宮崎市の「八紘一宇の塔」は、現在「平和の塔」と呼ばれている
宮崎駅から、車を走らすことおよそ20分。
緑に包まれた市民の憩いの場所「平和台公園」に、その物々しい巨塔はそびえ立つ。37メートルという高さは、建造当時としては日本一だ。天突くように伸びるその独特の意匠は、神事に使う神籬(ひもろぎ)をモチーフにしたものだという。
市内有数の観光地でもあるこの公園には、国内外から多くの人々が訪れる。地元出身者ならば、遠足で訪れたという人も多いだろう。厳めしい威容に少し驚きつつも、ほとんどの観光客たちは展望台に上って宮崎の街を眺めたり、記念写真を撮ったりと無邪気に「平和の塔」を楽しんで帰っていく。
一方で塔の正面には、「八紘一宇」の4文字が今もくっきりと刻まれている。平和台公園のサイトに掲載されたイラストでも、柔らかなタッチでデフォルメ化されてはいるが、この言葉がしっかりと自己主張している。
この塔が作られたのは、1940年。
皇紀2600年を迎えるに当たり、天孫降臨の地であり、神武天皇が東征の途に発った出発点でもある宮崎県は「八紘一宇の御精神を、悠久に、一代建造物として、具現し奉り、皇民精神修養根本道場たらしむべく」(設計者・日名子実三の言葉)、巨大なモニュメントの建造を計画した。
「八紘一宇」の精神を体現するため、その土台となる礎石は、陸軍などを通じて広く外地からも集められた。1999年放映のドキュメンタリー「石の証言 ~平和の塔の真実~」(テレビ宮崎制作)によれば、第一線、すなわち「皇威の及べる地極限点」の石を送ることが求められていたという。
そうして誕生した石塔は、まさに「八紘一宇」のシンボルとして、戦中に発行された紙幣や通貨に描かれた。しかし終戦後、「八紘一宇」の4文字は削り取られた。GHQ側は塔そのものの取り壊しを検討したものの、県などが「芸術品」と主張して交渉し、この言葉を取り除くことなどを条件に破壊を免れたとされる。当時の県担当者のメモによれば、GHQ将校はこう発言した(朝日新聞2010年1月28日付朝刊)。
「八紘一宇の元来の意味は平和的なることは認むるも」「今となりては之を平和的な文句と言うことは能わざるべし」
消された「八紘一宇」の文字が復活したのは、東京五輪翌年の1965年。今年でちょうど50年となる。
だが、「平和の塔」に刻まれた「八紘一宇」をどう解釈するのか――公式サイトの紹介文は今なお、言葉の意味にも、建造の由来にも、ともに触れることを避けている。
「緑に囲まれた石畳を歩き、第一駐車場から階段を上ると、『八紘一宇』と書かれた巨大なモニュメントが姿を現します。それがこの、平和の塔です
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