真の動物福祉牧場を目指して

若き日の秀祥

 「水になる」と言えばブルース-リーの名言で、「香港時代革命」でも若者たちが合言葉にしていました。

 「若き日の秀祥」も香港の若者たちの様にエグザイルする定めで、世界中を「水となって」旅します。

 その時の彼女の年齢は27歳とし、これは私が1年半かけて世界一周した年齢です。
 欧米ではこの年齢が特別な冒険の年とされ、云わば若さのピークの年です。

 また、秀祥がヒマラヤを越えてインドに亡命したのは1969年で、その時彼女は15歳としたので、世界一周するのは1981年なります。
 私はこの年に生まれたので、特に重要な出来事が多かった年に思えるのですが、それは私の思い入れのせいでしょう。

 現にそれらを直ぐには思い出せず、今の私に関係あるコトだけが思い浮かびます。
 それはこの年に、比嘉照夫教授が農薬中毒で倒れられ余命宣告を受け、それを機に微生物研究へと方向転換されたコトです。

 そんな'81年の比嘉教授の元に秀祥が訪れて、EMの開発に貢献するなんてストーリーは描けませんが、有効微生物群(カルチャー)の活用は古来より受け継がれて来ており、秀祥はチベットのカルチャーを旅先でカルチベイト(培養)して配るとします。

 もう1つ、秀祥が旅先で人々に強いインパクトを与えたのは、彼女の生まれ故郷である優樹(ユーシュー)の物語です。
 その話のキッカケとなるのは決まって秀祥が穿いている古い靴で、それはヒマラヤの峠で永別した父、孫文徳のモノです。

 15歳の時に比べれば幾らかはフィットしていても、やはりブカブカで靴下を何重にも穿いて合わせている男物の靴を見て、多くの人は秀祥に疑問を投げかけます。
 彼女はヒマラヤ越えで凍傷となり、娘を救う為に自ら犠牲になった父の形見だと説明します...

 そこから話は、なぜ命の危険を犯してまで亡命しなければならなかったかに及び、優樹が中共軍によって「地上の楽園」にされてしまったコトを話します。
 その楽園には「断種政策」によって女性しか居なくなり、中共軍の兵士たちはそこで好き勝手に振る舞い主になりました。

 しかしそれは優樹の女性にとって地獄でしかなく、多くの女性がヒマラヤを越えて亡命しました。
 秀祥は中共に占領される前の優樹が本当の楽園だったコトも話し、その「愛の国」を蘇らせる為に人生を捧げると語ります。
 
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