今年2024年も残りわずか。世相を映すテレビ番組はすっかり歳末モードに入っている。そこで私も、今年がどんな年だったか、ふり返ってみることにした。
実感として最近とみに痛感するのは、可能性がなくなったなあ、という思いである。可能性、ーーそれは何の可能性かといえば、椿事が起こる可能性である。
「椿事」、辞書には「思いがけない大変な出来事」とある。
私はこの言葉を、(大学生だった50数年前)三島由紀夫の初期短編小説を読んでいて知った。なにせ大昔のことである。もう記憶は定かでないが、三島の初期作品に描かれた少年は、平凡な日常の中で「椿事が起こるのを夢見る」少年だった。そんな少年の姿に、私は自分自身を投影し、いたく共感したのだった。
思い返せば私の少年時代は、「椿事が起こる」可能性に充ち充ちていた。
当然といえば当然だが、夢のような「椿事」は起こらない。起こらないまま時は過ぎ、私はせせこましい大学アカデミズムの中で飲んだくれの窒息寸前オヤジになり、そのまま老年になって脳出血に倒れ、片麻痺の要介護ジジイになった。
片端のジジイには、当然、「椿事」など起こりようがない。「椿事」が起こるのを夢見ることさえできなくなったジジイの私、それが今現在の私なのである。
椿事、ーー思いがけない大変な出来事。その言葉で、私はどんなことをイメージする7のか。絶世の美女から愛を告白される、といったことだろうか。
そんなことは120%あり得ないことだが、そのことを私は、少なくとも「思う」ことができる。だからそれは「思いがけない(=思ってもみない)出来事」、つまり「椿事」ではない。
こんなふうに考えれば、「椿事」とは、起こる可能性が限りなくゼロに近い出来事である。したがって「椿事が起こる可能性」はもともと限りなく小さいが、若い頃の私は、なぜかそれを「夢見る」ことはできたのである。
ところが最近の私、ーー手足が不自由なため、気ままに街を出歩くこともできず、(ジジババ相手の)デイサ通いしか「社会の窓」がない私は、椿事が起こることを「夢見る」ことさえできない。
はて今年2024年は、記憶に残るような印象的な出来事が何かあっただろうか。
そう考えてみても、残念ながら私の頭には何も浮かんでこない。
すべては真っ白な闇の中である。
これは私がボケたせいだけではないと思うのだが・・・。
ーーここまで書いてきて、私ははたと思い直した。いやいや、椿事が起こる可能性はゼロではないぞ、むしろそれはこの私にも充分あるのではないか。そう思ったのである。
繰り返すが、「椿事」とは「思いがけない大変な出来事」の謂である。現に私は2年ほど前、「思いがけない大変な出来事」に見舞われたのだった。
思いもかけず、あれよあれよという間に私は自宅で転倒し、大腿骨を骨折して、6ヶ月もの入院生活を余儀なくされたのである。
大腿骨のレントゲン写真を撮ったとき、大腸に異常が見つかり、人工肛門の造設を余儀なくされたことも、思ってもみないことだった。これこそ「椿事」でなくて何だろう。
「思いがけない大変な出来事」とは、「思いがけない大変な(=すばらしい)出来事」だけを意味するのではない。それは「思いがけない大変な(=忌々しい)出来事」をも意味する。この意味でなら、片麻痺ジジイの私にも、「椿事が起こる可能性」は充分に開かれているのだ。
そういえば、三島の初期作品に出てくる主人公のナイーブな少年は、戦禍に巻き込まれて死ぬことを夢見ていたような・・・。
常日頃、死を恐れている擦れっからしジジイの私とは、大変な違いである。
実感として最近とみに痛感するのは、可能性がなくなったなあ、という思いである。可能性、ーーそれは何の可能性かといえば、椿事が起こる可能性である。
「椿事」、辞書には「思いがけない大変な出来事」とある。
私はこの言葉を、(大学生だった50数年前)三島由紀夫の初期短編小説を読んでいて知った。なにせ大昔のことである。もう記憶は定かでないが、三島の初期作品に描かれた少年は、平凡な日常の中で「椿事が起こるのを夢見る」少年だった。そんな少年の姿に、私は自分自身を投影し、いたく共感したのだった。
思い返せば私の少年時代は、「椿事が起こる」可能性に充ち充ちていた。
当然といえば当然だが、夢のような「椿事」は起こらない。起こらないまま時は過ぎ、私はせせこましい大学アカデミズムの中で飲んだくれの窒息寸前オヤジになり、そのまま老年になって脳出血に倒れ、片麻痺の要介護ジジイになった。
片端のジジイには、当然、「椿事」など起こりようがない。「椿事」が起こるのを夢見ることさえできなくなったジジイの私、それが今現在の私なのである。
椿事、ーー思いがけない大変な出来事。その言葉で、私はどんなことをイメージする7のか。絶世の美女から愛を告白される、といったことだろうか。
そんなことは120%あり得ないことだが、そのことを私は、少なくとも「思う」ことができる。だからそれは「思いがけない(=思ってもみない)出来事」、つまり「椿事」ではない。
こんなふうに考えれば、「椿事」とは、起こる可能性が限りなくゼロに近い出来事である。したがって「椿事が起こる可能性」はもともと限りなく小さいが、若い頃の私は、なぜかそれを「夢見る」ことはできたのである。
ところが最近の私、ーー手足が不自由なため、気ままに街を出歩くこともできず、(ジジババ相手の)デイサ通いしか「社会の窓」がない私は、椿事が起こることを「夢見る」ことさえできない。
はて今年2024年は、記憶に残るような印象的な出来事が何かあっただろうか。
そう考えてみても、残念ながら私の頭には何も浮かんでこない。
すべては真っ白な闇の中である。
これは私がボケたせいだけではないと思うのだが・・・。
ーーここまで書いてきて、私ははたと思い直した。いやいや、椿事が起こる可能性はゼロではないぞ、むしろそれはこの私にも充分あるのではないか。そう思ったのである。
繰り返すが、「椿事」とは「思いがけない大変な出来事」の謂である。現に私は2年ほど前、「思いがけない大変な出来事」に見舞われたのだった。
思いもかけず、あれよあれよという間に私は自宅で転倒し、大腿骨を骨折して、6ヶ月もの入院生活を余儀なくされたのである。
大腿骨のレントゲン写真を撮ったとき、大腸に異常が見つかり、人工肛門の造設を余儀なくされたことも、思ってもみないことだった。これこそ「椿事」でなくて何だろう。
「思いがけない大変な出来事」とは、「思いがけない大変な(=すばらしい)出来事」だけを意味するのではない。それは「思いがけない大変な(=忌々しい)出来事」をも意味する。この意味でなら、片麻痺ジジイの私にも、「椿事が起こる可能性」は充分に開かれているのだ。
そういえば、三島の初期作品に出てくる主人公のナイーブな少年は、戦禍に巻き込まれて死ぬことを夢見ていたような・・・。
常日頃、死を恐れている擦れっからしジジイの私とは、大変な違いである。