今回は夢二の長男・虹之助です。1907年、出会って2か月で電撃結婚し、その1年1か月後に生まれました。夢二は「レインボー」と呼んでいました。
しかし、たまきとは不仲になり、結局2年目で協議離婚。それでもまた同棲、別居を繰り返し、離婚して2年後の1911年には次男・不二彦が誕生。その後、1915年に夢二が笠井彦乃と関係した翌年に三男・草一が誕生するという壮絶な状況となり、結局、たまきは失踪、虹之助は八幡の夢二の両親が引き取り、不二彦は京都に駆け落ちした夢二の元へ送られ、そして、生まれて間もない草一は養子に出されてしまいました。
その後、1920年に彦乃が結核で早逝してお葉と同棲を始め、1924年に少年山山荘を立てた際、虹之助を呼び寄せて4人で暮らし始めましたが、その後夢二が新進女流作家山田順子(ゆきこ)と関係したためお葉は家を出てしまいました。
本作は、夢二が死去した翌年に書かれたものです。
■竹久虹之助
*『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)「父 夢二を語る」より
(注)本文は『書物展望』第四巻第十一号(1934年、書物展望社)に掲載されたものです。
書いても書いても書きつくせないだろう、父夢二を、齋藤さんに頂いた紙数へ割り込ませるので少し無理がくるかも知れませんが、よろしくご判断をお願いして稿を進めます。
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幼い時から非常に絵の好きな父は、常に姉や妹を驚かせていた。しかし祖父は(私のおじいさん)これはまた絵描きが大嫌いであった。うまくゆく訳がない。描いている父の手から筆、絵ノ具を取って捨ててしまう、取られても捨てられても、父はまた母へこっそりねだって描き初めていた。それを発見する祖父はまた取り上げる。がそれでも絵を描く事をやめなかった父は、ついに抜け道を発見した。それは姉の教室へゆくことであった。姉より先へ入り込みいきなり黒板へ向かって日頃のウップンを晴らすのだった。その頃不思議な絵を描いた。(これは今も郷里岡山の小学校にあるそうだ)今言うところのシュールリアリズムの絵とでも言うのであろうか、八本の足を持った馬の絵である。四本足の馬でも走っていれば、八本にでも十本にでも見えるじゃないか、これがその時の言い草であった。
また、着物の布(キレ)を集める事がすきだった、娘のように小さな布まで、キレイに取って置く事の好きな父は、母や姉達の着物の切れはしや、お人形の着物を丹念に集めていた。これが今ある昔の着物の収集されてある切抜帖の始まりであろう。浴衣にしろ、黄八丈にしろ其れ相当の見識と意見を持つ父としては、成程とうなずかれる。
父が幾歳(いくつ)の時か記憶にないが、家を挙げて九州へいった。まだ開けていない九州の小さな街で祖父は、醬油の醸造を商売としていたが、それは失敗して製鉄所の職工と人夫の口入を一手に引受けて盛大にやっていた。まだ父の絵は続けられていた。祖父の眼を盗んでは描いていたが到々それで満足出来なく、誰ひとり身寄りのない東京へ出た。絵の嫌いな祖父は絵を描くのなら学費も送らぬと、きっぱり誓言した、まだその頃は絵描きで立ってゆこうとは思っていなかったらしく、早稲田実業へ入って、書生をやったり、教会の留守番になったり、いろいろ苦労して学校へ通っていた。
その頃、故島村抱月氏の紹介で何か雑誌のカットを描いた。それが案外よくてそれを機に絵を描いて立つ気持ちになった。(私もはっきり記憶にないので、違っているかも知れない)それからまた、困難な道へ差掛ってきた訳で、当時の苦しかったことは私達へもよく言っていた。先生のない絵だから一層苦しかったことと想像される。
父の最も尊敬していたのは、岡田三郎助・藤島武二の二先生で、夢二の二は藤島先生の武二から取ったのだと、最近になって知った。
父は時の文展に出品したい意嚮(いこう)だったが、岡田三郎助先生に「君の絵は、展覧会などに出して君の味を無くすより、自分で開拓すべきだ、自力でやる事は苦しい事や辛いこともあるだろうが、まあ会へなど出品するのはやめた方がいい」と言われた。
それから後の父の勉強ぶりと言うものは、到底私共の想像も出来ない、まったく死に物狂いの勉強ぶりであった。今整理中のスケッチブックを見ても分るがどのノートを見ても、どれだけ熱心に描いたかが分る。ノートは大きな茶箱にぎっしり二個に入れてあるが、まだ自分で作った帖面に、紙切れに幾千枚、幾千枚と言っても決して過言でない事実である。このように努力に努力を続けて、あの所謂「夢二式」の絵が生まれた訳である。
その種類は、支那・日本古代・錦絵・平安・元禄と実に整然と描かれてある。またそのノートのあき間には無数の歌・小唄・小説の中に出る言葉・随筆など、雑誌を買って帰りの車の中ですでにもう何か描いているのである。
そのかみの
三味の師匠をたずねゆき
あの娘のことをきくもかなしや。
さだめなく鳥やゆくらむ
青山の
青のさびしさかぎりなければ
童話を作り小唄を書きした父が、絵を描きながら頭に浮かんだ文句をノートの中に書き留めるのだけ拾っても、優に二冊位いの本は出来上る。着物の柄においても一つの意見を持ったくらいである。父はドイツ、フランスで集めたキレ・図案で日本のそれらに合わせるべく、非常なる意気込みであったがそれも今のとなっては無駄骨にすぎない。しかしそれらの材料を無意味に終らせ度くない。これは息子の私の義務でもあり責任でもあると考えて居る。
父は一風変わった政策の持ち主であっただけに、多くの友人もあったが、敵も多く持っていたようだ。然し女の人には随分と、もてた。(持てたなどと言う言葉はいやだがぴったりするので使った)その父が病院にゆく前夜私達兄弟と、食後の雑談中こんなことを言った。
「女と言うものは男がマスターしていって、始めていい女と言うものが出来るのだ。それからこれは、その方ではお前達よりはずっと苦労してきた俺が、言っておくが、女房と言うものは決して替えるものではない。幾度かえてみたところで決して自分の希望通りの女なんて、あるものではない、幾人かえても結局はもとの女房が一番自分にしっくりするものだ。」と言った。父は最初の結婚に失敗して、幾人かの女房を持った。自分の好みにはまった女を探して歩いた、併し何処にもそれは無かったらしい。
常に幾人かの取り巻き女を持っていた父は、その点非常にめぐまれていたようだ。こんなことを書いていると、父はきっと苦笑いをしていることだろうが、それは事実である。他人から見ると如何にもキレイで幸福そうに見えたかも知れないが、内心は悩んでいたのに違いないと思う。
最後のノートに、「男にあいたい人もなし、女はぜったいに美しい」と書いてあった。
アメリカにいる時のノートの一節に、
「渡る世間に鬼はない」便所の中でこの言葉を思い出したのだが、こんなことを言った男は、これでさんざ苦労をなめてきた人間に違いない。
「旅をする人はみんな好い人ですわ」と言った、チロルの峠の娘の言葉とは違っている。
それからまたこんなうたもある。
カミイル花を煎じてのむ夕け
あしたの春をまつ心かも
アメリカでもドイツでもやはり、到る処の風物や言葉や父の好みの裏街や、教会のスケッチがある。また、宿屋や料理やの受取りメエヌー、マッチペーパーなどたんねんに集めてあった。
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父はまた、日影町あたりの古着屋で黄八丈など探すことが好きだった。わたしなどもよくお供をさせられた。今私が少しばかりそんな趣味があるのはそんなとこからきているのである、ひと頃は私どもは無論手伝いの女の人にまで黄八丈を着せて眼を楽しませていたものだ。それらのものも今はもう日影町から姿を消して、今あるのはただ、インチキな品物を売る店や新しい所謂バーバリーのレインコートがぶらさがっている店ばかりが、ならんでしまった。古いもののある店は殆んど姿を消して、わずかに人形町の横丁あたりにそれらしき店が二三その感じを残しているくらいである。
また父は、変に昔風なものが好きだったり、ウンと新しいものが好きであったりした。鹿鳴館のあった頃、総エナメルの靴で踊ったのも父であり、まだ、スパッツの珍らしい頃それをはいて街を歩いたのも父であった。なにしろ当時モダーンボーイであったらしい。最近でも実にハイカラのものを買ってきて、持っていた。
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終わりに私の歌を一つ高原の花のなかなる白露はしらしらきよくわびしげにちる。 ---一九三四・九・三○
(坂原富美代著「夢二を変えた女 笠井彦乃」より)
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