだ。
しかし、それを母に訴えると、母は、「気にしなくて大丈夫。自分が思っているほど、周りはいじめようとは思ってないんだよ。」と言ってくれた。母やことばの教室の先生はわかってくれていたことは救いだった。
自分のきこえのことは、友達にわかってもらうことは、難しかった。一人だけ、同じマンションの女の子は、一緒にいて居心地のよい友達だった。押し付けがましいお世話もなく、「一緒にいたいからいる」という感じでうれしかった。
<中学生 〜きこえたフリがいじめの原因?〜 >
中高一貫校を受験した。都内の学校で片道1時間半かけて通った。6年間という長い付き合いの方が関係が深まるのではないかと両親が考えたのだった。
しかし、中学校1年生、入学してすぐにいじめにあった。席の近くの子たちがしゃべってくれないという状態が続いた。席の遠い子たちとは仲良くなった。今考えると「きこえるフリ」をしていたことが、いじめられた原因だったかもしれない。その子たちは、先生に「知らないのに知っているふりをする」と自分のことを言いつけたという。先生から母にその話があった。
しかしゆりさんは、「自分をいじめるような友達はいらない」と考え、無理にそういう友達と仲良くなろうとは思わなかった。そういう「強さ」があったのかもしれない。
<高校時代>
高校時代に、友人に「きこえないなら、聞き返して。通じてないのは、私が嫌だ」と言われたことがあった。ゆりさんは、「空気を乱したくない」「聞き返すと嫌がられる」と、適当に理解して適当に返す習慣がついていたのかもしれない。それまでは、自分のきこえについてまわりに理解してもらおうという努力はあまりしなかったが、少しずつそういうことを友達に伝えていいんだと思うようになった。こういうことの積み重ねがあって、後に大学での卒論は「難聴者の集団コミュニティ」をテーマにし、自分の体験をまとめ、社会人になってからの行動の指針の提案を行ったのだった。
進路については、割合のんびり考えていた。母が看護師だったので、漠然と自分も医療系の仕事に就きたいと思っていた。看護師も考えたが、命にかかわる仕事だし、夜勤もあるので、迷った。高校3年生の時に作業療法士という仕事を知った。とりあえず作業療法士を目指すことにした。B大学作業療法学科に入学した。
大学1年の時に医師だった父が脳血管障害で倒れ、片麻痺になった。作業療法士を目指すことは、父の役にも立つと思った。大学の作業療法の養成課程では、自分が難聴であっても大らかに受け入れてくれたが、何か特別なサポートがあったわけではなかった。が、担当してくれた先生方は、自分に合った実習先などを一生懸命考えてくれた。
実習では、精神科での実習で苦労した。ある意味深い話までしなければならなかったので、実習場面でどのようなことが話されているかを聞き取って学ぶのが大変だった。どうしてもうまくできなかった感がある。
<就職 〜一般雇用から障害枠雇用へ〜 >
実習も通り、無事に国家試験もパスし、いよいよ都内の病院に作業療法士として就職した。新人の時は指導してくれる先輩が厳しかった。その先輩や上司に自分を理解してもらうために、大学生の時の卒論「難聴者の集団コミュニティ」を読んでもらったりした。そうすることで、難聴のある自分の環境整備を考えてもらったりした。作業療法士だからこその理解があったということも言えるかもしれない。
初めは、一般雇用で入ったが、2年目からは障害枠になった。「配慮が必要」ということを自分もまわりも認識したのだと思う。特に作業療法士のトップがよく理解を示してくれて、なんとか今もがんばっている。
初め回復期病棟にいて、その時は1対1のコミュニケーションが多くやりやすかった。しかし、今はデイサービスに関わっていて、40人の利用者をOT、PT二人でみる体制なので、コミュニケーションでは、辛い場面が増えた。家族の情報を得るために、電話も使用するが、大きめの声で言ってもらえば、わかる。どうしても聞き取れない時だけ、周りの人に代わってもらっている。
上司が理解してくれるだけでなく、自分が周りにも味方を作る努力をすることも必要だと思う。わかってもらう努力をし、分かってもらった時は、それに対して感謝するということが大切だと思っている。
<補足的あとがき>
ゆりさんのインタビューの話はここまでだが、少し補足したい。ゆりさんが社会人2年目の時に「難聴児を持つ親の会」の定期刊行物「親の会通信」に投稿した「わたしの体験談」では、次のように書かれている。
「・・・高校になると『聞き返すと嫌がられる』と段々諦めを増やしながら過ごしていました。『なんだか寂しい』漠然とした感情は、常につきまとっていたように思います。難聴だからこそ感じるストレスを家族にぶつけることも度々でしたし、反抗期も長く激しかったです。・・・・そんな中で徐々に『まあいいや』と強くなることを植え付けられ、人と関わることをやめられなかったのは、『世の中コンナモン』だからこそ『ポジティブ』に過ごせと発言の陰から伝えてくる母親、しんみり話を聞いておきながら『ふふふーん』と笑い飛ばす父親、普段冷たいのに辛い時を見計らって優しくしてくる妹の存在が大きかったです。」
ゆりさんは、このような家族が味方になってくれたことに大きく背中を押され、ポジティブに前進してきたようである。
また、次のようにも言っている。「・・自分自身の特徴(例えば難聴であること)を把握して言葉巧みに伝える能力を身につけておくと、非常に過ごしやすくなることも追加しておきます。但し、これが難解で一番答えが欲しいところでもありました。」
補聴器をしていることは、開示したとしても、それが具体的にコミュニケーションにどういう影響があるかについて、周りに説明する難しさを常に感じていたようである。ゆりさん自身も子どものころは、よく分かっておらず、なんとなく周りに合わせてしまいがちであったが、周りの友人もそれに違和感を示すことも出てきて、それにどう対処するかを考えたのが、卒業論文に結実したのだろう。
作業療法士は何らかの困り感を持っている人に対して、どのように環境整備するか、どのように支援するかを考える職業でもある。Aさんの上司が理解を示してくれたことは、さすがだと言う気がするが、ゆりさんの自分で自分の道を切り開く努力もさすがと言える。
しかし、個人の努力だけでなく、「難聴」についての理解が社会に行き届いていないのも事実で、そこがもう少し変化してほしいところだとも思われる。確かに「自分の特徴を伝える」説明力はかなり難易度は高いだろう。通常の会話のテンポだと、ふと聞き漏らした途端、テンポが噛み合わなくなる。その違和感はAさんの友人たちが感じたものなのだと思う。それで「変な子」「知ったかぶりの子」と退けるのは、あまりにも残念な無理解だ。分かってくれないような友達はいらない、分かってくれる友達を大事にしていくと強気で進むのもひとつの力だが、どうすれば分かってもらえるかも追求していきたいところである。
このインタビューが終わったところで、ゆりさんが使っていなかったデジタル補聴援助システムの使用を勧めた。これは、マイクに入った声が補聴器にストレートに入るものだが、ゆりさんは、すぐにこれを試し、購入し、そして日常のコミュニケーション場面に活用した。
特に職場でのケース会議では、以前より内容がよく聞き取れるようになり、大変効果的だったようだ。プライベートでも電車内の騒音下の会話で相手にマイクに話しかけてもらうなど、活用しているという。
デジタル補聴援助システムは、学校に通う子どもたちの間では、当たり前になってきつつあるが、このように社会人難聴者は却って、最近のテクノロジーを知らずにいることもある。音声文字化の技術もかなりのスピードで進歩している。使えるテクノロジーを使いこなしてゆくのも大切である。だから、難聴者同士のつながりを大事にし、大切な情報を広めてゆくことの重要性も改めて感じたところである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます