ネタ探しを思いとどまり、ブログ書きを”えいやっ”と放り投げると、そこに顔を出したのは、ヒマを持て余した自分だった。私は、おもしろくないなあ・・・、つまらないなあ・・・、という退屈の感覚に向き合わなければならなかった。
その索漠とした味気ない退屈の感覚を噛みしめながら、おもしろくないなあ、とぼやく私の脳裏に、ぼんやりとだが、パスカルの「気晴らし」についての言説が浮かび、まもなく消えた。
気になったので、ネットで調べてみた。パスカルは次のように述べている。
「このことから、賭けごと、女性(異性)たちとの会話、戦争や手柄があれほど求められるようになる。そこに実際に幸せがあるからでもなければ、真の至福が賭けごとで得られるカネや、狩りで得られるウサギを持つことにあると人々が思い込んでいるからでもない。そんなものは、やると言われても要らないのだから。(中略)そういうわけで、人は獲物よりも狩りを好むのだ。」
(『パンセ』頁数などは不詳。以下同じ)
この文章を、私は次のように理解した。
人は賭けごとや、異性との会話や、戦争や手柄を求める。
だがそれは、そこにホントに幸せがあるからではない。
賭けごとで得られるカネや、狩りで得られる獲物が幸福をもたらすと思うからでもない。
では我々は、なぜ賭けごとや、異性との会話や、戦争や手柄を求めるのかーー。それは、ヒマ潰しのそういう戯れが気晴らし(divertissement)になるからだとパスカルは言う。
「人間は、どれほど悲しみに満たされていても、何か気晴らしに引き込むことができれば、その間は幸せである。」
(『パンセ』)
なるほど、と私は納得した。パスカルの言葉でいえば、ブログ書きは私にとってある種の「気晴らし」だったのである。
リタイア老人が退屈から逃れ、ヒマ潰しをするために必要とする気晴らし、ーーそのためのてっとり早い手立てが、私にとってはブログ書きだったということである。
だが、その「気晴らし」について、パスカルはまた次のようにも述べている。これは私にとっては意外だった。
「われわれの悲惨(みじめ)を和らげてくれる唯一のものは気晴らしである。しかしそれこそがわれわれの悲惨(みじめ)の最たるものである。なぜならこれこそが、われわれが自分について考えることを妨げ、われわれを知らず知らずのうちに滅ぼしてしまうからである。」
(『パンセ』)
う〜む。言われてみれば、たしかにその通りである。気晴らしに没頭しているとき、我々はその戯れに夢中になってつい我を忘れ、「自分について」は何も考えなくなる。
それは「われわれの悲惨(みじめ)の最たるもの」だ、とパスカルは言うが、それもむべなるかなである。自分について何も考えなくなることで、我々は実際「自分を滅ぼしてしまう」のだから。
ここには大いなるパラドックスがある。我々は「退屈」という悲惨(みじめ)を逃れるために「気晴らし」を求めるのだが、気晴らしに没頭することで我々は我を忘れ、「自分を滅ぼす」という「最大の悲惨(みじめ)」に陥ってしまうのである。
だが、なにも狼狽(うろた)えることはない。このパラドックスを抜け出す唯一の道がある。それは、「自分について考えること」がそのまま「気晴らし」になるような、特別な種類の戯れにほかならない。
考えてみれば、ーーいや、考えるまでもなく、ブログ書きこそがそういう特別な種類の戯れではないだろうか。
これまで私は、ブログを書きながら、自分のあり方について考えてきた。その作業は度を過ぎず、ほどほどの時間であれば、それこそ悦楽の時間だった。
ーーこんなふうに書くと、異議をはさみたくなる人がいるに違いない。
え?あんたのブログは社会時評みたいなもので、自己省察の要素なんて、これっぽっちもないのではないか、と。
あり得べきこの種の異議に対しては、私なりに言いたいことがある。それについては、次回に述べることにしよう。
*「更新は週に1度」(週刊)と決めたブログは、勢い長文になるきらいがある。
長文のブログは、それだけで読者の(読む)意欲を萎えさせる。
なるべく多くの人に読んでもらいたいと願う私からすれば、
これは明らかに欠点である。
言いたいこと、書きたいことをいかにコンパクトにまとめるか、ーーその工夫も必要だと思っている。
その索漠とした味気ない退屈の感覚を噛みしめながら、おもしろくないなあ、とぼやく私の脳裏に、ぼんやりとだが、パスカルの「気晴らし」についての言説が浮かび、まもなく消えた。
気になったので、ネットで調べてみた。パスカルは次のように述べている。
「このことから、賭けごと、女性(異性)たちとの会話、戦争や手柄があれほど求められるようになる。そこに実際に幸せがあるからでもなければ、真の至福が賭けごとで得られるカネや、狩りで得られるウサギを持つことにあると人々が思い込んでいるからでもない。そんなものは、やると言われても要らないのだから。(中略)そういうわけで、人は獲物よりも狩りを好むのだ。」
(『パンセ』頁数などは不詳。以下同じ)
この文章を、私は次のように理解した。
人は賭けごとや、異性との会話や、戦争や手柄を求める。
だがそれは、そこにホントに幸せがあるからではない。
賭けごとで得られるカネや、狩りで得られる獲物が幸福をもたらすと思うからでもない。
では我々は、なぜ賭けごとや、異性との会話や、戦争や手柄を求めるのかーー。それは、ヒマ潰しのそういう戯れが気晴らし(divertissement)になるからだとパスカルは言う。
「人間は、どれほど悲しみに満たされていても、何か気晴らしに引き込むことができれば、その間は幸せである。」
(『パンセ』)
なるほど、と私は納得した。パスカルの言葉でいえば、ブログ書きは私にとってある種の「気晴らし」だったのである。
リタイア老人が退屈から逃れ、ヒマ潰しをするために必要とする気晴らし、ーーそのためのてっとり早い手立てが、私にとってはブログ書きだったということである。
だが、その「気晴らし」について、パスカルはまた次のようにも述べている。これは私にとっては意外だった。
「われわれの悲惨(みじめ)を和らげてくれる唯一のものは気晴らしである。しかしそれこそがわれわれの悲惨(みじめ)の最たるものである。なぜならこれこそが、われわれが自分について考えることを妨げ、われわれを知らず知らずのうちに滅ぼしてしまうからである。」
(『パンセ』)
う〜む。言われてみれば、たしかにその通りである。気晴らしに没頭しているとき、我々はその戯れに夢中になってつい我を忘れ、「自分について」は何も考えなくなる。
それは「われわれの悲惨(みじめ)の最たるもの」だ、とパスカルは言うが、それもむべなるかなである。自分について何も考えなくなることで、我々は実際「自分を滅ぼしてしまう」のだから。
ここには大いなるパラドックスがある。我々は「退屈」という悲惨(みじめ)を逃れるために「気晴らし」を求めるのだが、気晴らしに没頭することで我々は我を忘れ、「自分を滅ぼす」という「最大の悲惨(みじめ)」に陥ってしまうのである。
だが、なにも狼狽(うろた)えることはない。このパラドックスを抜け出す唯一の道がある。それは、「自分について考えること」がそのまま「気晴らし」になるような、特別な種類の戯れにほかならない。
考えてみれば、ーーいや、考えるまでもなく、ブログ書きこそがそういう特別な種類の戯れではないだろうか。
これまで私は、ブログを書きながら、自分のあり方について考えてきた。その作業は度を過ぎず、ほどほどの時間であれば、それこそ悦楽の時間だった。
ーーこんなふうに書くと、異議をはさみたくなる人がいるに違いない。
え?あんたのブログは社会時評みたいなもので、自己省察の要素なんて、これっぽっちもないのではないか、と。
あり得べきこの種の異議に対しては、私なりに言いたいことがある。それについては、次回に述べることにしよう。
*「更新は週に1度」(週刊)と決めたブログは、勢い長文になるきらいがある。
長文のブログは、それだけで読者の(読む)意欲を萎えさせる。
なるべく多くの人に読んでもらいたいと願う私からすれば、
これは明らかに欠点である。
言いたいこと、書きたいことをいかにコンパクトにまとめるか、ーーその工夫も必要だと思っている。