てんもく日記

ヒゲ親父が独特の感性で記録する日記。このブログがずっと未来に残るなら、子孫に体験と思いを伝えたい。

ブラオイラ#272(街道をゆく⑱小松串茶屋編)

2018年06月10日 22時09分44秒 | 【ヒゲ親父】ブラオイラ
県内の旧北国街道を歩く
「街道をゆく」は、今日はここからで~す
本日は曇なれど蒸し暑し


では味方の本
щ(゚ー゚щ)カモーン&カモーン!



青矢印からスタートだ



スタートしてすぐさま有名な神社が現れた。

多太神社だ。


多太神社といえばこれ。

兜、甲、かぶとですよね。

斎藤別当実盛(さいとうべっとうさねもり)、斎藤実盛です。


そして松尾芭蕉ですね。


芭蕉がここで詠んだ句が

「むざんやな かぶとのしたの きりぎりす」です。

「きりぎりす」は、コオロギのこと。
この句は決定稿で、元の案は「あなむざんや甲の下のきりぎりす 」だった。
斎藤実盛の遺品の兜、いま秋、コオロギが一匹、兜の下で鳴いている。
このコオロギは実盛の霊かもしれない。
おいたわしい、鎮魂の感情です。

松尾芭蕉では2番目に好きな句です。
ちなみに1番は、
「しずかさや いわにしみいる せみのこえ」です。
キリギリスにセミです


見たい・・・・

そのかぶとを見たい・・・。

旧国宝(国指定重要文化財)の実盛の兜。

なんとしても見たいのだ


だが!
無情にも宝物殿は閉まっていた。


社務所も人がいない・・・


「むざんやな、しゃむしょまえの ひげおやじ」である。


しかたがないので、境内をじっくり見学します。


いいね、


松尾神社もありました。


芭蕉一行がここに訪れたのは1689年だから今から約330年前。


先ほどから斎藤実盛だとか松尾芭蕉とか言ってますが、
ここで多太神社との関係を説明します。

<まるごと・こまつ・旅ナビから>
芭蕉も感激した「実盛の兜」
遥か昔、503年の時に創建されたと伝えられている歴史ある多太神社。ここには、とある伝説の兜が奉納されている。国指定重要文化財で、旧国宝でもあった、斎藤実盛の兜である。
時代は平安末期、源平合戦のまっ最中。兜の持ち主だった斎藤実盛は、平家の武将として戦っていた。倶利伽羅峠の合戦で敗れ、加賀の篠原で再び陣を取り戦ったが、木曾義仲軍の前に総崩れとなった。そんな中、実盛は老体であったが踏みとどまって奮闘し討ち死にした。その後、義仲がその首を池で洗わせると、墨で塗った黒い髪がみるみる白くなり、幼い頃に命を救ってくれた実盛の首だとわかった。義仲は人目もはばからず涙したという。実盛は出陣前からここを最期の地と覚悟を決めており、老いを侮られないようにと白髪を黒く染めて出陣したのだ。時に実盛73歳の老齢だったという。
後に、義仲が戦勝祈願のお礼と実盛の供養のために、多太神社に兜を奉納したのである。
この兜にまつわる実盛と義仲の話は『平家物語』巻第七に「実盛」として語られている。
それからずっと後の元禄2年(1689年)、松尾芭蕉が「奥の細道」の途中にこの地を訪れた。兜を見た芭蕉は実盛を偲び「むざんやな 甲の下の きりぎりす」と句を詠んだ。境内には句碑が建っている。

1183年に奉納されたとすると、この兜、835年もここにあるのか・・・。



境内でウロウロ見学していると、
奇跡が起きた!

神社の責任者の方がふいに現れ
「見学してきますか?」と声をかけてくれたのだ。
<ヤッター!!!

この宝物殿には多くの宝物があった。
写真OK!

なんとこの書は松尾芭蕉直筆なのである。

(左の箱に入っている短冊ね)

いろいろ解説していただけました。


おぉ、


そして・・・

(兜を直接撮ってはいけません、左のお面を撮ろうとしたら少々写りこんだのでペイント加工しました・・・

ここで撮った数枚の画像は、
オイラにとっても大変貴重なものであるので、
以前作成投稿した記事に加えて、後日あらためて斎藤別当実盛の一つの記事として投稿したいと思う。



良かった・・・・。
貴重な見学だった。


あの兜は国宝級です。いえ実際に国宝でした。
ただあまりにも古くて相当傷んでたので、国の要請で明治の時代に修復している。
その後の国宝基準としては修復した物を認められなかったので国指定重要文化財となったのである。



さて街道の続きだ。


多太神社前の道を左に進む。


古くこじんまりした建物があった。

何やら看板がある

ほんまかいな(失礼

株式会社小松製作所 協力商社第1号

燈明寺。

鮮やかな緑と赤の色合いです。




不思議な神社があった。


いぼいけ?


カラスがよく鳴いていた

なんだこの像は!


悪魔祓いだって!?


カラスよ、何をそんなに鳴くのだ。


早々に去ろう


またすぐに神社だ。


へぇ、


おっ!


こういうの興味ある!


ふむふむ


これか、


うむ。


みなぎる力。


では、また進もう。


前川です。


いいね。




三叉路が出てきた。


いよいよ串茶屋だ。

大聖寺藩の公認茶屋街だった場所。

ここには全国でも珍しい遊女の墓がある。


当然行ってみる。


ここだ。


一部修復してるのかな、ブルーシートが、


なぜこの墓地が名所となるというと、
遊女が一括供養されるわけでもなく個々に手厚く葬られている全国でも例がない場所だからだ。


源氏名で「きぬ」「品川」「しの」「若藤」など、

どういう遊女達だったのか興味が出てくる。


街道に戻って歩く、


一里塚跡だ。


おっ!


映画のワンシーンに出てくるようなバス停だね。


このあたりいろいろあります。


この神社も遊女に関係してまして、


ここには、


文久三年(1863年)に遊女が寄進した、


これまた世にも珍しいおいらん燈籠なるものがある。


串茶屋で働いていた遊女達は、普通の人として堂々と生きていたんだろうね。

さて、今日はここまでにしとこうか。


今回これだけ進みました。


次回は、加賀七曲編かな。

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コメント (6)
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