ささやんの週刊X曜日

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

気晴らしとブログ書きの奇妙な関係

2024-10-26 09:12:16 | 日記
ネタ探しを思いとどまり、ブログ書きを”えいやっ”と放り投げると、そこに顔を出したのは、ヒマを持て余した自分だった。私は、おもしろくないなあ・・・、つまらないなあ・・・、という退屈の感覚に向き合わなければならなかった。

その索漠とした味気ない退屈の感覚を噛みしめながら、おもしろくないなあ、とぼやく私の脳裏に、ぼんやりとだが、パスカルの「気晴らし」についての言説が浮かび、まもなく消えた。

気になったので、ネットで調べてみた。パスカルは次のように述べている。

このことから、賭けごと、女性(異性)たちとの会話、戦争や手柄があれほど求められるようになる。そこに実際に幸せがあるからでもなければ、真の至福が賭けごとで得られるカネや、狩りで得られるウサギを持つことにあると人々が思い込んでいるからでもない。そんなものは、やると言われても要らないのだから。(中略)そういうわけで、人は獲物よりも狩りを好むのだ。
(『パンセ』頁数などは不詳。以下同じ)

この文章を、私は次のように理解した。
人は賭けごとや、異性との会話や、戦争や手柄を求める。
だがそれは、そこにホントに幸せがあるからではない。
賭けごとで得られるカネや、狩りで得られる獲物が幸福をもたらすと思うからでもない。

では我々は、なぜ賭けごとや、異性との会話や、戦争や手柄を求めるのかーー。それは、ヒマ潰しのそういう戯れが気晴らし(divertissement)になるからだとパスカルは言う。

人間は、どれほど悲しみに満たされていても、何か気晴らしに引き込むことができれば、その間は幸せである。
(『パンセ』)

なるほど、と私は納得した。パスカルの言葉でいえば、ブログ書きは私にとってある種の「気晴らし」だったのである。

リタイア老人が退屈から逃れ、ヒマ潰しをするために必要とする気晴らし、ーーそのためのてっとり早い手立てが、私にとってはブログ書きだったということである。

だが、その「気晴らし」について、パスカルはまた次のようにも述べている。これは私にとっては意外だった。


われわれの悲惨(みじめ)を和らげてくれる唯一のものは気晴らしである。しかしそれこそがわれわれの悲惨(みじめ)の最たるものである。なぜならこれこそが、われわれが自分について考えることを妨げ、われわれを知らず知らずのうちに滅ぼしてしまうからである。
(『パンセ』)

う〜む。言われてみれば、たしかにその通りである。気晴らしに没頭しているとき、我々はその戯れに夢中になってつい我を忘れ、「自分について」は何も考えなくなる。
それは「われわれの悲惨(みじめ)の最たるもの」だ、とパスカルは言うが、それもむべなるかなである。自分について何も考えなくなることで、我々は実際「自分を滅ぼしてしまう」のだから。

ここには大いなるパラドックスがある。我々は「退屈」という悲惨(みじめ)を逃れるために「気晴らし」を求めるのだが、気晴らしに没頭することで我々は我を忘れ、「自分を滅ぼす」という「最大の悲惨(みじめ)」に陥ってしまうのである。

だが、なにも狼狽(うろた)えることはない。このパラドックスを抜け出す唯一の道がある。それは、「自分について考えること」がそのまま「気晴らし」になるような、特別な種類の戯れにほかならない。

考えてみれば、ーーいや、考えるまでもなく、ブログ書きこそがそういう特別な種類の戯れではないだろうか。

これまで私は、ブログを書きながら、自分のあり方について考えてきた。その作業は度を過ぎず、ほどほどの時間であれば、それこそ悦楽の時間だった。

ーーこんなふうに書くと、異議をはさみたくなる人がいるに違いない。
え?あんたのブログは社会時評みたいなもので、自己省察の要素なんて、これっぽっちもないのではないか、と。

あり得べきこの種の異議に対しては、私なりに言いたいことがある。それについては、次回に述べることにしよう。


*「更新は週に1度」(週刊)と決めたブログは、勢い長文になるきらいがある。
長文のブログは、それだけで読者の(読む)意欲を萎えさせる。
なるべく多くの人に読んでもらいたいと願う私からすれば、
これは明らかに欠点である。
言いたいこと、書きたいことをいかにコンパクトにまとめるか、ーーその工夫も必要だと思っている。

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変更のお知らせ

2024-10-19 09:45:18 | 日記
何かに追い立てられるように、毎日、ブログのネタ探しに心を奪われ、汲々と日々を過ごす。そんなあくせくした生き方はすっぱりと放り出し、年寄りなら年寄らしく、時間を残らず自分のために用いるような、老年にふさわしい悠々自適の生き方をせよ。ーーそうセネカは言っていた。

その通りだ。残り少ないこの人生。何がおもしろくてそんな社畜営業マンのような窮屈な生き方をしなければならないのか。セネカの言葉にぐさりと胸を刺された私は、とりあえずブログ書きを止めることにしよう、と考えた。

さあ、これで良い。あとはだれのためでもない、この俺さまだけの時間だ。ーーそう考えた私は、久しぶりにのんびりと、ゆったりした時間を過ごした。
何をしたのか。何もしなかった。何を考えるでもなく、ボケーと新聞を読んだり、テレビを見たりして過ごしただけだった。

私は、索漠とした味気ない時間の流れに、ただボ〜と身を浮かばせていただけだったのかもしれない。漠とした予感はあったが、やがて私はそんな自分に倦み、時間を持て余しはじめた。
文章の一字一句にこだわり、推敲をくりかえしていた、きのうまでの自分。そんな自分を懐かしく感じはじめたのである。「そうだな。やはり、ブログ書きを止めるのは、止めよう!」そう私は思ったのだった。

とはいえ、これまでと全く同じではない。ネタが降りてきて、自分の中で書きたいと思う気持ちが高まったときに書く。ネタが降りてこなければ、書かない。
ネタが降りてこないのに、無理やりネタをでっち上げるような、そんな社畜もどきは止めよう。そう思ったのである。

思えば以前にも何度か、同じような決意をかかげたことがあった気がする。だが、この思いは徹底できなかった。結局は元の木阿弥である。
いったんブログ書きを始めてしまうと、何かに尻をたたかれたような気がしてきて、脇目も振らずネタ探しに邁進し、一匹の馬車馬に変身してしまう愚かな自分がいた。ネタが降りてこないのに、無理やりネタをでっち上げ、ブログ書きを毎日のノルマにしてしまう、社畜営業マンのような自分の愚かさは如何ともしがたかった。

今度こそはその轍を踏まないように、と考えた。馬車馬の自分にブレーキをかけるために、ブログ書きはきっかり週に一日だけにしよう。言ってみれば自粛基調の限定的な解禁である。

基本的に更新は週に一度。
ブログのタイトルを「ささやんの週刊X曜日」と変更したゆえんである。
諒とされたい。


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セネカの言葉に想う

2024-10-16 11:26:40 | 日記
きのうは久々にデイサに「通勤」した。いつものようにリハビリまでのスキマ時間に(かねてからの懸案の書)『老年の読書』(前田速夫著)を読みはじめた。
え?『ロング・グッドバイ』(R・チャンドラー)はどうしたのか、ですって? ああ、あれはですね、止めました。完全ギブ・アップです。
コロナでデイサ通いを中断していた間、この浩瀚な小説を読まなかったら、これまでのストーリーはすっかり忘れ、先を読む意欲がすっかり萎えてしまったのです。ずっと以前、この小説を単行本で読み、感激したことが信じられません。ま、老年の私には、この本を読み切るだけの体力が失せてしまったということなのでしょう。

それはそうと、そうなれば私が老年にふさわしい懸案の書『老年の読書』に向かうのは必然だった。きのう私はこの本を初めて手にし、さっそく素晴らしい言葉に出会ったのである。

素晴らしい、という表現が適切かどうかはわからない。
なぜかはわからないが、この言葉がぐさりと私の胸に刺さったのである。
ローマ帝国時代の哲人にして文人政治家・セネカの言葉である。

誰もが 現在あるものに 倦怠感を覚えて生を先へ先へと急がせ、 未来への憧れにあくせくするのである。だが、時間を残らず 自分の用のためだけに使い、1日1日を、あたかも それが最後の日てでもあるようにして管理する者は、明日を待ち望むことなく明日を恐れることもない。

人は、より善く生きようとして、なおさらせわしなく何かに忙殺される。生の犠牲の上に生を築こうとするのだ。

ここには、愚かな時間の過ごし方との対比で、賢明な老年の迎え方が説かれている。
平たく言えば、「悠々自適のすすめ」である。セネカは62歳まで政界に身をおき、仕事に忙殺されていたというから、この言葉は、そんな自分への戒めとして書かれたのだろう。

だがこの言葉を、私は自分に向けられた言葉として受け止めた。
愚か者は「現在あるものに倦怠感を覚えて 、生を先へ先へと急がせ、未来への憧れにあくせくする」。また、「より善く生きようとして、なおさらせわしなく何かに忙殺される」。ーーこれは、これまでの自分の生き方、そして、いまだに縁が切れない自分の生き方ではないか、と私は思ったのである。

若い頃、私は三島由紀夫にかぶれていた。三島と同じく、毎日を「けだるく、退屈な日常」と感じ、未来の「椿事」に憧れながら暮らしていた。
高校生だった頃は、毎日、受験勉強に明け暮れながら、大学生になった(未来の)自分を夢見ていた。大学生になってからは、自分の「未来」をはっきり描くことはできなかったが、その瀑とした「未来」に「椿事」が起こることをを夢見ながら、退屈な日常をやり過ごしていた。

年老いた今はどうかといえば、若かった頃とほとんど変わらない。さすがに「未来を夢見る」ことはなくなったが、毎日毎日、あくせくとブログのネタを探しながら、退屈な日常をやり過ごしている。
毎日毎日、ブログ書きに追われる老年の自分が、若かった頃の自分とほとんど変わらないこと、そのことを、セネカの言葉は気づかせてくれた。そして、現在の生を犠牲にし、今を享受しようとしないそんなおまえは愚かだ、と一喝されたように思ったのである。
そんなにあくせくとあわただしい日々を送りながら、おまえは残り少ない人生を終えて良いのか、私はセネカに、そんな問いを突きつけられたように感じたのだった。

ブログ記事のネタ探しに追われる目下の生き方を止めたらどうなるのか。「あたかもそれが最後の日てもあるように」、現在という時間を(ブログ書きのためではなく)「残らず自分の用のためだけに使う」ようにしたら、どうなるのだろう。現在を享受できる(賢明な)自分になれるのだろうか。

ほんのちょっぴり勇気を出して、その気になりさえすればあしたからでも出来ることなのに、ーーそう考えている自分がいる。
どうしようかなあ・・・。

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久々のデイサ

2024-10-15 09:55:00 | 日記
きょうからデイサに復帰しようと思う。
コロナに感染していることが判ったのが、10月8日だった。
クスリを飲みはじめてからきょうでちょうど1週間。
コロナ・ウイルスも我が体内から退散したことだろう。

1週間ほどの療養生活を振り返ってみると、
「ああ、コロナに罹っちまった!」という大病の実感はない。
自覚症状は、ほんの軽微なものだった。
熱が38・5℃まで上がったことがあり、
このときはちょっと身体がだるかったが、
解熱剤を飲んだらすぐに平熱に戻った。
あとは、喉が少し痛み、
痰が絡むようになったことぐらいだろうか。
ドクターNに「ゾコーバ」という1錠1万円もする
特効薬を出してもらってからは、
自分がコロナに取り憑かれていることなど、
忘れてしまうほどだった。

唯一、困ったのは、訪看さんが
シャワー浴の介助をしてくれなくなったことである。
ノー・マスクのシャワー浴は感染の恐れがある、
ということで、代わりに「清拭」での対応、
ということになった。

デイサは欠勤したので、その分のヒマができ、
ブログ書きが好いヒマ潰しになった。

相変わらず、ネタ不足には悩まされたが、
まあ、そんなことぐらいだろうか。
きょうは久々のデイサ。服装はどうしようか、と考えた。
10月も半ばだというのに、外はピーカンの真夏日。かなり暑そうだ。
大洪水に見舞われた他国に比べればまだマシだが、
地球沸騰化のせいで、日本列島は
季節を失ってしまったのだろうか。
やれやれ。

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金正恩にとって石破首相は

2024-10-14 14:34:11 | 日記
言葉には力がある。効果を意図して口に出される言葉もある。北朝鮮の金正恩が「核強国」発言をしたとき、彼は何を意図したのだろうか。

こんなニュースを聞いた。

北朝鮮の金正恩朝鮮労働党総書記は7日、金正恩国防総合大学で演説した。正恩氏は『敵を抑止し情勢管理の力を備える(北朝鮮の)自衛の論理は完璧で正当だ』と主張。『軍事超大国、核強国へと向かうわれわれの歩みは加速する』と述べた。朝鮮中央通信が8日伝えた。
(時事通信10月8日配信)

我が国は「核強国」へと向かって歩んでいる。ーー金正恩のこの言葉は、いうまでもなく「最大の敵」とみなすアメリカに、また、「第1の敵国」とみなす韓国に向けられている。当然、アメリカ、韓国と同盟関係にある日本にも向けられているはずだ。

この言葉を我が日本に向けられた言葉として聞くとき、実に興味深い事実が浮かび上がる。
前にも本ブログで書いたことだが、北朝鮮は日本で何かがあると、それに呼応するようにミサイルをぶっ放すなど、大きな動きを見せる。

前回、北朝鮮がミサイルをぶっ放したのは、自民党総裁選の只中だった。
「おいおい、俺たちのことを忘れちゃ困るぜ。ミサイル攻撃に備えて、せいぜい国家防衛に励むんだな」。
このとき、ミサイルをぶっ放すことで、北朝鮮は何をねらったのか。表面的に見れば、このタイミングでのミサイル発射は、(軍備増強を主張する)高市候補や、石破候補のサポートをねらったもののように見える。

では、今回の「核強国」発言はどうなのか。
私の念頭に浮かんだのは、次の記事である。。

日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)のノーベル平和賞決定を受け、野党は核兵器禁止条約への日本の参加を主張したが、石破茂首相(自民党総裁)は慎重な立場を示した。
核兵器を包括的に違法とする核禁条約は70以上の国・地域が批准しているが、米国の『核の傘』に入る日本は批准せず、締約国会議へのオブザーバー参加もしていない。
立憲民主党の野田佳彦代表はオブザーバー参加を、共産党の田村智子委員長が条約批准を要求。首相は『核のない世界を究極的にはつくりたい。そこに至る道筋をどう現実にやっていくか』とする一方、『核抑止力から目を背けてはいけない』『現実として抑止力は機能している』とも言及。オブザーバー参加などへの明言は避けつつ、核の力で相手の攻撃を思いとどまらせる『核抑止』の重要性を強調した。

(朝日新聞10月13日)

この記事を読みながら、私は、金正恩の「核強国」発言を思い浮かべたのである。すぐ近くに我が国を敵視する「核強国」がある、という事実は、石破首相の発言に説得力を持たせないだろうか。
今回の金正恩の「核強国」発言は、石破首相のかねてからの持論の、そのサポートをねらったものに思えるのだが、どうなのだろう。妄想癖のある天邪鬼爺から見ると、北の金正恩は、日本の石破首相と「親密な悪友」の関係を築きたがっているように思えて仕方がない

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