ささやんの天邪鬼 ほぼ隔日刊

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

ジジイと可能性

2024-12-29 09:50:15 | 日記
今年2024年も残りわずか。世相を映すテレビ番組はすっかり歳末モードに入っている。そこで私も、今年がどんな年だったか、ふり返ってみることにした。

実感として最近とみに痛感するのは、可能性がなくなったなあ、という思いである。可能性、ーーそれは何の可能性かといえば、椿事が起こる可能性である。
「椿事」、辞書には「思いがけない大変な出来事」とある。

私はこの言葉を、(大学生だった50数年前)三島由紀夫の初期短編小説を読んでいて知った。なにせ大昔のことである。もう記憶は定かでないが、三島の初期作品に描かれた少年は、平凡な日常の中で「椿事が起こるのを夢見る」少年だった。そんな少年の姿に、私は自分自身を投影し、いたく共感したのだった。

思い返せば私の少年時代は、「椿事が起こる」可能性に充ち充ちていた。
当然といえば当然だが、夢のような「椿事」は起こらない。起こらないまま時は過ぎ、私はせせこましい大学アカデミズムの中で飲んだくれの窒息寸前オヤジになり、そのまま老年になって脳出血に倒れ、片麻痺の要介護ジジイになった。

片端のジジイには、当然、「椿事」など起こりようがない。「椿事」が起こるのを夢見ることさえできなくなったジジイの私、それが今現在の私なのである。

椿事、ーー思いがけない大変な出来事。その言葉で、私はどんなことをイメージする7のか。絶世の美女から愛を告白される、といったことだろうか。
そんなことは120%あり得ないことだが、そのことを私は、少なくとも「思う」ことができる。だからそれは「思いがけない(=思ってもみない)出来事」、つまり「椿事」ではない。

こんなふうに考えれば、「椿事」とは、起こる可能性が限りなくゼロに近い出来事である。したがって「椿事が起こる可能性」はもともと限りなく小さいが、若い頃の私は、なぜかそれを「夢見る」ことはできたのである。
ところが最近の私、ーー手足が不自由なため、気ままに街を出歩くこともできず、(ジジババ相手の)デイサ通いしか「社会の窓」がない私は、椿事が起こることを「夢見る」ことさえできない。

はて今年2024年は、記憶に残るような印象的な出来事が何かあっただろうか。
そう考えてみても、残念ながら私の頭には何も浮かんでこない。
すべては真っ白な闇の中である。
これは私がボケたせいだけではないと思うのだが・・・。

ーーここまで書いてきて、私ははたと思い直した。いやいや、椿事が起こる可能性はゼロではないぞ、むしろそれはこの私にも充分あるのではないか。そう思ったのである。
繰り返すが、「椿事」とは「思いがけない大変な出来事」の謂である。現に私は2年ほど前、「思いがけない大変な出来事」に見舞われたのだった。
思いもかけず、あれよあれよという間に私は自宅で転倒し、大腿骨を骨折して、6ヶ月もの入院生活を余儀なくされたのである。
大腿骨のレントゲン写真を撮ったとき、大腸に異常が見つかり、人工肛門の造設を余儀なくされたことも、思ってもみないことだった。これこそ「椿事」でなくて何だろう。

「思いがけない大変な出来事」とは、「思いがけない大変な=すばらしい)出来事」だけを意味するのではない。それは「思いがけない大変な=忌々しい)出来事」をも意味する。この意味でなら、片麻痺ジジイの私にも、「椿事が起こる可能性」は充分に開かれているのだ。

そういえば、三島の初期作品に出てくる主人公のナイーブな少年は、戦禍に巻き込まれて死ぬことを夢見ていたような・・・。
常日頃、死を恐れている擦れっからしジジイの私とは、大変な違いである。

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2024年問題をふり返る

2024-12-27 09:11:39 | 日記
最近、通販大手のアマゾンに遅配が目立つようになった。
以前ならウイスキーは注文した翌日に届いたものだが、先日はそれが1週間もかかった。このときは幸い、部屋の片隅にころがっていた焼酎のペットボトルを見つけ、事なきを得たが、「アマゾンは信頼できない」とつくづく思わされた出来事だった。遅配による不便は、ウイスキーだけでなく、ラーメンや衣類でも味わったことがある。

遅配の原因は、アマゾンの不手際ではない。それはわかっている。いわゆる「2024年問題」の余波なのだろう。ネットには次のような説明がある。

2024年問題とは、働き方改革法案に基づき、2024年4月以降にトラックドライバーの時間外労働の上限が年間960時間に制限されることで発生する問題の総称です。この問題により、ドライバーの労働時間が短くなることで輸送能力が不足し、次のような影響が懸念されています。

ふむふむ。トラックドライバーの時間外労働が制限されれば、実働ドライバーが不足する事態が生じ、それが遅配につながるのは、見やすい道理である。

私は「トラックドライバーの時間外労働の規制措置」に文句を言うつもりはない。おそらくトラックドライバーたちは長時間労働を強いられ、肉体的にも精神的にもアップアップの状態なのだろう。そういう労働環境を改善することは、トラックドライバーの待遇改善につながり、また過労による事故も減らせるのだから、まさに一石二鳥であり、何も言うことはない。

それはよくわかっている。頭ではわかっているのだが、ちょっと不便を味わわされると、ついぶつくさアマゾンに文句を言いたくなる、この私の気持ちを如何ともしがたいのも、事実である。
それほど(これまでの)アマゾンの迅速な配送システムに慣れきってしまっている私なのである。
便利(コンビニエント)な生活は、不便をいっそう強く感じさせる。

そんな私だから、NHKの番組「時をかけるテレビ」を興味深く見た。「トラック・列島3万キロ 時間を追う男たち」というのが、先日のふれこみだった。

私はドラマだけでなく、ドキュメンタリー番組もよく見る。想像力を働かせ、ドキュメンタリーの主人公に身をおくことで、「もう一人の自分」を味わうことができるからである。「もう一つの人生」を追体験できるといってもいい。

しかし、この番組の場合、私は、主人公のトラックドライバーに身をおく気にはなれなかった。池上彰氏がMCをつとめるこのドキュメンタリー番組は、20年ほど前に放映された番組の再放送なのだが、その当時のトラックドライバーの労働環境は、驚くほど過酷なのだ。
荷物の配達がちょっと遅れれば、荷主からクレームが出て、有無を言わせず契約を打ち切られる。そういう事態を避けようと思えば、中小の運送会社に雇われたトラックドライバーは、「このまま眠ってしまいたい」と思うほどの睡魔に襲われながらも、やっとの思いでこれを振り切り、昼夜をかけて長崎〜東京の往復という長距離を運転しなければならないのだ。アクセル・ペダルを踏む右足の太ももが痺れて感覚がなくなってくるという。

私は若い頃、大学の「助手」(今の言葉でいえば助教)という、教員ヒエラルキーの最下層の身分だったことがある。性格的に歪みきったボス猿・エテ公並みの教授たちから虫けら同然の扱いをされ、「あの野郎、ぶっ殺してやりたい」と思うこともしばしばだった。
だが、そんな苦節が「ちょろい」と思えてくるほど、トラックドライバーたちの労働環境は過酷だった。トラックドライバーの苦労は助手の苦労に比べれば何倍も重たい。
この番組を見て、私は「ああ、大学の助手でいられて、よかった」とは思わなかった。「助手なんか辞めて、トラックドライバーになればよかった」とも思えなかった。

大学助手の身分もトラックドライバーの労働環境も、非人間的であることに変わりはない。だが、その「非人間性」の重みが違う、といえるだろう。

それから20年がたった今、「働き方改革法案」によってトラックドライバーの労働環境はかなり改善されたというが、それも20年前の、あまりにも非人間的な彼らの労働環境が見過ごせなかったからだろう。霞が関の官僚や政治家にも、それなりに血や涙はあるということである。ドライバーの過労による交通事故の多発問題が見過ごせなかった、というだけなのかもしれないが。

アマゾンの遅配に悩まされながら、私は、大学助手だった40年前の自分を思い出している。
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政治の現状とイデオロギーの終焉(その2)

2024-12-25 09:04:48 | 日記
(承前)

少数与党を背負う石破首相と、野党各党の国会論戦から見えてくるのは、「イデオロギーの終焉」という象徴的な現実である。
「自由主義か、社会主義か」というイデオロギーの対立が意味をなさなくなった今、政治は限られた予算をめぐる分捕り合戦の様相を呈している。「カネの奪い合い」というもう一つの姿を見せはじめたと言ってよい。
良くも悪くも、これが現代政治の実情なのである。

国家予算にはたしかに限りがある。政府は(ツケを次世代にまわす)国債発行の手法によって窮地を打開しようとしているが、そんな安易な手法をくりだす前に、予算がはたして有効に使われているかどうか、それを検討する必要があるのではないか。

こんな記事を読んだ。

補正予算、4割使われず 11.7兆円、翌年度繰り越し 22年度
物価高対策などが盛り込まれた2022年度の補正予算32兆円のうち、4割近い11・7兆円が年度内に使われていなかったことが会計検査院などへの取材で分かった。当初予算で想定しなかった状況に対応する補正予算は、年度内の執行が原則だが、実現できていなかった。補正予算のつく事業の必要性に疑問の声が出ている。

(朝日新聞12月16日)

予算が有効に使われているかどうか。これをチェックするのも「与党に対する監視役」としての野党の役割ではないか。予算の分捕り合戦に現(うつつ)を抜かすだけが野党の役割ではない。

話がちょっとそれるが、次のニュースが気になった。

日本維新の会は12日午前の両院議員総会で、看板政策の『教育無償化』をめぐり自民、公明両党が3党による協議体の立ち上げに応じたとして、今年度補正予算案に賛成する方針を決めた。(中略)
(共同代表の)前原氏は『自公が(衆院で)過半数割れし、野党の理解が得られなければ一つの法案も予算も通らない。野党の立場でしっかりと与党に提案し、後は自公がどう判断されるかだ』とも強調した。
(朝日新聞DIGITAL 12月12日配信)

日本維新の会のこうした見解をうけて、石破自民は(国民民主党から)日本維新の会にシフトし、この党に触手をのばしはじめた。


自公は国民民主との協議が再び決裂すれば、日本維新の会など、ほかの野党との協力を模索する可能性もある。
(朝日新聞12月21日)

いわゆる「両天秤」である。
小野寺政調会長の発言には、新たに日本維新の会に触手をのばそうとする自公の、その方針転換を正当化する意図があるのではないか、そう思えるのだが、いかがだろうか。

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政治の現状とイデオロギーの終焉(その1)

2024-12-23 08:55:07 | 日記
自民党の小野寺政調会長の発言が物議を醸している。こんなニュースを目にした。

自民党の小野寺五典政調会長は15日、札幌市で開かれた党セミナーで講演し、アルバイトをしている大学生らを扶養する親の税負担に関する『年収103万円の壁』見直しに疑問を呈した。小野寺氏は『野党各党は壁を取っ払えと話しているが、根本、おかしいと思う。なぜ学生が103万円まで働かなければいけないのか』と指摘した。
(JIJI.COM12月15日配信)

 この小野寺氏の発言に対しては、SNS上で次のような反発の声が上がっている。

「そのくらい稼がないと、学費も生活費も足りないからですよ。そういう学生たちを自民党が生み出してきたんですよ」
「今まで教育への公的支出を渋ってきた自民党のせいだ」
「だったら普通に働けば子供3人養える経済にしろ」
「今更何言ってるの?学生が働かないとならない状況作ってきたのは(政権を握ってきた)自民党じゃないのか」
等々。

けれども、私には小野寺氏の気持ちがよくわかる。彼はこう言うべきだったのだ。

「国民民主党は(103万円の)壁を取っ払えと主張しているが、これはそもそもおかしな話だと思う。なぜ学生が103万円まで働かなければいけないのか。学業を本分とする学生がアルバイトに精を出さざるを得ない、ーーこういうあるまじき現状を生み出したのは、たしかに自民党だが、だからこそ自民党は、まずもってこうした現状を生み出さないための施策、ーー大学授業料の無償化とか、奨学金の拡充などの施策を、検討する責任があるのではないか。103万円の壁の見直しなど、そのあとの話だ。」

小野寺氏が言おうとしているのは、こういうことである。
「国家予算には限りがある。野党の要求を一々聞いていたのでは、国家予算はパンクするに決まっている。政府はその前に、予算をもっと有効に使う手立てを考えるべきだ。」

たしかに、この主張は(政策面から政権を運営する)政調会長の立場としては正論であるように思えるのだが・・・。

(つづく)


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韓国動乱のゆくえ(その3)

2024-12-21 09:29:46 | 日記
(承前)

韓国社会の以上のような混乱を、当の北朝鮮はどう捉えているのか。最後に、この問題を考えてみたい。
北朝鮮からすれば、敵国である韓国の政治的混乱は、この敵国を攻撃する絶好のチャンスと言えるだろう。なのに、北朝鮮が事を構える素振りは全く見られない。なぜなのか。

戒厳令騒ぎで韓国が大騒ぎをしているのに、北朝鮮が何の動きも見せていないのは、(北朝鮮)国内の体制維持がやっとで、そこまで手が回らないからだろう」とする見方がある(ブログ「草莽隊日記」)。

だが、私はそうは考えない。
北朝鮮は意図的にこの事態を静観しているのではないか。
事態を静観すること、つまり「韓国に対して何も仕掛けない」ことこそが、非常戒厳を宣布した尹大統領の見方(=「北朝鮮は我が国を転覆しようと画策している」)を否定することにつながるからである。下手に動けば、逆に尹大統領の主張の正当性を裏打ちすることになってしまうのだ。

韓国の国会は先日、尹大統領の弾劾決議案を可決した。彼は今「内乱罪」の咎で一転、大罪人に仕立てられつつある。大統領が一転して罪人になるのはこの社会では日常茶飯事であり、そう驚くことではない。

それにひきかえ、我が日本の国会の、そのちんたらしたマンネリ論戦を見ていると、韓国の民衆の燃えるような政治的エネルギーがうらやましく思える天邪鬼爺である。

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