今回は、「草木染」の命名者山崎 斌の文章です。
夢二の行動、しかもあまりよくない面を赤裸々に描写しています。
昭和4年の話としていますが、この頃も、夢二は相変わらず金に困っていたようですね。昭和6年に翁久允に誘われて外遊に出る際は、友人知人が個展等により相当の金を集めたようですが、出航したら実は借金返済後極貧の状態になっていたというエピソードを翁が語っています。
経済観念がないというか、浪費家というか、そういう点では明治40年に岸たまきと電撃結婚しましたが、その時からもうその性向は出ていました。2年後の離婚の大きな要因の一つとなっています。
最後の部分は、外遊から疲弊して戻った夢二の行動の一部が分かるということでとても参考になります。ちなみにこのとき山崎が草木染の展覧会を開催していた「資生堂」は、昭和5年、外遊に出る前に夢二が初めて人形展「雛によする」を開催した場所だというのも縁深いですね。
これで夢二のイメージが大きく下落するきらいもありますが、小説家山崎 斌の鋭い観察力溢れる文章によって描かれた「夢二の素顔」の一面でもあります。
*『竹久夢二』(長田幹雄編、1975.9.1)昭森社より
本文は、「特集 竹久夢二 第一集 『本の手帖』Ⅱ・1(1962.1.1)」に掲載された山崎 斌著「青肉の印 ―竹久夢二のこと―」です。
夢二を浅間温泉に誘ったのは昭和のはじめ、たしか、その四年の初夏だったとおもふ。
彼、御沈落の時代で、世田谷の画室に独居、蒼い顔で棲んでゐた。それでも、彼らしく、上州榛名山の方に産業美術研究所の創設を企劃して「山のあなた」を想望する様な瞳をしてゐた。
その日、どうして浅間に誘ったか――の事情は全く思ひ出せない。当時、私は例の草木染の復興といふ風なことで、信州と東京都の間をしきりに往復してゐた。それで、彼の寂しげな瞳を見てゐる内に、不図して動向をすすめて仕舞ったらしいのである。
「大に、行きたいネ」
新緑の庭にその眼を皺めて、さう言ったのを不思議に思ひ出す。
「向ふで、ニ三枚描かなければならないぜ、たぶん」
「書くよ。‥‥‥それに、いま銭(ゼニ)も少しほしいんだ。」
「さうか。では、‥‥‥」
といふことで、私は松本の所用の方へ行き、尚、そこに近い浅間温泉へ行き、ニ三の心当りに「夢二来」を言ひ、――ニ三日して彼をそこに迎へたのである。
なにはともあれまづ一杯といふので、彼の宿にして置いたNといふ宿で、まづ歓迎の宴を張ったのだが、夢二ははじめから浮かない顔をしてゐた。ヒドク疲れてゐるナと思ったのである。ト、彼は例の一寸歪める様にした口で、
「実は、急にカネが要る。明日、コドモが取りに来るんだ。百円、ぜひこしらへて呉れないか」と言ひ出した。
私は、「さあ、‥‥‥」と言って仕舞った。青くなったかと思ふ。
斯様なると、彼は私の身上を知らなかったことになる。銭のアマリ無いことは知ってゐたらうが、都合はつくと思ってゐたのだろう。然し当時の壱珀円也では困った。正直の所、それからの酒は不味かった。呼んで置いた妓も来たが、ソコソコに切上げたといふのが、私は金策に立向はなければならなかったから。
翌日には、たしか不二彦君だとおもふ。――が東京から着いた。待って貰って、それこそ親類七所借りで、漸く(ようやく)この御使者に帰京して貰ったやうなことだった。
さて、その後が当然厄介なことになったのである。仕方ないので、夢二の言ひ出しで、「新作画会」といふのをやることになった。半折(雅仙)一口十円で、これで当時高値の風でさへあった。
(画はうまいかも知れないが、気持がよくないといふ噂だ。そんな絵はダメだ)――この地方は東京に近いので、当時の小シップも広まってゐたらしく、借金の先々でもそんなことを言はれた。
夢二には、すでにモデルが要るといふのではなかった。頭のなかには彼一流の「女」が一杯詰まってゐた。しかし、ゼイタクには妓を傍に置きたがった。ソレに墨を磨らして描くのを好む風だった。
彼は、言って見れば((さびしがり屋の人ぎらひ))だ。で、私は朝の用事の方に出かけて仕舞ひ、昼頃から妓一人が墨すりに来てゐた。
彼は薄いシャツの胸をひろげ、宿の浴衣を肌抜きにして言ふ通りの向鉢巻(少し長めの髪の毛がバサバサ落ちかかるから)だった。…………
夕方から――私が行くと二人で一杯といふことになるのだが、「気の毒なことになったナ」といふ顔を私が見せると、彼は彼で「すまなかったネ」といふ顔をした。
それでも七八日すると、予定したニ十口が描き上がったのである。ヤレヤレであった。会場も松本城の近くの一旗亭(名も忘れたが)に決まり、地元の新聞も大きく書いて呉れたりしたが、肝心の画会の客が申し合せたやうに、サッパリ来ない。――これは後で解ったことだが、I辨護士といふ風な世話人に対しての反感もあり、彼のゴシップ禍もあり、芸者に墨を磨らせて描いたといふことまでが問題になって、急に背中を向けたといふ会員も多かったのである。
尚、彼は晩年、夢二と落款せず、もっぱら「夢生」を用いたが、――八月生と読むものさへあり、殊には「愁人山行」の四角な印章に好んで青肉を用いたが、‥‥‥青印は「不吉」だと、言ひ歩く画商までもあったのである。
言って見れば、われら不徳、彼また不運といふ仕儀であった。
後で、Y君といふ地方紙の若い記者が、Hといふ紳商を口説いて三十円也を持って来てくれ――裸婦を描いて呉れといふ話だった。
イヤだったらしいが、彼は画にかゝると元気になり)、二尺に三尺の大きい裸像が出来たのである。
(この珍しい画の行方も今は判明しない。)
かくて、御難渋の末、十円か二十円の帰りの旅費丈で(もっとも、画家今ではかなり豪遊でもあったのだが帰京して貰った様に記憶する。夏はじめといふのに、握手した彼の手がとても冷たかったことも思ひ出す。彼はつとめて笑顔を見せてゐたが、面白くはなかったらしい。(一つには帰って行く「東京」も或は、あまり愉快な所ではなかったかも知れない。)
土つきし靴のいとしさよ鳥雲
雅仙のレン落ちにこの句讚をした彼のうしろ姿(自画像)の絵を、記念にと言って私に呉れたが、傑作だが実にさびしいものだった。
さう言へば、夢二は((ほんとうに「女」といふものが好き))だったらしい。いふまでもなく浴場の対象としてばかりでは無く、彼の内心の狷介な、孤独性が――女の一種の愚かしさ・・‥‥を好んだものかもしれない。(今時の「女」では、彼は一寸困るだらう。)
ここで、浅間にゐたときの一つの挿話を書いて見る。それは、帰京前の私と一緒だったある朝の散歩で、思ひもかけず秀丸といった妓の妾宅の前に出たのである。(いまではあまいにも有名な市丸さんが、蝶々といって出てゐた頃のことで、秀丸もしばしば一緒に来てゐた)お互にのん気なもので、その家に上り込んだのはいいが(勿論、主人公不在。)それはよいのだが、新築のこの家の池袋の小襖が、まことによろしい白の鳥の子仕立――たちまち、夢二の画心が動いたから、待ったはない。硯をもて、皿をもて、まことに気が乗った風で、そこに墨絵の山水画二面が出来たのである。新凉の気を罩(こ)めた傑作だったと、いまも想起する。
ところが、この画の運命はどうなったか。――朝の散歩で印を持ってゐない。後で、宿へ持ってくれば落款することにして帰ったのだが、――電話を掛けさせたりもしたが、遂に持って来ない。使も来ない。一寸気を悪くして夢二は帰郷したのだが、後で彼女は大に𠮟られたらしい。前記の始末で、これも夢二の悲運で、ヤキモチ喧嘩もあったのである。――新築の別宅を敢て汚した風で、画はもちろん破り捨てられ、張り替へられたらしい。
それで、夢二と私の間も、別に気まづくなったといふでも無かったが、私は「草木染」で多忙を極めてゐる内に、夢二は渡米することになったのである。
最後に逢ったのは昭和八年だったが、草木染の展覧会を資生堂で開いてゐた時で、飄然として這入って来て、あの横長い皮のベンチに坐った。
「しばらく、‥‥‥君の仕事いゝね。」
彼は機嫌のいゝ顔で言った。私は、まことに突然のことで、海外でのことも、健康のことも訊ねないで、アッケなく分かれてしまった。黄味がかった褐色の――ビロードの丸い帽子(ベレーでは無く、ハンチングに近い)いささか頬の肉が硬く筋立ち、手がまたつめたかった。‥‥‥それで別れて、もう逢へなかった。彼はその翌年、富士見高原の療養所で死んだ。
二十九年の四月十九日に銀座で回顧展が開かれて居、そこには千九百三十二年ロオザンヌにて、とある「白梅」「紅梅」「扇」の三点が出陳されてゐた。(三十二年と言へば彼と私とが信州で苦労した時からニ三年の後にあたる。) その時もさうだったが、私の一寸思ひついた誘引に、すぐ乗って、しかも相当の期待をかけて‥‥‥かけ過ぎてその結果苦労をしたのである。最後になったロオザンヌへの旅もまた、さうした結果の風だった。
さだめなく鳥やゆくらん青山の青のさびしさかぎりなければ
いま、榛名湖畔の歌碑にあるこの歌をおもふのである。
さう言えば、このロオザンヌでの作品、三点が三点ともに、「愁人山行」の青肉の印章がそろって押されてあった。(「不吉」といはれた、その印である。)
いま何とかブームと言はれて、島崎藤村も、わが竹久夢二も、大に振返へあれてゐる風である。藤村は、強さうでよわいから、遂に愛され、夢二はまた、しんからよわいから遂に愛されて。‥‥‥
(編者注1)狷介(けんかい):自分の意志をかたく守って、他と妥協しない
(編者注2)山崎 斌(やまざき あきら):1892年11月9日 ~ 1972年6月27日。小説家、染織家。「草木染め」の命名者として知られる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます