ささやんの週刊X曜日

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

ウクライナから北の国の兵士たちへ

2024-11-16 08:58:22 | 日記
戦争はどうすれば無くすることができるのか。
この問題を考える上で、興味深いニュースを目にした。

ウクライナ政府のロシア兵に投降を促すプロジェクト『私は生きたい』は23日、ロシアに派遣された北朝鮮兵に対し、投降を呼びかける動画と文章をSNSに投稿した。ロシア語と朝鮮語で『他国で無意味に死ぬ必要はない』と訴えている。
(朝日新聞DIGITAL10月24日配信)

北朝鮮の兵士は、本国では「ドングリ泥棒」をしなければならないほど
苦しく貧しい生活を強いられているという。
興味深いのは、ウクライナがこの北朝鮮の兵士たちに対して、
どういう呼びかけを行ったかである。記事は次のように続く。

23日の動画では2階建ての捕虜収容所が映し出され、北朝鮮兵が『広く、暖かく、明るい部屋』に入れられると主張。肉や野菜を含む『1日3回の温かい食事』や『医療サービス』も与えられるという。『ウクライナの収容所は国籍や宗教、イデオロギーに関係なく受け入れる』とし、連絡先も記している。
(同前)

なるほど。本国でかなり困窮した生活を強いられてきた
哀れな北朝鮮の兵士たち。
彼らはこのような「甘い水」の誘いを受ければ、
当座の「温かい食事」に目がくらみ、
銃器などうち捨てて、そのままウクライナ軍に投降しようという気になるに違いない。
そうなる可能性が高いとしたら、たしかにこれは上手い作戦である。
思わく通りに運べば、ウクライナ兵が北朝鮮兵を攻撃することもなくなり、
北朝鮮兵がウクライナ兵に攻撃を加えることもなくなる。
こうして無益な殺生は確実に減ることになるのだ。

北朝鮮の兵士たちにしてみれば、
国家元首・金正恩の気まぐれな「気晴らしへの意志」に翻弄されることがなくなり、
加えて、これまで以上に数段恵まれ、安定した食生活が保証されるのだから、
これほどうまい話はない。

この話に乗らず、殺(や)られるのを承知で敵陣に攻撃を仕掛けても、
何も見返りは期待できないのだから、
この誘いに乗らないのは、愚の骨頂である。
ーーこれは馬鹿でもわかる理屈だ。

考えてみれば、人類は「力への意志」(ニーチェ)に操られ、戦争へと駆り立てられる一方、テクノロジーを駆使して、戦死者を減らす知恵も発達させてきた。
今、ウクライナとロシアの戦場では、重火器を搭載した無人のドローンが飛び交っている。
ウクライナ軍もロシア軍も、無人のドローンを使って相手を攻撃することに余念がない。
無人ドローンのターゲットは今のところ生身の人間だが、これを迎え撃つのも無人ドローンである。
そう遠くない将来、戦場は無人ドローン同士の攻防の場になり、生身の兵士の死傷者は激減するに違いない。
旧日本軍の「特攻」作戦など
およそ正気の沙汰と思えない
過去の「アンビリーバボー」になる日が来るのだ。

こうした「テクノロジーによる戦場無人化の動向」とともに、
ウクライナが今回編み出した「甘い水」作戦も、
戦死者を減らすもう一つの妙手だと言えるだろう。

古今東西の歴史を見渡せば、
この「甘い水」作戦は、しかし今回が初めてのものではないことがわかる。
そこには、日本の戦国時代にしばしば見られた「調略」の戦術と共通の発想がみてとれる。
「天才軍師」として名を馳せた黒田官兵衛は、「調略」の名手だった。

ところで、ウクライナの「甘い水」作戦にしても、
黒田官兵衛の「調略」作戦にしても、
その成否の鍵を握るのは、事が秘密裏に行われるかどうかである。
ウクライナのようにSNSを利用し、大っぴらに事を仕掛けたのでは、
敵方(北朝鮮)の警戒心を徒(いたずら)に呼び覚まし、
事前に阻止される可能性が大きくなる。
北朝鮮はロシアに派遣した兵士たちに
「投降した兵士は、即刻射殺するぞ!」とか、
「投降した兵士は、本国内の親族を皆殺しにするぞ!」と
脅しをかけることで、ウクライナへなびこうとする兵士たちを
思いとどまらせようとするだろう。

「甘い水」作戦にしても、「調略」の作戦にしても、
事を成功させるには、内密にこれを行う必要があるが、
それだけでなく、
作戦のターゲットを
兵士個々人ではなく、部隊全体とし、
部隊の指揮官に話を持ちかける必要がある。
もっと言えば、個々の部隊ではなく、
(北朝鮮という)国家全体をまるごと抱きこむことが、
最高のシナリオだということになる。

つまり、北朝鮮の政府高官に種々の「甘い水」を提示し、
友好条約を結ぶように持ちかければよいのだ。
多少コストはかかるが、それだって大したことはない。
リアルな戦闘を行うとなれば、
そのために必要な武器を調達するコストは膨大なものになる。
それに比べれば、調略や抱き込みに必要なコストなど、物の数ではない。

これまでウクライナの最大の支援国だったアメリカは、
トランプが次期大統領に返り咲くことになり、
ウクライナへの支援は大幅に減額されると予想される。
その意味でも、安上がりなこの「甘い水」作戦は、
時宜にかなっていると言えるだろう。

さてさて問題は、実際の事の成り行きである。
現実に目を向ければ、ウクライナ軍と北朝鮮軍との間では
リアルな戦闘が行われ、
北朝鮮の兵士に相当の死傷者が出ているという。
実際に投降した北朝鮮兵士の数は、公表されていない。
ウクライナの「甘い水」作戦は、まだ戦況を左右するまでには至っていないのか・・・。
そんな疑念が頭をもたげはじめたとき、次のニュースに出くわした。


ロシア国境付近で北朝鮮兵士18人集団脱走 派遣兵か 韓国紙報道
韓国紙の朝鮮日報は16日、ウクライナ軍高官の話として、ロシア西部ブリャンスク、クルスク両州のウクライナとの国境付近で、北朝鮮軍兵士18人が集団脱走したと報じた。ウクライナ軍は、脱走したのは北朝鮮が対露軍事協力の一環で派遣した兵士らで、まだ拘束されていないとみているという。

(毎日新聞10月16日配信)

ウクライナの「甘い水」作戦はやはり着実に成果を上げていたのだ。

さ〜て、これから戦況はどう変化するのか。
今後の成り行きから目が離せない。

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母、大往生

2024-11-12 11:12:37 | 日記
備忘のために書く。
きょう11月12日、母が死亡した。
享年99歳。いわゆる白寿の大往生である。
99歳をなぜ「白寿」と呼ぶのかというと、
「百」から「一」を引くと「白」になるからだという。

知らせを受けた妻が、母の入居先の有料老人ホームに出向き、
葬儀屋との打ち合わせ等を行った模様。
私はデイサを欠席し、自宅で待機することにした。
合掌。

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戦争とヒマ潰し

2024-11-09 09:28:21 | 日記
世界のあちこちで戦火が絶えない。
例をあげるまでもない。
ウクライナはロシアの侵攻をうけ、もう2年以上もプーチンのロシアと交戦状態にある。
ハマスに攻撃をうけたイスラエルは、パレスチナのガザ地区に攻撃を開始し、こちらの攻防も(パレスチナの一般住民に多大の犠牲を出しながら)もう2年以上も続いている。
それだけではない。戦争間際のきな臭い匂いは、我が国のすぐ近くにも漂っている。中国の習近平が台湾の独立を阻止しようと、日増しに軍事的な圧力を強めているからだ。
また、さる11月5日、北朝鮮がICBMをぶっ放した。日米韓の合同軍事演習を強く意識してのことで、盟主のアメリカに対して「寄らば斬るぞ!」の構えである。一触即発という程ではないが、それに一歩近づく物騒な賭けと言える。
北朝鮮はさらに、ロシアと軍事条約を結び、ロシア−ウクライナ戦争の最前線(ドネツク州)へ数千名の兵士を派兵した。

さて、戦火が絶えないこうした現実は、なぜ生じるのか。
力への意志」に関するニーチェの言説は、この問いに明確な答えを提供してくれるように思える。
小中学校でのいじめに始まり、会社の職場で、さらには国家間で、頻繁に繰り返される権力闘争(マウントの取り合い)は、我々人間が「力への意志」にとらわれた度し難い生き物であることを如実に実証しているように思える。

争いがーー戦争がーー絶えない、救いがたい国際社会の現実。この現状ををうまく説明してくれる哲学的言説は、他にないものだろうか。
一つ思い当たるのは、あのパスカルの言説である。この17世紀フランスの思想家は次のように述べていた。

このことから、賭けごと、女性(異性)たちとの会話、戦争や手柄があれほど求められるようになる。そこに実際に幸せがあるからでもなければ、真の至福が賭けごとで得られるカネや、狩りで得られるウサギを持つことにあると人々が思い込んでいるからでもない。そんなものは、やると言われても要らないのだから。(中略)そういうわけで、人は獲物よりも狩りを好むのだ。
(『パンセ』)

人は賭けごとや、異性との交遊や、戦争や手柄を求める。それは、これらが退屈しのぎの気晴らし(divertissement)になるからだとパスカルは言う。

つまり、国家元首が他国に戦争を仕掛けたり、武勲を求めたりするのは、
(我々がMLBドジャースの勝ち負けにこだわったり、大谷翔平の打撃成績に一喜一憂するのと同じく)
彼らが退屈から逃れようとして、気晴らしを求めるからだというのである。

この見解を敷衍すれば、次のように言うことができるだろう。主に国内政治の世界で熾烈な権力闘争を勝ち抜き、国家元首の地位に上りつめた手合いは、独裁的な権力を手にすると、やがて退屈に直面し、ヒマ潰しのために戦争を企てるのだ、と。
巻き添えになる一般市民からすれば、迷惑な話である。

むろんすべての戦争がそうだというわけではない。他国から侵略をうけ、対抗上、やむを得ず事を構える場合もある。

ウクライナのゼレンスキー大統領のケースがそうだと一応は言えるが、
ただこの場合は、彼のほうが先にロシアに攻撃を仕掛けたという説もあるから、
真偽のほどはわからない。
仮にウクライナ・ゼレンスキー大統領のほうが先にロシアへ攻撃を仕掛けたのだとすれば、この攻撃は、ゼレンスキーの「気晴らしへの意志」によるものだった可能性がある。
言ってみれば、彼の「気晴らしへの意志」がロシアの侵攻を招き、大規模な戦争を招いたことになる。
彼は戦況が自国に有利な状況になっても、なかなか停戦交渉に応じようとしないが、それもこの「気晴らしへの意志」が根強く根底にあるからだと見ることができるだろう。

では、どうすれば戦争はなくせるのか。どうすればこの状況を変えられるのだろうか。
ニーチェの所説からすれば、戦争はある国の元首の「力への意志」と、他国の元首の「力への意志」が衝突する結果、必然的に起こるものであり、起こるべくして起こるのだから、これを回避する手立てはない、ということになる。

パスカルの所説は、まだしも救いがある。戦争はヒマを持て余して退屈した国家元首が「気晴らしへの意志」に駆り立てられる結果、起こすものだとすれば、(プーチンやゼレンスキーや習近平のような)国家元首が、ヒマを持て余さないようにすればよい、ということになる。
「ひとつブログ書きなどはいかがでしょうか?楽しいですよ」と私は言いたいのだが、彼らはおそらくそんな青っぽい提案には耳を貸さないだろう。
「英雄色を好む」という言葉があるくらいだから、彼らはブログ書きなんかより、色事に専念することを選ぶに違いない。

とすれば、彼らにハニートラップを仕掛け、退屈を感じなくさせる、という手立ても考えられるが、はたしてこれでうまく行くのかどうか。
往々にしてありがちなことだが、彼らが色事に飽き、これに食傷気味である場合には、この手は通用しない。

う〜む、何かうまい手立てはないものだろうか。

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〈私〉とは何か

2024-11-02 09:30:48 | 日記
ブログで語るべき〈自分=私〉とは何か

デカルトの有名な言葉がある。

我思う、ゆえに我あり

この言葉が示すように、

〈我=自分〉とは、「思う」働きと分かちがたいであり、
このの「思う」内容こそが〈我=自分〉の内実にほかならない。

まず空っぽのがあり、そのが「思う」、というのではない。
「思い」の内容がの内実、つまり〈我=自分〉を形作る、
ということである。

我々は社会の中に生き、その様々な出来事から刺激を受けて、
様々な「思い」をいだきつつ生きる。
社会の出来事と没交渉の〈私〉、空っぽの〈私〉など、
およそ〈私〉といえるものではない。

たとえば、さる10月27日に衆院選が行われ、
長らく政権与党だった自民党が惨敗した。
このニュースを聞いて、
「ざまを見ろ。驕れる平家久しからずだ」と思った私がいる。
言うまでもなく、これは〈私〉の一面である。
「(ブログの更新は)週に1度」の誓いを立てていなかったら、
そんな〈私=自分〉を、私はブログでとりあげただろう。

そのような形で、私は〈自分〉を表出し、
そうした〈自分〉を表出する「ブログ書き」の作業を通して、
「自分について考える」作業を行ったはずなのである。

こう書けば、読者にはもうお分かりだろう。
私が刺激をうけ、反応する対象は、べつに社会現象である必要はない。
私はネット経由で映画やテレビドラマをよく見る。
任侠映画の「網走番外地」シリーズは何本も見た。
高倉健をカッコいいと思う。
「悪いヤクザ」の組事務所にドス一丁で単身、殴り込みに行く健さんの姿には、
思わず「イヨッ、健さん!いいぞ」と声を上げたくなる自分がいる。

そのほか国民的テレビドラマ「北の国から」などは通して2回見た。
ペーソスを誘う田中邦衛のわびしげな姿には、
「いいなあ・・・」と、つい泣けてくる。
そのような思いに駆られる私も、紛れもなく〈私=自分〉の一面である。

そういう〈私=自分〉についてブログで書くことは、「自分について考える」作業を行うことなのだ。

こうした「ブログ書き」の行為は、私に悦楽をもたらす「気晴らし」
の行為である。

しかし同じ「気晴らし」でも、
逆に「自分を滅ぼす」みじめな行いもある。

おなじみの「団塊シニア」さんがブログでこんなことを書いていた。

「いい人と思われたくて他人の目を気にする、人間関係を優先しよ
うとするため自分の気持ちに目をつぶってしまう、人間、誰もが
経験のあることである。」
(《団塊シニアのひとりごと》10月26日)

とりわけ異性との交友は「気晴らし」の最たるものといえるが、、
「いい人と思われたい」ばかりに、自分の気持ちに目をつぶり、
意に反し無理をして「いい人」を演じるとしたら、
これは「自分を滅ぼす」みじめな行いと言うしかない。

さいわい人付き合いが苦手な私は、
自室に引きこもり、ブログ書きに専念しているほうが
ずっと楽しいのだけれどね。

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自民と国民民主との部分連合について

2024-10-30 10:58:12 | 日記
衆院選の結果、窮地に立たされた石破政権は、躍進めざましい国民民主党と「部分連合」を組む方針を固めたようだ。けさの朝日新聞に、次のような記事がのっていた。

石破政権は首相が策定を指示した総合経済対策について、野党の国民民主党の政策も一部盛り込んだうえで、来月中旬の閣議決定を目指す方針を固めた。閣議決定は14日を軸に調整。衆院選での与党過半数割れを受け、政権は『部分連合』も視野に、国民民主党に経済対策をめぐる政策協議を呼び掛ける方針だ。
(朝日新聞10月30日)

国民民主党といえば、「手取りを増やし、インフレに勝つ」をスローガンにかかげ、先の衆院選で大幅に議席をのばした政党である。
先の衆院選の争点は、「裏金にまみれて腐敗した政党かどうか」ではなく、「自分たちの生活を潤してくれる政党かどうか」だったことがわかる。
自民党は腐敗して、自分たちの生活のことなど考えてくれるわけがない、とみなされたために、国民の支持を失ったのだ。

自民党は国会での過半数を確保するために、「俺たちと組んでくれないか」と国民民主党に誘いをかけたようだが、国民民主党の玉木代表は「我々はあくまでも政策本位、是々非々で臨む」として、政策ごとに組んだり組まなかったりする「部分連合」ならOKとの態度を示している。
これに対して石破首相は「国民民主は一貫して『手取りを増やす』と主張し、実質賃金を増やすという石破政権の方針とも一致する」と応じ、国民民主との「部分連合」は道に外れた(政権維持のための)野合ではないことを強調している。

ところで国民民主党の有力な支持母体は、言わずと知れた電力総連である。
原発に対して推進の立場をとるこの労組が、国民民主党の政策にも影響を及ぼしていることは言うまでもない。
国民民主党が(基本的に原発廃止の立場にたつ)立憲民主党に合流しようとしないのも、この党の支持母体が電力総連であることと無関係ではない。

どうしてこんなことを書くのかというと、きのうこんなニュースを聞いたからである。

東北電力は29日夜、宮城県にある女川原子力発電所2号機の原子炉を起動し、東日本大震災で停止して以来、13年半余りを経て再稼働させました。
事故を起こした東京電力福島第一原発と同じタイプの原発で、このタイプでは初めての再稼働となります。

(NHK NEWS WEB 10月29日配信)

女川原発を再稼働させたのは東北電力だが、この決定の背後にあるのが経産省であり、もっといえば石破政権であることは、言をまたない。

このニュースを聞いて、私は次のように勘ぐったのである。
石破政権は、国民民主党を自陣に引き入れるための「呼び水」として、女川原発の再稼働にゴーサインを出したのではないか。
原発の再稼働は、国民民主党の政策と合致する。

注意しなければならないのは、国民民主党の政策と合致した政策が
必ずしも「国民の利益にかなう」政策ではない、ということである。
国民民主党は表向きには「国民の暮らしファースト」ともとれる飴玉のようなスローガンをかかげているが、
実際には、「支持母体の労組ファースト」の姿勢を貫こうとしている。
早い話が原発政策である。
原発を推進しようとする政策は、電力総連の組合員の利益にはなるが、国民の利益に合致したものではない。
原発推進策が国民の利益をむしろ損なう政策であることは、これまで本ブログで何度も書いてきたことなので、今ここでは繰り返さない。

どの政党にも、表の面と裏の面がある。裏の面ーー今の場合は原発政策の面ーーでの政策的合致だけで二つの政党が結びつくとしたら、それは国民の生活を無視した、野合以外の何ものでもない。
自民党と国民民主党との「部分連合」は、その裏のダークな面を見なければならない、ーーその思いから、きょうは急きょこのブログ記事を書く気になったのである。
「更新は週に1度」との誓いを破り、急きょ「号外」を出すに至った筆者の思いを諒とされたい。

*社会時評はなぜ「自分について考える」よすがになるか、という問題については、あらためて次号で検討する。

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