夢二の素顔

さまざまな人の夢二像

第6回「蕗谷虹児の夢二への恩」

2024-10-15 08:52:13 | 日記

前回に引き続き蕗谷虹児のエッセイをご紹介します。
これには虹児の半生が略記されていますが、非常に困っていたときに夢二に助けられ、夢二の庇護のもとに生きてきたと切実に書いています。
こういうところに、恋と旅の漂流生活をしていたといわれる夢二が実は多くの人に愛されていたという理由が垣間見えるような感じがします。

■蕗谷虹児
*『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)の「蕗谷虹児 先輩 竹久夢二」より
(注)本文は、蕗谷虹児が『別冊週刊読売』第三巻第一号(1976年(昭和51)(読売新聞社)に掲載されたものです。

 小学生時代から、絵が好きだったので、十五歳の時に私は、同窓の日本画の大家、尾竹竹坡(おたけちくは)先生の弟子にしてもらって、新潟から東京に出て来た。
 当時は、文展の全盛時代で、文展に入選しさえすれば、食うや食わずの無名画家でも、写真入りで新聞雑誌に書きたてられて、生活が保障されたものだったので、私も大方の画学生同様に、文展に入選したいばかりに、大作の出品が習作と懸命に取り組んでいて、博物館の鎌倉時代の仏像の写生と、絵巻物の模写に励んでいた。好きで描く浮世絵や挿絵は、厳しい絵の勉強の合間の愉しみにしていたので、夢二の挿絵集の春の巻等は、日比谷図書館で私は見ていた。
 竹坡先生は、文展に出品した「訪れ」で、文展の最高賞の金牌を授与されていたので、大変な羽振りであった。が、もう一度最高賞を撮れば、文展の審査員に昇格されるという大切な出品作を、なぜか落選させられたので、先生と、一門の弟子たちは前途の希望を失って、ちりばらばらになり、私も、父が新聞記者をしている樺太(からふと)へ落ちて行ったが、父の家には、私とうまくいかない父の後妻がいたので、私は父の家からも出て、樺太の村落から村落を、つたない絵を画いて売りながら、北へ北へと漂泊してゆき、国境から先には行けなかったから、四年間の放浪のはてに、東京へ引き返すべく、不凍港の久春内(くしゅんない)から小樽行きの船に乗ったが、大雪の小樽駅で、父の友人の、名寄(なよろ)の禅寺の和尚と村の人たちから餞別にもらった当分の間の学費を、掏摸(スリ)に掏られて、殆ど無一文の素寒貧(すかんぴん)になって東京に帰ってきた。そんな私を止めてくれた彫刻家の戸田海笛(とだかいてき)と、遊びにきていた先輩の中沢霊泉(なかざわれいぜん)が、夢二さんと仲がよかったので、二人に連れられて、本郷の菊富士ホテルにいた夢二さんのところへ行ってみたのだが、夢二さんは「樺太帰りの熊」と呼ばれて誰れにも相手にされない私に同情して、樺太で描いた私のスケッチを見てくれた上で、東京社の編集長に紹介状を書いてくれたのだった。
 当時の東京社からは、「婦人画報」と「少女画報」の他に二、三の雑誌が出ていたが、東京社は夢二さんの紹介なので、すぐ私に「少女画報」に挿絵を描かせてくれた。
 それ以来私は、夢二さんの庇護のものとで挿絵を描いたので、夢二さんが亡くなったときには、挿絵を描く張りあいを失って、何度描くのをやめようとしたかしれなかった。夢二さんは亡くなってからも、無分別な私が、道を踏み違えないように、心配してくれた、と私は思っている。
 ━━夢二さんと、お葉さんと三人で、渋谷の通りへ散歩に出たことがあった。その頃の道玄坂には、力車が行き来していたが、街燈の光りの輪には蝙蝠(コウモリ)が飛びかい、ラジオもテレビも無くて、音のない走馬燈のように、夜の渋谷の通りは静かであった。が、大きな月が舗道に映し出した私の影をステッキで指して、
「僕の若い頃を想い出すよ」と、夢二さんが言った。
 夢二さんが三十六歳で私が二十二の時であった。

(参考)記載内容当時の蕗谷虹児の履歴(wikipediaより)
1919年 (大正8年)、竹坡門下の兄弟子の戸田海笛を頼って上京。戸田海笛の紹介で日米図案社に入社、図案家としてデザインの修行をする。
1920年 (大正9年)、22歳、竹久夢二を訪ねる。夢二に雑誌『少女画報』主筆の水谷まさるを紹介され、蕗谷紅児の筆名により同誌へ挿絵掲載のデビューを果たす。吉屋信子の少女向け小説『花物語』に描いた挿絵が評判になり、10月創刊の講談社『婦人倶楽部』のカットなど挿絵画家としての仕事が増え始める。
1921年 (大正10年)、竹久夢二の許可を取り、虹児に改名。朝日新聞に連載の吉屋信子の長編小説『海の極みまで』の挿絵に大抜擢され、全国的に名を知られるようになる。『少女画報』『令女界』『少女倶楽部』などの雑誌の表紙絵や挿絵が大評判で時代の寵児となり、夢二と並び称されるようになる。

(余談))
2014年、新潟県新発田市にある蕗谷虹児記念館で夢二の原画展が開催された。同年3月1日から開催された郵政博物館開館記念企画展「蕗谷虹児展」のため、同館から貸出資料要請を受けた際、誤って蕗谷虹児に返送された夢二画の原画が見つかったのである。虹児が夢二を信奉していたからというわけではないだろうが、これも縁であろう。

蕗谷虹児記念館(新潟県新発田市)



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